数学・物理 100の方程式

act. 1

ペンを置いて眼鏡を外した。軽く首を回し、ため息を吐く。
目の前の答案用紙の束は、左側が採点済みで右側がまだ手をつけていない分。
(残り五分の一ってとこか)
まだ中間テストの採点が終わっていないと教科主任にばれて、やんわりと注意されたのは昼休みのことだった。注意そのものより、最後に付け加えられた一言の方がきつかった。
『期末試験の問題、そろそろ考えておいて下さいね』
範囲の発表は来月の上旬、どこが期末だと頭を抱えたら『こんなものです』と返された。
高校を卒業してほんの五年しかたっていない、と諸先輩方と比べて若いつもりでいたが、ただのうぬぼれだったらしい。立派な今浦島だ。
もっとも、ここは大学部まである名門私立校だから、やたらと詰まった定期試験日程が組まれたりもするのだろう。
内部進学者を決定する為にも、成績資料が早めに作成されるにこしたことはない。
(彼は、どうするんだろう)
ふと、ある生徒の面影が胸を過った。彼は初等部からの生っ粋の八百一学園生だから、持ち上がりと考えるのが妥当だ。しかし、外部受験もありうる。
成績優秀な生徒を確保したいのは経営側として当然のことだが、世間一般でここよりも格上とされている一部の国立大学へ合格してくれれば、それはそれで立派な宣伝になる。
(本人は、そういうの嫌いそうだけど)
自分のことは自分で決める性質で、他人の思惑で動かされるのを厭う。
少し付き合えば、すぐに分かる―――そこまで考えて、付き合うという表現に思わず頬が熱くなった。慌てて頬を軽く叩き、深呼吸をしてから、答案の採点を再開する。
空き時間を利用してせっせとやらないと、お持ち帰りしても間に合わない。
気が散らないよう人の多い職員室を避け、校舎の中でも辺境に位置する別教科の準備室を借りたのに、人目が無いからといってぼんやりしていては本末転倒。
“できるだけ自宅に仕事を持ち帰らないようにしよう”というのは、就職一年目の人間としては図々しすぎるだろうか―――以前そう呟いた時、彼は笑いながら言ってくれた。
『いいんじゃねえ?途中で放り出して帰るんならあれだけど、お前のは違うだろ。それに持って帰りゃ良いってもんでもないだろが。前に、車の中に成績表置いといて盗まれたっつう記事読んだことあるし…って、学生が言うのも図々しいか?』
瞳を覗き込まれ、ゆるく頭をふるとそのまま口付けてくれた。
あれは『中間テストの問題を作るから、しばらく会えない』と告げた夜。
ごねるかも、と思いながら恐る恐る言い出したのに、あっさり承諾されてしまった。
彼はさほど会いたくなかったのか、と些か落ち込みもした。
つい自分の要領の悪さを愚痴ってしまい、件の台詞を囁かれたのだが……どう考えても、“会えなくて寂しい”とごねたのは自分の方。六歳も年下の少年に、拗ねて甘えた。
我ながら、情けない。
『好きになった方が負け』という言葉が身にしみる。
手を出してきたのは向こうから。けれども自分のことが好きかどうかはかなり怪しい。
それで付き合っていると思うのは図々しいかもしれないが、週に二・三回は会いに来てくれるし、その都度ああいうことに及んでいれば少なくとも体の付き合いはあるのでは。
自分は彼だけで、彼の方は他にも何人かいるというのは珍しくないだろう。
しかしながらそこに『教師と生徒』『男同士』という要素を付け加えれば、一気に少数派に転じる。いくら世間に疎くても、それくらいは判る。
誰かと付き合うこと自体が初めてだが、消極的な性格だけがその原因ではない。
最大の理由は女性に興味が持てなかったからだ。初恋からして隣のお兄さんだった。
成長しても相変わらず男にばかり目が行ったが、自分から声を掛ける勇気はなくて、 いつも見つめるだけの片恋に終わった。
適当に遊ぶこともできない自分は、彼に出会わなかったら人肌のぬくもりも知らぬままに
生涯を終えていたかもしれない。
そういう意味では本当に感謝している。
感謝だけでなく愛してもいるけれど、彼に告げるつもりはない。
つまみ食いの相手に本気になられても困るだけだ。
……自分の立場くらい、わきまえている。彼にとっては大勢の中の一人でしかない。
あまり気持ちを傾けない方がいいとは思うが、思ってどうこうなるなら悩みもしない。
