数学・物理 100の方程式

act. 4

兄は学生結婚をして大学卒業前に二児の父となったが、やはり町内に知れ渡るのはあっという間だった。小学生で「叔父さん」になってしまい、学校でからかわれたのは一度や二度ではなかった。
あの頃は少々恨んだものの、今となっては感謝している。兄夫婦と同居し、五人に増えた孫に囲まれている両親は、嫁いだ姉にも「早く孫の顔を」とは言わないそうだ。
『元々そういうデリカシーのないこと言わないじゃない、お父さんもお母さんも。だからこの先も「可愛い末男ちゃんの子供が見たぁい」なんてせっつき方はしないでしょ』
姉は電話で笑っていたが、こちらは冷や汗ものだった。気付いていると思ってはいた。
しかし暗黙の了解というやつで、不干渉に徹していると勝手に信じていた。
いずれ打ち明けることになるのかもしれない……それだけの恩は受けている。
今住んでいる部屋も姉の持ち物だ。三十五歳になる前に、清水の舞台から飛び降りる気で購入したというマンションは、2LDKSで一つ一つの部屋も広い。
子供が出来れば手狭に感じるかもしれないが夫婦二人ならさして不自由は無いだろう。
けれども姉は結婚と同時にマンションを自分に明渡し、夫の両親と共に暮らし始めた。
『どうせ長男の嫁なんだし、早いとこ同居して慣れておくわ。あ、家賃は払ってよ。まだ少しローン残ってるし』
請求してきた金額は、もう少し郊外にあるワンルームの家賃程度。
これから物入りになるのだから売ってしまった方が、と両親が言うと、売るのはいつでもできるし、底値で買ったから大損はしないと突っぱねて自分にお鉢を回してきた。
『損するくらいなら末男に売りつけるからいいもんね―――あんた貯金しときなさいよ。払った家賃の分は引いてあげるから』
両親と兄が叱ると、舌を出して逃げて行った。
『末男、引越しの金は兄ちゃんが出してやるから別の部屋を探せ』
怒る兄に、同じ家賃ではもっと遠くの狭い部屋しか借りられないと必死で説明した。
兄は渋々ながらも自分が姉の部屋に留まるのを認めてくれた。
『まったく、買う時は大口叩いたくせに』
安いうちに買っておきたいが一括払いは無理だからと姉にローンの保証人を頼まれた時、「まさか一生結婚しない気か」と心配したそうだ。
すぐに判をつき、そんなことを考えているようには見えなかったけれども。
姉が見せた支払い計画書と通帳の残高に自分や両親と一緒に驚きつつも、これなら大丈夫と納得して引き受けたのだとばかり思っていた。
そう言うと、兄は不機嫌そうに答えた。
『あいつに貯金がなくても引き受けたさ。払うといったら払う奴だ。万一駄目ならかぶる覚悟もしてたがな。ただなぁ、なまじ自分でどうにかできるから、この先もずっと一人でやっていきそうなところが気になったんだよ。いつの間にこんなに貯めたって俺が聞いた時、あいつが何て言ったか覚えてるだろ?』
確かにあれは凄かった。
親元を離れ都会で一人暮らしをしていたのに一体どうやって、と驚く家族を前にして姉はアメコミのヒーローよろしく両手を腰に当てて高笑いした。
『時代があたしに味方したのよ』
就職難に喘ぐ女子学生が聞いたら、後ろから刺したくなるような傲慢な台詞だった。
生まれた時代が良かったのは間違いない。男女雇用機会均等法施行後、バブルが弾ける寸前に就職し、かろうじて恩恵に与った世代だ。
しかし、それだけで今まで残れたわけでもあるまい。
たとえ相手が家族でも、強がりを交えた自慢話はしても弱音を吐かない姉だった。
義兄には柔らかな部分を晒せるのだろうか。
一見武骨だが優しい目をしたあの男が、姉を大切にしてくれることを祈っている。
姉は否定したが、今の部屋も新婚生活を送るために購入したはずだ。
この先一生結婚しそうにない弟の居場所を作ってやるため、姉は大切な部屋を明け渡した。
いくつになってもぼんやりした末っ子が心配で仕方ないらしい。
それに甘えてちゃっかり上がり込むようでは、無理もないだろう。
