数学・物理 100の方程式

act. 3

四月半ばを過ぎても慣れたのは起床時間くらいのものだった。
日々仕事に追われ、余計なことを考える暇がなかったが、それで丁度よかったと思う。
あれこれと思いわずらう時間を出来るだけ減らしたかった。
永沢に纏わりつかれても時間潰しと思って耐えていたのだが、誑かされた新人を見捨てた
らしく、何も言ってこなくなった。
担当している学年が違うため挨拶以外の言葉をろくに交わさなくても不自然ではないし、 元々親しくなろうとも思っていない。距離が出来るのは容易かった
何を根拠に眼の敵にしているのかは気になったから、件の生徒に注意を払いもしたのだが、 永沢の言うような扱いを受けているようには見えなかった。
逆に見ている方が『あんな華奢な子に』と心配になる位、彼の友人達は容赦がなかった。
体格のいい連中に囲まれて、後頭部を勢いよく叩かれる姿に最初は息を呑んだ。
けれども素早く蹴り返し、小突き合いを始めた彼の笑顔に、この年頃の男の子ならこんな
ものかと思い直した。
―――見てくれは美少女紛いでも、れっきとした男子高校生なのだ。
永沢の言を信用しないと決意したはいいが、自らの目が既に偏見で曇っていた。
もっとも永沢の言ったことは全くの出任せでもない。
男子校の弊害についてだ。
ほんの十日かそこらで『性欲の捌け口』を務める生徒の顔を覚えてしまった。しかも複数。
休み時間の度に違う生徒と手を繋ぎ、或いは肩を抱かれてトイレに行く姿は大変目立つし、嫌でも覚える。我が目を疑ったが、隣にいた教師が見なかった振りをするのにも驚いた。
新参者の態度に目をとめた先輩は、空き時間に保健室に行くよう勧めた。
養護教諭が苦笑混じりに『ここの出身じゃない人は驚きますよね』と言ったが、永沢と異なり派閥意識は感じられなかった。
『無責任なようですが、学業に支障が出ず、外にばれるような不品行をしでかさなければ学校側としては文句は無いんで。僕も一応、性病予防に気を使えと言ってますが、それは女の子相手でも同じですし』
富裕な家庭の子息ばかりだからか金銭のやりとりも無く、そもそも妊娠の危険がない。
『保健室を使ったら流石に殴りますが……丸尾先生も、そのうち慣れますよ』
呆気に取られた自分に、養護教諭はさらりと言って話を結んだ。
確かに、じきに見慣れてしまった。今では先輩方のように視線を外さず廊下を歩ける。
無理強いならともかく、嬉々としてアイドルを自称されては心配する気も起こらない。
彼らは総じて明るい。鬱屈した思いが無さげなのは、容姿や若さのせいもあるのだろうか。
何かの拍子に見せる媚びた目つきや甘えた仕草にも驚かされたが、同年代の男とは異なる、むしろ女に近い生き物だと思えば違和感も薄れる。
そうして改めて彼に目を戻し、明らかに違う』と思った。
学園のアイドル達よりも遥かに繊細な容姿を持っていようと、中身はごく普通の男子生徒。
友達と小突き合いはしても、男を巡って言い争ったりはしない。
気に掛かっていた生徒の件も杞憂に終わり、校風とやらの知識も得た。
あとは早く教職に慣れることだ、と進んで雑用も引き受けた。
他の教師達から『まだ四月なんだし、余り無理をしないで』と度々声を掛けられるほどに。
無理ではなく逃避なのだとは言えず、力無く笑って誤魔化した。
少しでも余計な時間ができると、つい月末の予定に思いを馳せてしまう。
自宅から二時間もかからない場所で、土曜日に行われる披露宴。
電話をかけてきた友人は、こちらが欠席するとは思ってもいない口調だった。
『お前も四月は忙しいだろうし、二次会の幹事は勘弁してやるよ。その代りスピーチな』
突然の報告に気が動転して頭が働かない内に出席を前提とした話を次々と聞かされた。
結局、言い出せないまま招待状を受け取り、出席に印をつけた。
その後、連絡を取ってきた友人達も、皆自分が出席すると最初から決めてかかっていた。
欠席する方が不自然だとは自分でも思う。場所も日取りもけちのつけようがない。
「ちょっと用事があって」では通りそうにないから、咄嗟の言い訳も拵えられなかった。
新郎新婦共に同じゼミで、教養部でのクラスも同じ。
