幸福論改訂 +++++ 9 | |
「−−さん、昔は碁が嫌いだったって聞きましたけど、本当なんですか?」 ちゃんから聞いたの?と白川さんはいつもの和やかな笑顔を見せながら、差し出した缶のお茶を俺の手から受け取った。珍しくも大手合が重なり、一緒に昼食をした後だった。 「本当だよ。碁をやってるところなんて見たくないって、ちゃんが中学の頃かな?会ってもくれなくってね。正直辛かったね」 彼の言葉と表情から察せられるそれに、訊かなければ良かったかと後悔した。白川さんが彼女の気持ちを知っていたのか気に掛かって、あまりにもちょうど良い機会が目の前にあったから、つい尋ねてしまったのだ。こういうことに聡い自分に少しばかり嫌気を感じながら、これではまるで道化師のようだと、心の中で苦笑いをする。多分、十年前だったら、間違いなく、そうなっていただろう。 「白川さん……」 プルタブを開け、缶に口を付けると白川さんは俺の顔を見て続けた。 「うん。初恋は実らないものだって言うから仕方がないよね」 そう言って笑った白川さんに、俺は何て言おうかと迷いながら開いた口を押し止めるように、穏やかな口調のまま白川さんは俺に尋ねた。 「冴木君もそうだろう?」 「……そうですね」 「ちゃんもそうだし、みんな、お相子だね」 相子なんかではなく、タイミングが合っていれば今は恋人同士になっていたことを白川さんもさんも知らず、そして、それを知っている唯一かも知れない俺はそのことを口にしない。さんと約束したからだけではなく、今更知っても二人とも戸惑うしかないことが解っているからだ。 本当に、道化だと思い、溜息を吐いた。 「白川さん、そういうことは相子じゃなくても良いものだと決まっていますが」 「そうかい?まあ、でも相子の方が良いと僕は思うな」 「そうですか?」 恋愛が不平等なのは、才能が平等じゃないのと同じだ。自らの意思とは関係なくそれは身の内に住まい、努力が報われるものでもなく、かといって努力なしで成り立つことは少なく、その不満をぶつける場所が何処かにあるわけでもなく、ただ自分の中で折り合いを、解決を、しなくてはならない。そして不平等という点に置いて、みんな平等だ。 だから、それで良いと俺は思う。そうして遣る瀬なさを噛み締めるのも人生の彩りの一つの筈だ。 「白川さんらしいですね」 「有難う」 そう言ってやはり穏やかに笑う兄弟子の表情は、どこかしらさんに似ているような気がした。 飲み終わった缶を彼の分も受け取ってゴミ箱へ向かった背中を白川さんの声が追ってきた。 「そう言えば、来週の研究会にちゃんが来るって。みんなで御飯食べようって言ってたけど、冴木君は大丈夫?」 「はい。研究会に出ますから」 そのことはこの間、彼女から聞いていたから予定に入れてあった。缶を捨てて戻ると頷く。 「じゃあ宜しく。和谷君と進藤君はどうかな?」 「少なくとも和谷は何も入ってなかった筈だから来ると思いますよ」 「良かった。ちゃんは和谷君がお気に入りだから」 彼の言葉に僅かに驚く。そのことは聞いたことがなかった。 「そうだったんですか?知りませんでした」 「あはは、大丈夫。一番のお気に入りは冴木君で不動だよ」 「白川さん、揶揄わないで下さい。和谷と張り合う気はありませんよ」 この穏やかな兄弟子は、時々どこまでが本気なのか解らない時がある。嘆息すると、そろそろ戻りましょうと促した。 棋院の近くのファミリーレストランで久々にみんなと食事を摂った。前にさんが棋院に顔を出したのが二ヶ月ほど前だから、それくらい振りになるだろうか。進藤は研究会に顔を出さなかったので、さんと白川さん、和谷に俺の四人でテーブルに着いた。今日の研究会に来てから彼女が来るのを知った和谷は、万が一にも欠席していたらどうするのかと、先に言っておいて欲しいと白川さんに抗議していて、その表情があまりにも真剣だったから可笑しかった。 その和谷はと言えば、さっきから楽しそうに向かいのさんに話し掛けている。頷くさんも楽しそうで、仲の良い姉弟を見るようで微笑ましく、目の前の白川さんとこっそり目で笑い合った。 「−−なに?どうしたの?白川さん、冴木さん。