数学・物理 100の方程式

act. 5

視界が歪んで、彼が立ち止まったのに気付かずまともにぶつかってしまったけれど、小柄なくせによろめきもせず真っ直ぐに立っていた。
『住所、言えるか?』
ゆっくりと尋ねられ、途切れ途切れに返事をすると鼻に布があてがわれた。ずっと繋いでいた手を離して握らされた大判のバンダナは淡い柑橘系の香りを漂わせていた。
脇の下に手が入り、軽く引き寄せられる。脚の力が少し抜けたが、彼が支えてくれるから揺らぎもしない。
『……おい、俺が止めたいのはタクシーだ』
不機嫌な声に顔を上げると、真っ赤なコンバーチブルがすぐ前の道路に停車していた。
『他にも客がいる時間帯に、ぐだぐだの酔っ払いをわざわざ拾ったりはしないでしょ』
運転手は、先刻ホテルの前で抱き合っていた男だった。
『乗りなさい。心配しなくても、後で嫌がらせなんてしないから』
『いらねえよ―――おっちゃん、乗せて!』
男の申し出を蹴り、すぐ後ろに止まったタクシーに強引に乗りこんだ。
『そちらの方、大丈夫ですか?』
『酔ってるんじゃなくて……その、今日四十九日で……』
夜目にも可憐な美少年が言葉を濁して俯くと、運転手は勝手に納得して車を出した。
………確かに二人とも服は暗色系だが、法事の帰りを装うなんて不謹慎過ぎるのでは。
マンションの前で降りてから、しっかり抗議した。行き先を告げるのも支払いも、全て彼任せの身でよく言えたものだ。酔っ払い相手にずっと寛容な態度を取り続けていた少年は、この時も笑って流してくれたけれど、自分だったら二言三言は言い返していると思う。
『ま、勘弁してよ。四十九日っつっただけで法要とは言ってねえし。で、歩けるのか?』
そこで、タクシーを見送った後も彼の腕に支えられていたのに気付いた。
『歩ける……君こそ、いい加減に帰らないと……あ、タクシー代』
『いいよ』
『よくない。もう終電無くなってるし……』
懐から財布を取り出して、そのまま下に落としてしまった。
『あっぶねー……部屋入るまで目離せねえな』
素早く拾って懐に戻してくれた彼に、強引にエントランスまで引きずられた。
『ほれ、開けて』
暗証番号をもたもた押すと、深い溜息が聞こえた。
『この先、絶対外で飲まない方がいいぞ』
『……いつもは、こんなんじゃないからだいじょうぶ』
また溢れた涙をバンダナで拭きながら、エレベーターホールへ向かった。
『なにも、聞かないんだね』
言ってからしまったと思ったが、彼がよこした質問は自分の予想とは異なるものだった。
『財布は持ってたし…鍵はあるか? 手ぶらだけど荷物どっかに忘れてきてないだろうな』
慌てて両手を見ると、右手はバンダナを握りしめているけれども左手は空になっていた。
その軽さゆえ歩いて帰るきっかけになった引き出物は、袋ごと消えうせていた。
『駅で、降りたときは持ってたんだ』
『おい、落ち着け』
必死で記憶を手繰りながら、探しに戻ろうとしたのを彼に引き止められた。
『今から行って、あるとは限らないだろ。駅か警察に問い合わせた方が』
『…やっぱり、いい』
慶事を本心から祝えなかった自分に、ばちが当たったのだ。
『身元が特定できるような物、入ってたか?』
『多分、箱の表に名前が…でも、住所や電話番号はないと思う』
結婚式の引き出物だ、と小声で付け加えた。
『駄目元で朝一に届けてみるか―――今日はもう帰って寝ろ。で、鍵は?』
これではどちらが教師だか、と落ち込みながらポケットを探り、鍵を取り出した。
彼は笑顔で頷き、エレベーターのボタンを押した。
『財布と鍵がありゃ上出来だ。携帯は?』
無言で懐を叩いて所在を示す間も、彼に凭れ掛かるようにして立っていた。
結局は部屋の前まで送られてしまった。鍵を開けようと、手元に意識を集中したその時。
唐突に膝の力が抜けた。揺らいだ体を支えられ、時間を掛けて鍵を回したのは覚えている。

目を覚ましたのはベッドの上で、彼は枕元に腰を下ろしていた。
『飲むか?』
氷水の入ったグラスを差し出され、だるい体をやっとの思いで起こして飲んだ。
『勝手に入って悪かったな』
『悪いのは僕の方だよ……ごめん。ご家族の方が心配されてるんじゃないのか?』
