数学・物理 100の方程式

act. 2

「ええと…すみません、こっちかな。失敬」
ついに未採点の数枚を取り上げられた。叶うことならひったくって逃げてしまいたい。
「んー…ああ、あった」
浜崎が抜き出して机の上に置いたのは、予想通り彼の答案だった。
―――終わった。
模範解答を横に並べて一つ一つ確認されては、どうにも誤魔化しようがない。
「…相変わらずやってくれますな。今回は少々時間が足りなかったみたいですが」
低く唸る浜崎に向き直り、覚悟を決めて頭を下げた。
「すみません、監督は僕でした」
「へ?―――ああ。違いますよ。カンニングじゃありません」
懸案事項にあっさりと結論を出し、浜崎は答案をめくってみせた。
「見てください。面白いでしょう?」
嬉しそうな浜崎の口調から、これがいつものことで彼が教科主任のお気に入りだと判る。
「…これは」
通常は白紙のそこに、グラフと計算式がびっしりと書き込まれている。
表側で出題した二次曲線と直線で囲まれた部分の面積を求める問題に、勝手に付け足して遊んでいるのだ。
中間テストの範囲は平面座標までだったし、空間座標の章に入ったのはテスト明け。
なのに彼はz軸を加えて回転させ、体積を求めていた。
xy各々の軸について回転させた後、平面の式をこれまた勝手に取り入れて回転体を切り、断面積を計算している。
「久々に熱がこもってますな」
腕組みをして満足げに頷く浜崎に、何の悪気もないのは判っている。判っているのだが。
「…馬鹿にするにも程がある」
思わず漏らした呟きに慌てて口元を押さえたが、一度出てしまった言葉は取り消せない。
「まあ、そう言わずに。丸尾先生、かなり気に入られてますね」
「どこがですか。普通に問題を解けばいいじゃないですか。こんなの嫌がらせとしか…」
声が震え、視界が滲む。慌ててハンカチを取り出し、目元を押さえた。
「す、すみません…っ…」
「先生を馬鹿にしてるんじゃありませんよ。できるからって自惚れてるわけでもないです」
浜崎はいつもと変らぬおっとりした口調で彼を弁護した。
中等部の頃に、答案を誰よりも早く書き終えた彼が机に突っ伏して寝ているのを起こして、当時の数学教師が裏面で遊ぶ事を勧めたのが事の始まりだという。出来上りを面白がった。理科教師が次の試験でけしかけ、しぶる彼に『サービスが悪い』と難癖をつけて書かせた。
以後、定期テストの度に理数系の科目に限って裏まで書き込むことになっているそうだ。
「贔屓には違いないですし不快に思う生徒もいるでしょうが、今まで何もなかったからと教師の方で生徒に甘えているような状態で」
―――呑気なものだ。何かあってから『こんなことになるとは』と言い訳するつもりか。
高校二年生にもなって、決定的な事件が起きる前にいじめを学校側に気取られる間抜けがどこにいる。
一体何年教師をやっているのか、と新米の身ながら詰め寄りたくなるのを懸命に耐えた。
先輩教師に盾突くのが躊躇われただけでなく、今の自分の感情こそが紛れもない『贔屓』だと判っていたからだ。
この答案が彼以外の生徒のものなら、即座に報告していただろう。
「色々と誤解されやすいようですが、いい子なんです」
浜崎が彼を擁護し続けるのにも苛立たしさが募った。
中等部の、ひょっとしたら初等部の頃から彼を知る浜崎と、会って二ヶ月足らずで体だけの付き合いの自分では比較にならないと判っているが、どちらがより彼を理解しているか、改めて思い知らされたようで惨めになる。
最初から疑ってかかった後ろめたさも拍車を掛けた。
「…丸尾先生、一つだけ確認させて下さい」
涙が止まらない自分に呆れているだろうに声音に出さず、あくまで穏やかに浜崎は尋ねた。
「永沢先生から何か聞いてますか?」
彼に対する先入観を自分に植え付けた教師の名に、ゆっくりと面を上げる。
「…何か、って…去年は、永沢先生がみてらしたんですよね」
涙声にならないように気を付けながら尋ねると、浜崎は渋い表情で答えた。
「初めは、そうでした。一学期の途中からは山根先生に変りましたが」
年度どころか学期の途中に教科担任が変った。解任された者はその後も学校に残っているというのに―――ど新人の自分でも、異例の措置だと判る。
「あの子ばかりが贔屓されているとお思いでしょうが、差別もされました。…もっとも、それですぐに教師が変るなんて特別扱い以外の何物でもありませんが」
「先生は、反対なさったんですか」
「いいえ。永沢先生に対する処分そのものについては、異論はありません。ただ、友人が多く上層部のお覚えもめでたい子だから早期に発覚しただけで、もし他の子だったら……仮に事が露見したとしても、あの子の時ほど素早い対応は望めないと思うんです」
生徒全体に目を配っている者ならではの台詞。彼のことしか頭になかった身には痛すぎる。
志を持って教師になったと思しき浜崎と違い、他にあてもなく漫然とこの職に就くような奴だから、生徒と関係を持った挙句、採点に私情を挟んだりもするのだろうか。
「丸尾先生。急がせて申し訳ないのですが、明日の午前中に提出して下さい」
名簿を指し示した後、浜崎は準備室を出ていった。
言外に『今日中でなくても構わない』と仄めかしたのは、みっともなく泣きじゃくる新米に対する思いやりか、それとも呆れて匙を投げたのか。
……人の好意も素直に受け取れない自分にうんざりする。彼にもとんだ醜態を見られた。
どんな顔をしているか確かめたくて涙を拭きながら向かいの校舎を見やったが、もう彼の姿はなかった。
「丸尾先生、どうですか」
にこやかに歩み寄る彼の目に触れないように、疑惑の答案を一番下に隠した。
「あ、はい、もうすぐ終ります。今日中に記入して提出しますから」
成績記入用の名簿を振りかざして目をそらそうと試みたが、浜崎は軽く頷いて答案の束を手に取り、素早く氏名をチェックし始めた。
「粗探しをしてるわけじゃありませんから、お気になさらず続けて下さい」
そう言われて平然と続行できる程、自分の神経は太くない。