二月足らずでこんなに好きになってしまった。これから先はどうなってしまうのだろうか。
いつか彼を独占しようと泣いて縋る日が来るかもしれない。
それとも少しずつ冷めていって、気がついたらどうでもよくなっていたりするのかも。
はっきりとした終りがあるなら『笑顔でさよなら』といきたいが、どうなることやら。
仮に今の付き合いが続いたとして、長くても彼の卒業まで。
その時になって取り乱さないように心の準備だけはしておきたい。
(でも、具体的に何をすればいいんだろう)
これ以上好きにならないように、と自分に言い聞かせる他に何か出来ることがあれば。
まずは卒業式を思い浮かべてシミュレーションの一つでも―――しようにも着任が今年の四月だから、式進行をまったく知らない。
知らなくても適当にやればいいのだ、と気を取り直して外を眺めた。
隣の校舎に隠れて見えないが、その向こうには講堂がある。
始業式はあそこで行われたから卒業式も多分そうだ。
(まずは卒業生が入場して……いや、職員や在校生が先に入っているか)
順を追って考えるために、まずは講堂の入り口を思い浮かべてみる。
どの入り口から入るのかと悩んでいたら、ふと誰かに見られているような気がした。
顔を上げると、向かいの校舎から生徒が手をふっていた。遠目にも判る整った目鼻立ち。
髪の色が明るいのは天然だから、脱色による痛みが無く手触りもいい。
指で梳きながら褒めた時『若禿の事前通告だ』と苦笑していた。
禿げたら丸坊主にすると言う彼に、つい『あまり見たくない』と思ったままを呟いた。
怒られなかったが、お仕置きはされた。思い出すと顔も体も熱くなる。

『剃ってやるよ』
そう言って彼の手が伸びた先は自分の股間で―――つまりはそういうことが一段落した所での会話だったわけで―――甘やかな気分でいたところに冷水を浴びせ掛けられた。
冗談だろうと問い返す間もなく、抱き上げられて浴室に運ばれてしまった。
自分より身長は低いものの腕力は断然彼の方が上だ。
本気で抵抗したのだが、あっという間に股間にシェービングフォームを塗られた。
手際の良さで前に他の男にやった事があるのを教えてくれた。だから余計に厭になった。
自分が嫌がっているのに止めようとはしなかったのもショックだった。
口調は乱暴だが、いつだって優しくしてくれたのに。
あの時は本当に怖かった。
怖くてたまらなくて……T字剃刀が臍下に当てられた直後に失禁した。
水色のタイルに黄色い液体は大変目立つ。
排水溝へと流れていくそれを見ながら、信じられなくて呆然としていた。
『剃るっつっただけだ。切ったりしねえって』
苦笑混じりの彼の言葉で我に返り、自分のしでかした事に直面して目頭が熱くなった。
いい年をして、浴室で、しかも彼が見ている目の前で―――。
『泣くこたねえだろ』
泣かせた張本人のくせにぬけぬけと言い放ち、押え込んでいた手を離して立ち上がった時、呆れて帰るのだとばかり思っていた。
けれども剃刀を片付けに行っただけで、すぐに戻って来て体を洗ってくれた。
そのまま朝まで一緒に過ごしたが、いつまでも泣き続ける自分を抱き締めて、時折謝罪を交えながらあやし続けた。セックスでうやむやにした方がずっと簡単だったろうに。
そういう彼だから、泣かされた事も忘れてしがみついてしまった。
彼がもっと酷い男だったら―――いや、充分酷い。体で誤魔化す男よりも性質が悪い。
優しく背中を撫でる手に、少しは想いがこもっていると勘違いしそうになるから。
しな垂れかかってくる男を脊髄反射の様に抱き寄せ、気が向けばキスの一つも恵んでやる。
彼にとってはもう癖や習慣ともいうべき行為で、そこにはさしたる意味も感情もない。
少しかまってもらえたからといって舞い上がらない方がいい。
他の男といるのを見た時に辛くなるだけだ。
………考えれば考えるほど、自分の情けなさが浮き彫りになる。
自分の事を好きになってくれなくてもいい、その他大勢で構わないから傍にいたいと願い、少しでも時間を割いてもらえる幸運を祈りつつ彼の訪れをじっと待ち続けている。
"女々しい"とか"女が腐ったような"といった類の古典的表現がよく似合う。
陰気な性格は前からだが、彼とこうなって以来いよいよ磨きがかかってきた。