『今夜は帰らないって知ってるから』
自分を拾わなければ男とホテルに入れただろうに、恨み言の一つも言わなかった。
『すっかり迷惑をかけてしまって…帰っても良かったのに。病人じゃないんだから』
『つっても、寝ゲロしたら危ないし。それに鍵閉めないで帰れねえじゃん』
『オートロックだから…って、そんなこと知るわけないか。本当にすまないことをしたね』
『いいよ―――同居人がいたら押し付けて帰ってたけどな』
『…以前は姉と暮らしてたんだけどね。結婚して、出てった』
正しくは、自分の不甲斐なさが姉を追い出したのだ。しっかり自己主張できる人間ならば、姉を心配させずにすんだのに。
月々の家賃を納めているといっても、共益費を差し引いた残りでどれほどローンの支払いに貢献できているのか。姉が何も言わないのをいいことに、調べようともしなかった。
厳しい振りを装いながら、姉もやはり弟に甘い。
授業料等の返済だって、通っていたのが私立だったらもっと期限を長く設定しただろう。
大人しく指示に従ったのは姉が怖かったからではない。
賢い姉の立てた計画を遂行すれば、言い付けを守る良い子になれて親にも顔向けができる。
自分で思い切ったことをするより他人の示した道の中から良さそうなのを選んだ方が楽だ。
達成した暁の充足度は低くても、失敗した時の挫折感も少なめで済む。
―――ここでもバチはしっかり当たった。
長年に渡り安易な選択を重ねた末、幼稚でつまらない男が出来上がった。
告白しなければ振られないし、同性愛者だと言わなければ差別もされないと消極的な態度を取り続けておきながら、一生一人身だの誰も自分を判ってくれないだのと僻んでばかり。
こんな奴、ホモじゃなくたって嫌われるに決まっている。
家族に愛されているのがせめてもの救いだが、両親は老境に差し掛かり、兄に続いて姉も所帯を持った。いつまでも末っ子に構ってはいられない。
……胸が引き絞られ、痛みすら覚えるほどの孤独と寂寥。
これからずっと向き合っていかねばならないのだ―――当たり前だが、一人きりで。
足元の床が抜け落ちたような感覚にシーツを強く掴みしめ、自分がベッドの上にいるのを思い出した。少しずつ息を吐いて、強張った指から力を抜こうとする。
そっと目尻をなぞる指に、いつの間にか涙が溢れていたと知らされた。
瞬きし、新たに頬へ流れ落ちた雫も優しい手付きで拭われる。
みっともないとか恥ずかしいとか思う気持ちも少しはあったけれど、気づかなかったふりをして甘えることにした。酔っているのだからしょうがない、と自分自身に対する言い訳を用意してから目を閉じた。そのまま唇が重ねられても驚きはしなかった。
抱き寄せる腕に身を預けた時点で予想済み―――正しくは期待していたのかもしれない。
この年になるまで一度も経験がなかったから。
性的嗜好を自覚したのはまだ幼い頃で精通よりも先だったけれども、「普通でない」ことはすぐに見当がつく年齢だった。治るとは思えなかったため早々に見切りをつけてしまい、女性に目を向ける努力もしないまま大人になった。
その気になれば試すこともできただろうが、長期に渡る交際でも一夜限りの付き合いでも、目的が「自分が女性を相手にしても大丈夫かどうかを確認するためだけ」だなんて相手に対する侮辱のような気がして踏み切れなかった。
自分が世間並みであることを確認するために、即ち自己保身のために、誰かを巻き添えにする必要はない。
……本当は、女性相手に勃起しない自分と向き合うのが怖かっただけかもしれない。
酒席では、酔い潰れた女の子をよく背負わされた。
『いつもごめん。でも丸尾君なら安心だし』と、両手を合わせて頼み込んできた彼女達は柔らかな胸を背に押し付けられてもたじろがない自分のことをどう思っていたのだろうか。
単に女性では勃起できないだけで、とりたて自制心が強くもないし淡白でもないのだが。
好みのタイプの同性であれば、肩を抱かれるどころか指先を掠めたくらい心拍数が跳ね上がるお手軽な体でもある。
もちろん顔に出せはしない。訝られない程度に、男と体を近づけないよう努めてもきた。
