幸福論改訂 +++++ 11 | |
確認をしたわけではないけれど、次の森下先生の研究会の日が約束の日の筈で、従兄に顔を出すと連絡した受話器を置いて、溜息を一つ吐いた。 あと四日で一ヶ月−−正確に言うとあの日から四週間が経つ。その間、返す答えを探しながら、見ない振りをしていて、それももう決着を付けなくてはいけない。圧迫を受ける胸の鈍痛が胃の重さと相まって、逃げ出したくなる。 答えは返さないといけない。解っている。解っているけど、返したくなくて仕方がなかった。あの時、あの車の中で、何も考えずに答えを出してしまえば良かった。そうしたら、こんなに苦しい気持ちにはならなかったのに。躱す場のないあそこで、差し出された救いの手はその場凌ぎでしかないことを解っていて、それでも楽に、あまりにも優しく見えたから自ら取ってしまった。今となっては、それを正反対に思う自分が可笑しくて、笑うことさえ出来ない。 キッチンに足を向けて、何か飲もうと探すけれど、生憎、酔えそうなものは料理酒ぐらいしかなくて、冷蔵庫からミネラルウォーターを出してグラスに注いだ。 ダイニングチェアに腰掛けて、壁の時計を見る。土曜の夜の九時。タイムリミットまであと四日。時間にすると七十二時間を切るかもしれない。そう考えて、身体が震えた。 ……私はここで何をして居るんだろう。 『前と変わらず』居られるのはあと四日しかない。悩むならそれこそ通勤途上で、お風呂の中で、夢の中で悩めばいい。プラスの答えを出す確率が低いなら尚更、折角、貰った猶予の時間、このまま徒に過ごしてどうするのだろう。居た堪れない焦燥感に襲われる。 頭をふるりと振って、カップボードの上に置いてあった携帯を手に取った。壊してしまった翌日、新しい機種にした携帯。出掛けているかもと、頭の片隅を過ぎったけれど、履歴の中から冴木くんの番号を選び、息を大きく吸い込んで、通話を押した。いつもの冴木くんと会いたかった。 三コールで出た冴木くんに、ほんの少し、目頭が温かくなった。 駅前には夜遅くまで開いている飲み屋や喫茶店があって、悩んだ末、カフェバーに入った。約四週間振りに会う冴木くんは外見上は変わっていなくて、心の内でほっと安堵の息を吐いた。 「−−さん、何にしますか?」 「ディタモニにしようかな」 「了解。ディタモニとジントニック、それにチーズの盛り合わせをお願いします」 カウンター越しにマスターに頼む冴木くんを見ていると、振り向いた彼と目が合った。 「何ですか?」 カフェバーらしく落としすぎない照明の中で、面白そうに作られた冴木くん表情が綺麗に向けられる。本当に造作が綺麗なんだと今更ながらに再認識した。 「ううん、久し振りだなぁと思って」 「そうですね。約一月振りですね」 さらりと流された言葉に、一瞬、気を取られるけれど、何でもないように忘れていないことを示す。 「そうね。あ、火曜日はまた棋院にお邪魔するから」 「待ってます」 そう言って口許に笑みを掃く冴木くんから、少しだけ視線を外した。 「そう言えばさんと飲みのは初めてですね」 「いつも色気なく、食べるばかりだものね」 くすりと笑って、マスターが目の前に置いてくれたグラスを手にする。 「じゃあ乾杯」 目の高さでグラスを触れ合わせるように僅かに傾けると、目を見合わせた。口にしたディタのカクテルは甘くて、どうしてか胸が疼いた。 † 彼女に告白してから、一月−−四週間後の師匠の研究会。かなり早めに着いたにも拘わらず、既に鍵は貸し出されていた。三和土で靴を脱ぎながら、綺麗に揃えられている革靴に首を傾げる。どう見ても、和谷や進藤のものではない。後は白川さん辺りかと見当を付けて襖を開けると、案の定、座布団を持った白川さんが振り返った。 「冴木くん、早いね」 「早いのは白川さんですよ。手伝います」 碁盤を取り敢えず三つ出して、ポットに水を汲み、電源を入れる。お茶の支度をして一息吐くと、窓から入ってくる風が気持ち良かった。空は蒼く、風に白い雲が流れていく。 「−−今日は、冴木くん、夕食まで大丈夫かい?」 一足先に、座布団の上で寛いでいた白川さんに声を掛けられ、意識を部屋に引き戻す。 「大丈夫ですよ。さん、来るんですよね」 「あ、ちゃんから聞いてた?」 碁盤を挟んで白川さんの向かいに腰を下ろすと、碁笥を引き寄せた。蓋を開けると白石だった。 「土曜日、飲んでたので」 「ちゃん、強いでしょう?」 「強いですか。二杯で酔ったみたいだって言ってましたけど」 じゃらりと白石を一掴み握っては放しを繰り返すと、白川さんが身を乗り出してきた。