数学・物理 100の方程式

act. 18

その後、彼女の了解を得て『早退しやがったら別れる』という物騒なメッセージと共に友人に続報を伝えたところ、すでに自宅で待機していた。
怒る彼女を宥めつつ病院名を告げ、驚くほど短時間で現れた友人を彼女に引き渡し、弟を連れて修羅場から逃げた。
『せっかく来てくれたのになんちゅう………姉ちゃん、いつ捨てられてもおかしくないな』
自宅へ向かう車中で額を抑える弟に、捨てるならお姉さんの方からだと笑いながら言うと、なおも「あんな女のどこがいいのか、俺は判らん。判りたくもない」とこぼした。 既に一時の興奮状態を脱したらしい彼に先程の話をすると、唇を尖らせてシートに身を沈めた。
『丸尾君にはそういう話するんだ』
『僕から言うことじゃなかったね、ごめん』
『謝らなくていいよ、ありがと。聞かなきゃずっとそのままだもん………さっきだってさ』
彼女は買い物から帰った弟を睨み付け、「で、どうすんの?」としか言わなかった。弟が前言を撤回すると鼻で笑って買い物の検分にかかり、進路の話はそこで打ち切りとなった。
『お姉ちゃんにかかるとねえ、弟なんていつまで経っても洟垂れのウンコ垂れだよ』
『やめてー、丸尾君の口からそんな汚い言葉聞きたくないー』
『実際僕はいまだに言われてるよ。君のとこより年離れてるし、ほんと子ども扱い』
『うちの姉ちゃんと、どっちが怖い?』
『うちかな?と思ってた。でも今日の見て考え変えたよ』
『………うー。やっぱうちのが酷いのか。一度対決して欲しいと思ってたのに』
『対決するのは勝手だけど、巻き込まれたくないな』
そのまま家に着くまでくだらない話を続けた。二人とも、行きと違って軽口を叩く余裕ができたのが嬉しかったのだ。
しかし彼を送り届けた後、静かになった車内でふと憑き物が落ちたように昂揚感が消え失せた。決して楽観できる状態ではないのだ。明日も、明後日も彼女は大学に来ない。
(このまま中退してしまわないだろうか)
ふと胸をよぎった不吉な予想を追い払い、明るい未来に思いをはせた。
―――来年の春になればきっと戻ってくるはずだ。学年は違っても、また一緒に通える。
彼女がいなくなり、研究室は前よりも静かになった。時折誰かが思い出したように話題にしては、なぜか自分を気遣って途中で止めた。
『丸尾先輩、元気出してくださいね』
その度に四年生の女子二人が繰り返すのが不思議だったが、ある日『だって、丸尾先輩のお母さんだし』と言われて机に突っ伏した。兄妹と言われるのがほとんどで、たまに三角関係を噂されたりもした。だが、母と息子と言われたのは初めてだった。
体勢を立て直して『そんなに落ち込んで見えるのか』と苦笑しつつ返したら、それ以来ぷっつりと言わなくなったけれども。
寂しく思っていたのは本当だ。大学に入学して以来ずっと一緒にいた人間の不在は思ったよりもこたえた。三月まで三人だったのに、あっとという間に一人になってしまったのだ。
忙しさに紛れて忘れかけても、ふと引き出しの中まで綺麗さっぱり片付けられた机が目に留まれば、一人いなくなったことを嫌でも思い出してしまう。
学外では、週に一度は彼女と会っていた。特に曜日は決めていなかったが、彼女か弟のどちらかと会えそうな時間帯を狙って見舞いに行った。時折友人とも顔を会わせることができたが、彼に時間を合わせようとは思わなかった。
純粋に彼女の母親に好意を抱いていたから、だしにするような真似はしたくなかったのだ。
娘と親しい男が二人が度々、それも別個に訪れるのは暇な患者や病院関係者達の好奇心を煽ったようだが、彼女の母親は「あっちは娘の彼氏。で、こっちはあたしの」と笑い話に仕立て上げた。明るくて気の若い母親を眺めながら、彼女が年を取って落ちついたらこんな感じだろうかと思った。
毎日の通学、そして週に一・二度の見舞いを繰り返すうちにゆっくりと日々は流れた。
そして六月の終わり、彼女が久々に大学に姿を現した。

土曜の昼下がり、彼女はバイトが休みになったと言ってケーキの箱を下げてやって来た。
平日に比べ人数は少なかったが、居合わせた全員が彼女を歓迎した。
『あ、机無事だった。物置になってると思ってたよ』
彼女は嬉しそうに椅子に腰掛け、件の二人組が交代で拭いている机に頬を寄せた。