―――新しい家庭を作るべく用意された部屋だったのに、住んでいるのは一人身のホモ。
皮肉を通り越して天罰のような気すらしてくる。
姉と暮らしていた時は、あんなに広いと思わなかった。
いっそ狭苦しいワンルームであれば、ここまで寂しくならなかったのか。

今日は久しぶりに沢山話したような気がする。人恋しくなっていたかもしれない。
職場の人間以外とは、ろくに喋らない生活が続いていた。
明日から再び繰り返され……多分、死ぬまでこのままだ。
日常の些細な出来事を話す相手がいるのは、幸せだと思う。嬉しかったから、楽しかった
から、一緒に喜んでほしくて語り聞かせる相手が、今の自分にはいない。
すれ違う二人連れの全てが幸福とは限らないが、腕を組み、肩を寄せ合う相手がいる分、自分よりましだと思う。…そういえば先程から出来上がった風の二人組ばかり見かける。
一人で荷物を抱えて歩いている自分は、すっかり周囲から浮き上がっていた。場所と時間を考えたら当然だろう。駅前から少し離れたこの辺りには、ラブホテルが密集している。
薔薇高校がある八百一町は官庁街に近いが、巨大ビルは殆どなく、都心の割には空が広い。
低層マンションや塀の高い一戸建てが多い超高級住宅街で、狭間に大使館が点在している。
その一方で有名なホテル街が駅のすぐ裏に控えているのだ。
よく住民が許したものだと最初は驚いたしギャップも感じたが、不景気の中でも全国有数の地価の高い地域だから、相続等で手放すことも多いと思われる。
学校や病院は駅の反対側にあり、新規に創設してホテル建設を阻むというありがちな方法も、やはり地価の高さゆえに無理だったのだろう。
―――いくら一人とはいえ、こんな所を歩いているのを学校関係者に見られたら面倒だ。
“今どき珍しい堅物で、授業はまだぎこちないが真面目な新人”という評価を手放す気はない。家が近いといっても最寄駅から二つも手前だから、帰宅途中では通らないだろう。
一刻も早く通り抜けてしまおうと歩みを速めたその時、ホテルの真ん前で抱き合う二人が目に入った。
長身の男に抱きかかえられ、俯いている女の子―――服装から見て、かなり若い。
援助交際の四文字が頭に浮かんだが、男の横顔を見てそれはないかと思い直した。
年も若く、顔も身なりも綺麗な男。金を払ってまで厄介を背負い込む必要はなさそうだ。
この男が連れて歩くのなら、女の子もそうそう見苦しい格好はしていないのでは。
顔の方も、よくは見えないがかなり―――。
不躾な注視に気づいたのか、不意に女の子が面を上げた。
慌てて視線を逸らしにかかったが、思わぬ顔を見つけてその場に固まってしまう。
『あれ?―――珍しいとこで会うな』
かなり不味い局面なのに、余裕の笑顔で片手を上げたのは、薔薇高一の美少年だった。
男に何やら小声で告げると、腕の中からすり抜けて近寄ってきた。
『おー、ちゃんとこういうのも持ってんじゃん』
暢気な顔で、一張羅のスーツの肩を軽く叩いた。学校に着ていくスーツとは桁が一つ違うこれは、大学の卒業祝いに姉がプレゼントしてくれたオーダーメイドだ。
『何でいつもこういうのにしねえの? わざとダサくするにしても、ありゃねえだろ』
普段の服装を酷評された上に、狙っていることも指摘された。
しかし下手に気取って若い雄ガキの群れに飛び込めば叩かれるに決まっている。
上司や同僚の受けも考慮すれば「野暮ったいが不潔ではない」位にしておくのが無難だ。
……いや、そんなことより。
『き、君、なんでこんなところに』
『こんなところって、あんただっているくせに』
苦笑を浮かべる彼に、「いつも元気で可愛い茂門賀くん」の面影は微塵もない。
『僕は家に帰る途中で……じゃなくって、あの男は誰だ』
教師面などしたくはないが、見てしまった以上は仕方ない。
『さて、誰でしょう?―――俺、帰る』
振り返って男に言うと、勝手に腕を組んできた。
『ちょ、ちょっと』
男はといえば、不服そうな顔をしてみせたものの引き止めるそぶりも見せずに踵を返した。