二人で笑ったりして」 目敏くそれを見付けた和谷が俺と白川さんに問い掛けてきたのに、もう一度顔を見合わせて笑うと、和谷の頭をくしゃりと撫でた。 「いや、何でもない。ハンバーグ、美味しいか?」 「おいしいけど、何だよ。すっきりしないなぁ」 「まあまあ、和谷君。ライスはお代わりしなくて良いのかい?」 「する」 声を上げる和谷に笑いつつ、テーブルの上をさんの視線が彷徨うのが視界に入る。目の前にあった胡椒を取るとさんの前に置いた。 「これですか?」 「あ、そう。有難う、冴木くん」 嬉しそうに胡椒をさんはドリアにかけた。その様子を見ていた和谷が、突然、意味不明なことを言い放った。 「……なんかさんと冴木さんて変わった?」 「は?なに言ってんだ、和谷?」 「変わったって何が?」 和谷の何を指していっているのか判らない言葉に、さんと俺は口々に問う。二人一緒に訊かれてたじたじとなりながら、和谷はもう一度口を開く。 「だから、えーと。なんか二人の雰囲気が違う気がする」 彼女と顔を合わせて互いに問い掛けるが思い当たることもなく、視線を和谷に戻した。 「そうか?」 「うん」 自信たっぷりに断言されても、何て答えて良いのか困る。ちらりとさんを見ると、頬に指を当てながら首を傾げた。 「私が冴木くんに慣れたのかしら?」 「慣れるって何ですか?」 ペットの話をするような表現に笑ってしまう。まるで俺がさんを飼っているようだ。 「私、人見知りするし」 「それはきっぱり嘘でしょう」 「あ、本当よ。ねぇ、お兄ちゃん」 俺から却下を受けた為、白川さんを味方に付けようとするが、白川さんに事実を曲げる気はないようだ。 「それは本当に嘘じゃないかと。ねぇ、和谷君」 「え?えっ?!オレー?!」 お鉢が回ってきた和谷が焦って、助けがないか周りを見回すが、生憎と求めるそれは差し出されることなく、額に汗を浮かべながら嘘は吐かないよう、必死にさんに言い訳をする。それを眺めながら、俺と白川さんは笑った。 以前と同じように彼女を助手席に乗せて、マンションを目指す。たわいないいつもと変わりのない会話を交わしてハンドルを握りながら、時々彼女の横顔を盗み見る。夜の乏しい光の中では表情が消されて何を考えているのか読めない。彼女の思考とタイミングを計りながら、頭の片隅で和谷の言葉を思い出した。 変わったというなら、自分もさんも確かに変わったかもしれない。関係が変わり、気持ちが変わり。今の状態は気心の知れた友達、というより共犯者のようで正直楽しい。けれど、いつの間にかもっと変えたいと思ってしまった。これがどう転ぶか分からないけれど、望んでしまったのだからその方向に努力するしかないだろう。 あと数分でマンションに着く所まで来た時、ゆっくり彼女の名前を呼んだ。 「−−さん」 「なに?」 すぐに返ってくる声と微かな視線。きっと今から俺が口にする言葉に対して何の構えもないのだろう。ほんの少し間を置いて、それから続けた。 「いま好きな人、居ますか?」 「……どうしたの?急に」 車内に響くラジオとエンジン音に紛れるような僅かな沈黙の後、理由を問われる。向けられている視線には何の感情も上っていないだろうことが知れる静かな声だった。 「ん、知りたくて。ああ、でも別に言いたくなかったらいいです」 「冴木くん、可笑しい。知りたいって言いながら、言わなくて良いなんて」 小さな笑みが彼女の口許に広がった気配がした。次の信号が赤に変わり、ブレーキを踏んで、彼女に視線を向ける。真正面から視線が重なった。 「ああ、そうですね。知りたいけど、さんに好きな人が居ても居なくても、つまりは同じですから」 「……」 同じように小さな笑みを浮かべると、さんは戸惑うように瞳を逸らした。 多分、察しの良い彼女のことだから、もう判っているのだろう。迷うように睫毛が伏せられるのを見ながら、躱す隙を潰すように告げた。 「俺はさんが好きです。付き合って貰えませんか?」 ゆっくり戻された視線が絡むのを待ってから顔を正面に戻し、青へと変わった指示機の通りに車を走らせた。 |
何とかここまで来ました。長かったですね(笑)。そしてまだ長くなりそうな気がします(汗)。次は彼女サイドの予定です。 20040510 |