それを見た助手がわざとらしく新聞を放り投げ、他の院生達が続いて私物を置きだした。
『ちょっと待って―――そこの四年坊主、こっちに来な!』
手荒いもてなしに両手を振ってわめいていた彼女だったが、四年の男子学生が自分のカバンを持ってやってきたのを見咎め、すかさず噛み付いてケーキの箱を押し付けた。
『調子こいてんじゃないわよ、今はまだあたしが先輩だっつうの―――お茶』
横柄な態度に呆れ、自分の机に置いてあった査読誌で頭を叩いた。
『お前なあ、あんまり威張ると来年ひどい目にあうぞ』
『あ。この子、院行くんだっけか。てことは威張るなら今のうちか』
違うだろうと言ってもう一度叩くと、彼女が振り返って査読誌を取り上げた。
『痛いよ、もう………うげえ。こんなもん、よく読めるよね―――あて!』
げんなりした顔で英文の雑誌を返す彼女の頭を、D2の先輩が素手ではたいた。
『こんなもんだと? お前何様だ』
『………だって英語だし』
『英語っていったって、お文学でも古語でもねえんだから、普通に読めるだろうが』
『普通に読めませんって。前に丸尾君に見せてもらったことありますもん』
一つの論文を、訳をつけるでもなく、ただ黙読するのにどれだけ時間がかかったを彼女が大仰に嘆くと、もう一度手が飛んできた。
『お前、一体どうやってうちの大学に潜りこんだんだよ!―――まったく、そんなに英語が嫌なら、こっちでも読んでろ』
そう言いながら前日のセミナーのレジュメを突きつけた先輩を、「酷なことをする」と心の
中で詰った。
(どれだけブランクがあると思ってるんだ)
久しぶりにここの空気を吸わせるために渡すなら、もっと他にある筈だ。
たった二ヶ月、されど二ヶ月。自宅と病院とバイト先の三箇所をコマネズミのように回り続けて自分の時間などほとんどない。先週病院で会った折に、最近読む本はバイト先の予備校の講義に関するものばかりだと溜息をついていた。すぐに笑顔で話題を変えたが、相当こたえているのだろう。決して母親や弟の前では言えない愚痴を、黙って聞いてやることしかできない我が身がもどかしかった。
あの日より前なら、先輩達が彼女を笑い者にしても「いつものことだ」と流せた。
しかし、さすがに今は見るに忍びない。
コピーを広げた彼女の方を見ないようにしてコーヒー豆の残量を確認し、まだ十分あるにも関わらず、予備を買ってくると言って研究室を後にした。
生協へ行き、口実にした買い物をすませた後に書籍売り場で時間を潰しさえしたのだが、戻ってみれば彼女はまだいて、先輩に叱咤され続けていた。
『だから何でそうなるんだよ!』
『だってさっき先輩ゆったじゃん!』
果敢に言い返す彼女の頭を別の先輩がペンで叩いた。
『言ってない言ってない。少なくとも俺は聞いてない』
ドアを開けるなり響いた大声に少々面食らっていると、助手が笑いながらやってきた。
『お使いごくろうさん』
『賑やかですね』
『久しぶりだしな。いやあ、やっぱり面白いわ』
彼が顎で示した先では机にかじりつく彼女の周囲を学生達が取り囲んでいた。
頑なに自説を曲げない彼女を先輩達が小突き回し、尻馬に乗った後輩が笑う―――毎度お馴染みの光景から、作り笑顔で視線を外した。
『あれ、行ってあげないの?』
普段なら先輩達の手から彼女の頭を庇うのが自分の役目だ。けれども、今日はことさら過敏に反応してしまいそうで、あえて輪に加わるのを避けた。
『あまり酷いようでしたら代わりに止めてください』
『酷いって、別に苛めてるわけじゃないだろ』
『はいはい、可愛がってるんですよね』
どこがとは言わずに生返事で受け流し、彼女が来るまでやっていた作業を再開した。近々セミナーの当番が回ってくる。午後は丸々下準備に充てようと思っていたのだが、すっかり予定が狂ってしまった。
『怒るなよ。真面目な話、苛めるつもりならあんな手間かけないって。みんな暇じゃないんだから』
助手がそんなことを言っていいのかと問い詰めたくなるような甘ったるい発言に腹が立つ。
時として叩く側に加わるのは、まだ学生気分の抜けていない証拠なのかもしれない。
『打たれ弱い子だったら最初からあんな扱いしないし』
自分もそう思っていたから、過去、同じような場面で苦笑しつつも彼女の傍らにいられた。