『愚図愚図してっと、がっついてるのに引きずり込まれるぜ。うちまで送ってやっから』
脅しの台詞と強引な腕に負け、引っ張られるようにして歩き出した。
『いいよ、こんな時間に。君こそ早く家に帰りなさい』
『俺んちはこっからすぐだから大丈夫。そっちこそ帰る途中って言うけどさ、あんまこの辺で見たことないんだけど。電車通勤じゃなかったっけ?』
口振りからして徒歩圏内の地元っ子らしい。住まいがマンションであれ一戸建てであれ、金満家の子弟に違いあるまい。
親の金で遊びほうけて、締めは男とホテル行き。結構な御身分だ。
こんな子だとは思わなかった。
勝手に失望して腹を立てている自分の理不尽さは承知している。
よく知りもせずに、「男の手を引いて物陰にしけこむ輩とは違う」と思い込む方が悪い。
だが、欲望を隠そうともしない少年達に対する醜い嫉妬も、彼の健やかな姿を見ることで
かろうじて抑制できていたのだ。………次からは八つ当たりしてしまいそうな自分が怖い。
『どっち?』
自分の思い入れなど関知しない少年が、無邪気に尋ねてくる。
『……一人で帰れる』
『んなこと言って、身ぐるみはがれてから泣くなよ?』
昨日今日田舎から出てきたばかりじゃあるまいし馬鹿にするなと言いたくなったが、角を曲がったところで出くわした男を見て、はがれる前に泣きたくなった。
『あれ、またえらく可愛いの連れてるな』
『うっせえな、そんなんじゃねっつの』
通りすがりざまに男の二の腕をはたき、歩を緩める様子のない彼についていった方が安全だろう。スキンヘッドの頭頂部まで及ぶ刺青なんて、間近で見たくなかったと思う自分はどうやっても都会に馴染めない田舎者だ。
『大丈夫。なんもしねえから』
『させやしないの間違いだろ?―――怒られないうちに行くわ。んじゃな』
笑って去った男の台詞から、彼がそれなりに名前が通っているらしいと見当がついた。
ホテル街を抜けて通行人が増えてくるにつれ、声をかけてくる人々も増えていった。
『…いつも、この辺をうろついているのか?…こんな時間に…』
『んー。やっぱ近いし』
そんな近場で男といちゃつく神経は理解しがたい。
『物騒な所もあるけどな。他所に比べりゃ可愛いもんだけど、ちょっと近道位のつもりで通り抜けるのはやめとけや』
夜の町を闊歩する姿は学校で見かけるのとはまるで別人だった。何かと生徒に侮られがちな新米にも敬意を払ってくれる成績優秀な美少年なんて、所詮は架空の生き物か。
「田舎者の幻想を打ち砕いてくれてありがとう」と礼を言うべきかもしれない。
ターミナル駅前に戻ったところで、彼が一旦止まった。
『さて、と。こっから先も酔っ払いが多いし…で、マジな話どこよ』
そこで振り切って一人で帰ればよさそうなものを、馬鹿正直に二つ先の駅名を答える辺り正真正銘の酔っ払いだ。彼にも、本気で歩いて帰る気だったのかと呆れられた。
『だから、いいって言ってる!』
『ばーか。そんな口のきき方する奴、一人で帰せるかよ』
生徒の分際で教師を馬鹿呼ばわりする少年に手を引かれ、とぼとぼ歩いた。
初めは肘を掴んでいた彼の掌が、いつの間にか指を絡めるように握りあわせられている。
おててつないで夜道をゆけば―――傍目にどう映るか怖気づきかけたが、連れが「黙っていれば美少女」なのを思い出した。あとは学校関係者に見られないことを祈るのみ。
普段とは服装と髪型が違うし俯けば判り辛いだろう、と斜め前を歩く彼の足元を見つめた。
軽快に地面を蹴っている。学校で見る彼と同じだ。
踵を引きずったりせず、背筋をきれいに伸ばして歩く姿は、一服の清涼剤だった。
ほんの三週間余りで、彼の存在は自分の中で予想外に大きくなっていた。
この容姿であの校風に染まりもせず、健全な学校生活を送る彼が眩しかった。
……彼のような明るさや強さが欲しかった。便所小僧共に醜く嫉妬する自分なんか嫌いだ。
喉の奥が狭まり、次いで滴が頬を伝い落ちた。


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