度胸と経験を欠いて未熟なままの体は、相手が本来の好みから外れていようとも、同性に抱き寄せられただけで容易く火照った。
重なった唇の動きや衣服を脱がせる手に、これからどうするつもりかを教えられて、ますます体は熱くなる―――こんな風に誰かと触れ合うなんて、一生無理だと思っていたのに。
男なら誰でもいいのかと頭の片隅で自嘲しつつ、酔いのせいにはすまいと心に決めた。
自分は教師で相手は生徒だと承知している。万一ばれた時は全て自分が背負うことも。
臆病者のくせによくもまぁ、と我ながら呆れてしまうが、それなりに計算もしている。
ろくに抵抗もせず、力を抜いて身を預けているのは、彼なら大丈夫と思っているからだ。
自分が何の経験もないことくらい、淀みのない手つきで衣類をはいでいく彼にはとうの昔に知られていただろう。怯えに身を強張らせ、指先が震えていては隠しようもない。
そのくせ下腹は初めて訪れた他人の指にしっかり昂ぶって、まだ脱がされていないスラックスの布地越しに彼の下肢を押していた。
臆病さゆえに奥手な一方、妄想をたくましくしてきたのを見透かされそうな浅ましさだった。馬鹿にされはしないかとの不安もあったけれど、彼は何も言わなかった。
黙って唇を離し、深いキスの代わりに施されたのは息苦しくならない程度の軽いキス。
何度も繰り返され、どう反応していいか判らずに無様に宙を掻いていた手は彼の背へと導かれた。
任せておけばいいと無言のうちに教えられ、安堵のため息と共に体から自然に力が抜けた。
背に回した手が滑りかけ、指先に力を込めて留まると唇が深く重ねられる。
熱くて柔らかい感触。先程より心地良く感じるのは余裕が出来たためだろうか。
最初にこの唇を避けられなかったのは酔いのせい。予想できなかったし、とっさに体が動かなかった。
しかしそこから先は違う。次に何が起こるか期待しつつ身を委ねた。
安易過ぎるとは自分でも思った。この場は良くても後で嘲笑われたり脅されたりすることだってありえるのに。
けれども、そんな先の話はどうでもよかった。
―――今だけでいい。広すぎる部屋に取り残されて寒い現実と対峙するよりも、何もかも忘れて目先の快楽に溺れてしまいたい。
降ってわいたチャンスにしがみつく自分が何を求めているか、本人以上に心得ていた彼は何も言わずに下腹へと手を伸ばし、硬くそそりたつものを扱いた。
湿った感触に、自分の先走りが彼の手を汚していると知る。荒い息の中、唇をついて出た謝罪の言葉を聞いた彼は小さく笑って頬に口付けた。
彼のシャツを掴んでいた手を取り上げられ、いつの間にかくつろげられていた彼の股間に導かれた。恐る恐る握ったそれは掌を焼かれるような熱さで、こすりながら思わず腰を振ってしまった。
さらなる刺激が欲しいとの訴えが届いたか、強く握り締められてこすられてあっという間に果てた。一旦放った後も体の火照りは治まる気配がなかったが、疼く体を持て余す暇もなく彼の手に追い上げられた。
もう一方の手も彼に触れることを許され、両手で包み込むようにして根元から先端までを執拗になぞった。彼を愛撫しているとか奉仕しているとかの意識は全くなく、硬く熱い塊に触れる行為自体が気持ちよかった。
熱いのは直接握った掌だけでなく、時折かかる溜息には耳朶まで焼かれるような気がした。
ふいに彼が自分のものから手を離し、体を起こした時には、このまま放り出されてしまうのかと怯え、言葉だけでなく両足で腰を挟んで引き止めた。
後から思えば顔から火が出そうな淫らがましい振る舞いに及べたのは、彼を離したくない一心で己を省みる余裕などなかったからだ。少しでも離れるのは嫌だと泣いてむずかる自分が彼の目にどう映るかなんて考えもしなかった。
彼の指が奥を探り始めても、放り出されたわけではなかったと喜びこそすれ恐れる気持ちは皆無だった。
―――もっと触れて欲しい。強く抱きしめて欲しい。
欲望を包み隠さずぶちまけて、自分よりも遥かに男の体を知っている彼が次々と引き出す快感にただ酔い痴れた。


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