『あいつは要注意ですよ』

始業式の翌日、給湯室の窓から外を眺めていると唐突に永沢が話しかけてきた。
誰のことか判らず、またいきなりのことで面食らう自分に、渡り廊下で話している数人の生徒達を顎で示した。
中に一人、綺麗な子がいるのに目を惹かれた。高校生の男子なんて殆どが汗と脂の匂いを漂わせていると思っていたが、世の中にはああいう子もいるのだ、と驚いた。
よく見れば周りも身なりに気を遣っていそうな者ばかりが揃っている。
母校は共学といっても進学校を自認する地方の公立高校だったから、都会の名門私立校はやはり違う、と素直に感心した。
見蕩れて呆ける自分の意識を引き戻したのは、永沢の吐いた毒だった。
『真ん中のチビは手の施しようのない馬鹿ですから、丸尾先生も気をつけて下さい』
昨年度は散々だったと口汚なく罵りだした相手を宥める術を思い付かず、かといって続きを聞く気にもなれない。
仮にも教師の身で、新人を前に生徒を罵らずとも良さそうなものだ。
問題児に対し注意を促すにしても、もっと他の言い方があるだろうに。
一刻も早くその場から去りたかったが、当たり障りなく切り抜けられるほどの器用さは持ち合わせていない。それでも何とか話しの流れを変えられないかと『友達は多そうですね』と愛想笑いを浮かべながら言ってみたが、返ってきたのは唇を引き歪めた嘲笑だった。
『あの顔ですからね。ここは男子校だし』
『目の保養ですか』
『そんないいもんじゃありません。性欲の捌け口ってやつですよ』
絶句する自分を面白そうに眺め、永沢は鼻を鳴らした。
『妊娠する心配もないせいか、もう目茶苦茶で―――あの辺りはみんな兄弟でしょ。近くに女がいないからって、何も男に走らなくてもねえ。尻に突っ込むなんざ…いくら穴さえ開いてれば何でもいい年頃とはいえ…そのままホモになったらどうするつもりなんだか』
同性愛者に対する侮蔑を露にした物言いに、もしや見抜かれたのかと背筋が凍った。
そんな筈はないと思いつつも動揺を隠せず、ほんの僅かだが目をそらしてしまった。
永沢にも迂闊な反応を見咎められたが、幸いなことに前日の自己紹介に繋げてくれた。
『共学だった人には気持ち悪い話ですね、失敬。僕もそうですが、ここ出身の先生が殆どなものだから、ついそういう気配りを忘れがちで。こういうことも、はっきりと言わなくても判ってくれるし。丸尾先生以外にもOBでもない人はいますが本当に少ないんですよ』
墓穴を掘らずにすんだと知り、力が抜けた。眼前の品のない笑顔にも後光が差して見えた。
―――出身校による差別なら好きなだけやってくれればいい。学内での地位に興味はない。
これまで隠し通してきた自分の性的嗜好を暴かれず、平穏に過ごせさえすれば―――。
交際相手は最初から探そうともしなかったが、雑誌やビデオすら遠ざけて暮らしてきた。
そんなものを手に取る姿を知人に見られたら一巻の終りだ。
どこから足がつくか知れたものではないと思うと、恐ろしくて近寄ることもできなかった。
同性に欲望を覚える己を認めたくなくて、ネットの世界ですら同性愛の三文字を避けた。
治せるものなら治したい、と儚い望みを胸の片隅に住まわせて―――。
店頭で見かければ即座に目を背けて足早に立ち去り、酒席でのジョークもそれとなく拒むことから学生時代は『ホモ嫌い(おそらくトラウマ持ち)』と噂され、興味本位で真相とやらを尋ねてくる者達もいた。