いつも一緒にいたから周囲には三人一組で数えられていた。
新郎は卒業後就職したが、大学院に進学した新婦とは僅かな期間ながら机を並べている。
日取りはもちろん、地理的にもさしたる問題はないのに出席しないのは不自然だろう。
口さがない連中に、何を言われるか知れたものではない。
男二人に女一人の構図が気に入らないらしく、陰口を叩く輩がいた。主に女。
一年の前期試験の打ち上げの話を、卒業するまで引き摺っていた暇人共だ。
酔った勢いで皆の前で彼女が自分に告白し、自分が「友達なら」と答えて始まった付き合いだった。いつしか友人も含めたものに変わり、四年の春に二人は恋人同士になった。
『ゼミまで追っかけるのか、しつこいなーって思ってたらアレだもん。凄いわ』
学食で大声で笑っていたのは、教養部の時に語学の選択が彼女と同じで、試験の前になるとノートを借りに来ていた女だった。
笑顔で相席を頼んだら、そそくさと逃げ出した。大人気無かったが、お互い様だ。
あの場を盛り上げていた張本人は流石に来ないが、同席者の一人が二次会に出ると聞いた。
『お前ってさ、普段おっとりしてる分、怒ると怖い人だったのな』
半ば呆れた口調で揶揄する幹事に、「しつこいだけだ」と自嘲を交えて答えた。
自分も、姦しい雀共も、揃ってしつこい。自分が大学院を途中でやめた件と二人の結婚を結びつけた噂が既に出回っている。出席しなかった日には、何がどう伝わるか。
親しい連中は「可愛い妹分を嫁にやるのは不本意だが親友だから渋々認めたのだろう」と極めて好意的な見方をしてくれている。真実は遠からずと言えども当たらず。
何の権利もないから譲ったとは言えないが、彼女だからこそという気持ちは確かにあった。
思いの種類は違えど、二人共大切な存在だ。門出を祝う集まりに水を差したくない。
卒業以来初めて会う友人達へ院を早々に辞めた言い訳をする良い機会でもある。
“退学届を出した後に結婚の話を聞いた”―――この順番をさりげなく告知しておきたい。
研究室の面々なら周知の事実も、面白さ最優先の噂話では削ぎ落とされてしまう。
冗談でも彼女のせいにされたくない。辞めると決めたのは、あくまで自分自身なのだから。
学生時代の仲間が半数以上を占める二次会の席では、それなりに突っ込まれた。
『就職先が無いから進学するって聞いた時は、一体どこ落ちたんだって皆で言ってたけど
ドクター行くと思ってたから大して驚かなかったんだよ。まさか途中で辞めるとはな』
『留学するのかと思えば高校の先生って―――お前、いつから教師志望だったのよ』
耳が痛いが、無理をせずとも誰かが代りに答えてくれる。
言葉少なに笑っていると、いつのまにやら教職を熱望しつつも就職浪人を余儀なくされた悲劇の人になっていた。郷里の家族と同じだ。
入学金も前期の授業料もどぶにすてたようなものだが、何も言われなかった。両親と同居している兄も一回り以上離れた弟に甘く、就職祝は何がいいかと何度も電話をかけてきた。
なし崩しを嫌ったのは姉だけだ。院を辞めると報告したら即座に言われた。
『入学金と授業料。四月からの仕送り。三年以内に全部返しなさいよ』
いいじゃないかと兄が庇えば「兄さんは甘すぎる」と一喝し、両親も黙らせてしまった。
「大学の近くに住む必要も無くなったし下宿代の無駄だから」と近くに住んでいた姉の部屋に引っ越すよう命じられても、友人達が言うように厳しいとは思わなかった。
ひたすら甘い両親や兄よりも、ずっと自分を理解している。
就職祝いの席で酔った父が「こっちの公立だったら良かったのに」と本音を洩らし、母が肯いた時は「採用のあてがないよりマシ」と愛想の欠片もない台詞でフォローした。
『田舎でも都会でも、公立でも私立でも、荒れてるところは本当に酷いんだから』
教職に就いている友人の話も交え、自分の就職先の安全性と待遇の良さをアピールしてくれた。……本来は自分がするべきなのに、姉のスカートの陰から両親の顔色を窺うような真似をしてしまった。 いつものことと言ってしまえば、それまでなのだが。
振り返ってみれば声高に主張したことなど一度もないような気がする。