顔を見ると頷いた為、改めて石をニギると、手を差し出した。 「奇数。それは体調悪かったんだよ」 「ああ、そう言えば、寝不足のようでした」 その原因はおそらく自分にあるのだろう。 土曜に電話が掛かってきて、会って、分かってしまった。振り出した賽の目が悪い方へと出たようだった。彼女の中で俺は友人としか成り得なかったらしい。ただの友人より、もう少しランクが上の友人とそれくらいは自惚れて良いだろう。悩ませたようだから、それくらいは許して欲しい。うっすら見える目の下のクマに愛しさが募り、だから、それで我慢しようと思えた。 盤上に置いた碁石は六つで、白石の碁笥を白川さんに渡し、脇の黒石を取り上げた。 「「お願いします」」 もしかすると、目の前の兄弟子を恨んだらいいのかもしれない。従妹を連れてきたという理由で。そう考えて苦笑した。色恋沙汰なんて誰の所為でもないのに。強いて言えば、原因も帰結も自分にあるものなのに。 「どうしたんだい?」 「あ、ちょっと思い出して」 何でもないと首を振って、黒石を置く。 答えが返ってくるまで、あと数時間。この気持ちで今日はどこまで碁が打てるだろうかと、まるで修行僧の心持ちで現実逃避と紙一重の思考を広げていった。 車内の言葉が途切れがちで、さっきまでの店での和やかな空気は遠い世界のものだった。沈黙は何時もと異なり優しくなく、重い訳ではないが、苦かった。流れ続けているラジオの音だけがこの場を取り持っていた。 おそらくマンションに着けば終わるだろうこの関係が遣る瀬なくて、いつまでも車を走らせていたいような、この沈黙に居た堪れずにいるだろう彼女を解放してあげたくて、早く車を止めたいような、相反する思いに運転は殊更丁寧に、それでいて効率よく帰途を辿る。 駐車場にビートルを止め、サイドブレーキを掛けるとエンジンを切る。いつもと変わらない口調を心掛けて、声を掛けた。 「−−さん、着きました」 シートベルトを外しながら視線を向けると、一瞬、泣きそうに顔が歪んだように見えた。 「うん。有難う」 心なしか掠れて聞こえる声に、胸を掴まれる気がした。 「冴木くん……」 「はい」 ほんの少しの沈黙を置いてから、前を向いたままさんは話し出した。 「……この前の話だけど。私、冴木くんの気持ちに答えられない。冴木くんは大切な友人で、恋愛感情を冴木くんに抱けない、みたい。でも好きだから、気持ちは本当に嬉しかった」 一言一言を流すように使わないで、刻むように言葉にしていくさんに、どうにも望みのないことを知らされた心臓の痛みと、誤魔化すようにして断ることも出来た筈なのに、その方法を選ばなかった彼女に改めて好きだと思う気持ちが混じり合って、その結果、自然と浮かんだのは、小さい笑みだった。 「有難うございます。さん」 「冴木くん……」 「さんに大切だと言って貰えて嬉しいです。好きになって貰えたなら、もっと嬉しかったけれど、それは仕方がないことなので諦めます」 思ったよりも冷静な声を出せる自分が可笑しかった。胸の中は名前の付けられない感情が渦巻き、内壁が無数に傷ついている気さえするのに、表層はいつもと変わらないでいるようだった。碁を打っている時のポーカーフェイスとも違う、感情と肉体から剥離したような心持ちだった。 唇を引き結んで彼女は俺の目を見返すと、瞬きをして目を僅かに伏せた。その様子があまりにも辛そうで、知らず知らずのうちに右手を伸ばすと彼女の髪にそっと触れた。 「さん、泣かないで下さい」 「泣いてなんか、ないから」 弾かれたように顔が上げられ、かち合った目は潤んでいるように見えたが、きっと違うのだろう。 ゆっくり指に柔らかい髪を梳くと、半身を乗り出して、すぐ近くにある彼女の左の目尻に口付けた。身体的に何の反応も返されなかったことが嬉しかった。再び、絡んだ視線の中には読み取れるような感情は何もなく、もう一度、髪を梳くと、そのまま手を離した。 「そうですね。泣いてないですね」 痛々しく泣く姿を見ているから、僅かでも俺の為に泣いて欲しくないと思う。出来ればいつだって笑っていて欲しいと思う。だから、微笑って言った。 「降りましょうか。家まで送ります」 「……うん。有難う」 彼女が身体の向きを変えドアロックを解除するのを姿を見ながら、助手席に彼女が座るのはきっとこれが最後だろうと、そう思った。 |
こんな酷いところで切って御免なさい。一月待たせた挙げ句、この仕打ち。謝罪のしようもありません…。次はもう少しいい目を見させてあげられるかと思います(た、多分…)。 20040801 |