けれども敢えて否定はせず、隠れ蓑としてありがたく利用させて貰った。
カミングアウトする勇気など、どこにもないからだ。
他者に向けられた言葉にさえ、こうして身を切られるような思いをしているというのに。
『周りがちやほやするから、つけあがりやがって…公衆便所の分際でいい気なもんだ』
“いくらなんでも酷すぎる”と思ったが、庇うこともできなかった。
もっとも、庇う必要もなさそうだった。皆に囲まれて笑っている姿を見る限り、永沢が言
うような後暗いところがある風には見えない。
話半分どころか、聞かなかったことにした方がいいと早々に見切りをつけた。
授業中の態度について罵るのを聞いても“あんたの態度にそもそも問題があるんだろうが”と醒めた気持ちになってしまう。
下衆な内容もさることながら、話の締めくくり方も最低だった。
『二年一組の茂門賀りく、です。先生の担当クラスですな。ま、頑張って下さい』
自分が気に入らない生徒を貶め、OBでもない新人を脅して御満悦の永沢を見ていると、振られたのを根に持っているのだろうかと勘繰りたくもなった。
ホモ嫌いのようだからそれはないだろうが、恨むような出来事が何かしらあったのだろう。
―――だからといって、自分にあることないこと吹き込まなくても。
初めて二年一組の教室に赴いた時は、絶対に永沢の手には乗らないと力みかえっていた。
それでは踊らされたも同然、と反省したのは授業を終えてから。
早いうちに当ててしまえと出席番号の後ろから指名していった時点で、既に意識し過ぎだ。
突然の指名にも不平一つ言わず、平然と前に出て黒板の問題を解く姿に胸を撫で下ろした。
かなりできるようだが、できるが故に教師に疎まれることもあるだろう。
永沢の言葉と、目の前の生徒の態度。どちらを信用するか、初日で結論が出た。
以後、永沢が何を言ってきても神妙な顔をしつつ聞き流した。
“前評判”と違って課題も提出したし、誰に頼っている様子も無い。
クラス委員の花輪と仲がいいらしく、放課後の図書室で問題集を広げる二人を目にしたが、頼っているのはどう見ても花輪の方だった。
花輪自身トップクラスの成績で全教科ムラなく点を取っているのだが、理数系は彼の方が上位にいると二年一組の担任が教えてくれた。
物理教師である担任は、彼を問題児扱いするどころかお気に入りに数えているらしく『真面目でいい子でしょう?』と笑顔で尋ねてきた。
職員室では永沢と自分の席が離れているため気軽に頷いたのだが、しっかり見られていた。
『…丸尾先生まで、あいつに誑かされてしまったんですね』
担任が離れるや否や耳元で恨めしげに囁かれて、驚いたの何の―――危うく椅子ごとひっくり返るところだった。
動揺を隠せずに胸を押さえていると、永沢は唇を歪めて卑屈な笑みを浮かべた。
『みんな、どうして騙されるんだか。見てくれですか?』
悪し様に罵る永沢は、彼が通常は教師に見せない顔を多少なりとも知っていたのだろう。
『あいつの本性知ってりゃ、可愛いなんて言えないと思うんですが』
そこまで言うのなら、その本性とやらを教えて欲しかった。
前もって聞いていれば、決して声を掛けたりしなかった。


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