明言を避けて曖昧な態度で受け流し、周りが適当に解釈してくれるのに任せてきた。
家族との衝突もろくに経験がないのは、いつだって無難な選択をしてきたからだろう。
ずっといい子で通してきた自分が初めて道を逸れた。
「それだけ真剣に教師になりたかったのだ」と皆が誤解するのに任せて、自分からは志望動機に触れずにすませた。八百一学園付属でも女子部の百合高を希望したのに、男子部の薔薇高に回されてしまったと言えば、笑い話として勝手に盛り上がってくれる。
偶然にも百合高出身だという後輩が一人いて、うまく話を繋げた。
『教師は殆ど女で、男は還暦すぎた非常勤のおじいちゃんくらい。たまに若いのが来たと思ったら凄い不細工だったりするし。丸尾先輩じゃ最初から無理ですよー』
百合高が若い男を採用したがらないなどと初めて聞いたと言えば、両手を叩いて笑った。
教師になることしか頭に無く世知に疎い田舎者として、誰もが優しい言葉をかけてくれた。
その言葉が優しければ優しいほど、一人になったときの空しさはいや増す。
帰り道の電車で、埒もないことを考えてしまった。
―――あの中の何人が、自分が同性愛者と知っても変わらずに接してくれるだろうか。
ほぼ全滅だろう。何のとりえもない自分の長所を敢えて探せば、無難な奴の一語に尽きる。
人間的な魅力も個性も無いが、害を与える心配も無い。
そう思って自分と接していた人達にしてみれば、唐突なカミングアウトは闇討ちも同然。
昔に比べればましという声もあるらしいが、同性愛が異端であることに変わりはない。
性的な関心が持てないだけで特に女性が不得手というわけでもないから、大して目立たずに生きてこられた。そもそも苦手だったら最初から女子高を志望したりなぞしないが。
体の構造からして異なるものの、同性である男よりも身近に感じることが度々あった。
「女だから」の一言で片付けられがちな視野の狭さや思慮の浅さを兼ね備えた者には親近感すら覚える。長く勤めるつもりでいたから、女性の多い職場の方が自分にはあっていると思って希望を出したのだが………とかく此の世はままならない。
僅かながら視界がぶれて酔いが回ってきたと悟った。少量しか飲んでいないのに、車両の揺れに誘われたのだろうか。
さほど弱くもないが深酒はしないと決めている。酔った挙句に何を口走るかと思うと恐ろしくて杯を重ねる気になれない。
自制は抑圧と表裏一体。自分で枷を増やしているのは判っている。………箍が外れた時のことは考えたくない。
飲んで乱れる以外に寛ぐ方法がないよりはましだと思うが、誰の前でも酔い潰れることができないのは心を許せる相手がいないから―――即ち、自分が小心者のホモだから。
ループしつつ暗く沈んでゆく気持ちを切り替えようと、少し手前のターミナル駅で降りた。
引き出物が軽かったのは幸いだった。自分の故郷では、こうは行かない。
田舎の常で同じ値段ならより嵩張る品が選ばれる。余りの重さに耐えかねてか、帰りの電車内にわざと置いて行く人間もたまにいる、と地元に残った友人から聞いた覚えがある。
先月嫁いだ姉も引き出物に関して両親と散々やりあった。
今風にカタログで済ませたがった姉も、最後には諦めて大荷物を客に持たせた。
我の強い姉にしては珍しい、と思って尋ねたら唇を尖らせて答えた。
『式を挙げないんならともかく、親戚も呼ぶのに親の意見を一つも聞かずに通せるなんて思ってないわよ。これまで嫁に行けだのなんだの言わずにいてくれたんだから、一つ位は譲歩しなくちゃ…肩身の狭い思いさせちゃったしね』
田舎の常で、未婚の娘は故郷を離れていても人の噂になる。
自分と干支が同じ姉は長年嫁ぐ気配もなく、「そういえばあそこの娘は」と噂好きな連中のお気に入りにされていた。
『お宅のお姉ちゃんはよくできたから、なかなか釣り合う人が見つからないのよね』
笑顔を浮かべた近所の主婦の台詞は、直訳すれば「女の子を大学院までやったりするから貰い手がないのよ」となる。今の時代によくもまあ、と思うがそれが田舎というものだ。


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