しかし彼のせいばかりにはできない。
最大の原因は判っていても離れられない自分にある。
さっさと見切りを付けられる分、すぐに暴力を振るう男の方がまだましかもしれない。
もっとも今の自分では、殴られても蹴られても別れたくないと言いだしかねない。
彼のどこがどうしてこんなに好きなのか。
それが判れば、この気持ちも容易く消し去ることができるのだろうか。
もしも“こうして好きになった”という明確な過程を提示できるのならば、同様の手順で綺麗さっぱり無関心になれそうなものだが―――多分、無理だ。
好きなところは沢山ある。けれども、殆どが彼への好意を自覚してから気がついた点で、いまから並べても後で付け足した屁理屈といった感が拭えない。
結局、『好きになるのに理由はいらない』。これに尽きる。
いきなり降ってわいたこの感情を持て余し、ことある毎にうろたえる自分は、本当に恋愛に慣れていないのだと自嘲混じりに嘆息する。
のぼせた頭で彼の酷い仕打ちや冷たい言葉を思い出しても、一向に気持ちは冷めない。
それどころか彼の所作や声音を思い浮かべて頬を火照らせてしまうという体たらく。
所詮は自分が過剰に反応しているだけで、大したことはされていないと言ってしまえばそれまでなのだが。
いくら彼の振る舞いを酷いだの冷たいだのと心中で嘆いても、愛撫や睦言にすりかわった途端に体がとろけてしまうようでは、もはや前戯と変わりない。
…昼日中に何を考えているのか。しかもまだ採点が残っているのに。
軽く頭を振り、窓から顔を背けてペンを手に取る。しかしながらどうにも集中できない。
視線や気配を感じるとよく言うが、実際は視界の隅に入っていたり、相手の存在を知って自意識過剰になったがための錯覚に過ぎないと思う。
今も彼の眼差しを感じているのではなく、見られていると思いこんで勝手に緊張しているだけだ。気まぐれな彼のことだから、もうとっくにどこかに行ってしまっただろう。
そう思って再び外に目をやると、予想に反して彼はまだ同じ場所にいた。
こちらが見ているのに気がついたのか、窓縁に肘をついて手を小さく振ってよこす。
―――何も知らない頃だったら、微笑ましい光景ですませられたのに。
外見と中身が甚だしく違うことを散々思い知らされた今となっては『見た目は可愛いんだ、見た目だけは』と毒づきたくなる。
赤頭巾を被った狼は近隣の学校にもその容姿で知られており、雑誌の取材も何度も断っているそうだが、よそ行きのひたすら甘い笑顔を思えば頷ける。自分もあれには騙された。
騙されて、振り回されて。仕事の手が進まなくなるほど頭の中が彼で一杯になっている。
これでは駄目だと勢いをつけて目をそらし、ペンを走らせた。
『答案に八つ当たりをしてはいけない。採点ミスは論外』と何度も心の中で唱えながら。
だが、平常心を取り戻すべく努力している自分を嘲笑うかのように、間もなく彼の答案に行きついてしまった。いずれは来ると判っていても、直に目にするとやはり焦る。
出席番号からしてもうすぐ終わるということか、と無理矢理気持ちを奮い立たせて採点を始めてみたが今度は違う理由で手が止まった。
問題の難易度に関係なく、解答はいずれも簡素に纏められている。証明問題はまだしも、計算を要するものは立式の直後に結果が書いてあり、途中経過は一切なし。
計算用紙が別途与えられたとはいえ略しすぎだ。これでは疑われてしまう。
去年、彼のクラスの数学を担当していた教師の言葉が思い起こされた。
『ありゃ絶対やってます。課題はまともに提出しない、授業中は寝てばっかりで当てると外へ出て行く。どうしようもないクズですよ。定期テストもねえ…花輪と席が近いから』
着任直後にそう聞かされ、かなり警戒して授業に臨んだ。
ところが順番に当てても大人しく答えるし課題は提出するしで、前評判とは大違いだった。
だから安心していたのに…いや、決め付けるのはまだ早い。結論を出すのは調査後だ。
けれども、何から調査するという当てもなし。ただ冷や汗を流して答案を見つめ続けた。
暫くの間、そのまま固まっていたが、扉の音に驚いて振り返ると、そこにはよりにもよって教科主任の浜崎がいた。


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