だが今は、彼女の図太さをこれ幸いとばかりに、皆で嘲弄しているように見えてしまう。
『ま、大分煮詰まってきたみたいだから、あとちょっとで終わるんじゃない?』
彼が言い終わらないうちに、騒がしかった集団が急に静かになった。見れば彼女は顎に手をかけて真顔で黙し、周囲も突っ込みの手を控えている。
しばらくの間続いた静寂は、彼女の気の抜けた声で破られた。
『あ』
僅かに目を細めるのは見慣れた表情のはずだったが、その時はやけに眩しく見えた。 『わかった!』
何がだ、と周りが言うよりも早く、彼女はたった今理解した内容を嬉しそうに語り始めた。
必ずしも要領のいい説明ではなかったが、懸命に自分の言葉で話そうとする彼女の声に、 先輩二人は黙って耳を傾けていた。
『ってことで、いいのかな?』
ひとしきり話しつづけた彼女がそういって結ぶと、先輩が再びペンで頭を叩いた。
『いいけど、時間かかりすぎ』
続いてもう一人の先輩が頭を叩く。
『お前が休学してからこっち、時間内に終わらないなんて滅多にないぞ。すげえ快適』
膨れっ面になった彼女に助手が声をかけ、本を一冊投げてよこした。
『あげるよ。暇なときに読みなさい』
『ありがとうござい………って、これ英語………』
『日本語でも意味が判らなきゃしょうがないだろ。それ、内容は教養程度だから安心していいよ。あ、そうそう。今さらこんなもの渡されるなんて恥ずかしいと少しは思ってね』
『いやいや、あたしはここの恥部でございますから。でも丸尾君がいるから不作の年ってわけでもないでしょう? 足せば収支トントンじゃないですか?』
不意打ちで自分の名前を出され、顔が引きつった。
『お前一人だったら、不作通り越して凶作だわな。つか、足すなよ。丸尾が穢れるだろ』
『期待の星と恥部か。すごい組み合わせ』
先輩達に茶々を入れられ、彼女は本をカバンにしまいながらなおも言い返した。その後も延々と言い合いは続き、たまに周囲の野次が飛ぶ。早々に自分から話題が逸れたことに安堵し、賑やかな集団に背を向けて、付箋をつけたページのコピーを取った。
うるさくはなかった。逆に、ほんの数メートルの距離なのに、妙に遠く感じられた。
遠く感じるのは、あの中に入っていけそうにないから。
出遅れたからではない。 入るタイミング以前の問題だ。
場違い、という言葉が脳裏を掠めた。
―――どうして自分はここにいるのだろう。
そのままぼんやりと手を動かしていたが、コピーを取り終えるなり声をかけられ、手土産のケーキを選ばされた。
彼女はコーヒーが入るのを待たずに立ったまま手づかみで食べてしまい、病院に行く時間だからと帰っていった。
『あー、やっとうるせえのが帰った』
そう言った先輩は素早く食べ終えて机に向かい、ノートパソコンを引き寄せた。
『たしかに。久しぶりに聞くとほんっとうるさい』
彼女の相手をしていたもう一人の先輩も既に席に戻り、本を広げている。
二人して顔も上げずに彼女の悪口を言い続けていたが、次第に会話の間が空き、やがて静かになった。
『丸尾先輩?』
四年生に呼ばれてはっとした。どうやらかなり長い間、二人を眺めていたらしい。
『あ、うん。ちょっとぼうっとしてた』
気遣わしげに見返され、無理に言葉をつないでみせる。
『二人とも凄いなあと思って。僕が説明してたら、あんなに早く終わらない』
『すぐ手が出るから、教わる方も必死でしょう』
彼女と違い自分は殆どやられたことがない、と続けたけれども、その顔に驕りはなかった。
『俺じゃ叩きがいがないし』
聞きとがめた先輩が、本に目を向けたままペンを掲げた。
『叩いてほしけりゃこっちにおいで』
四年生が笑いながら近くに行って叩いてもらうのを見て、そういえば自分は一度も叩かれたことがないと気づいた。
彼女ほど目をかけられていないと僻む気にはなれない。年次は上でも、先輩もまだ学生だ。
それでも彼女のことを短期間で理解していた。四年以上も側にいた自分よりも。
教授のように教える側の人間だったらもっと早くに、と考えかけてやめた。四年生だって判っている。判る人間には判る、ということなのだろう。
自分は判らない側の人間だったのだ。


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