数学・物理 100の方程式

act. 19

頭をさすりながら戻ってきた四年生は、忙しげな先輩達とは対照的にのんびりとケーキを食べ始めた。
『元気そうで良かったですね』
彼女の話題を振られても困るとは言えず、曖昧な笑いを浮かべた。
『元気すぎてうるさがられちゃってるけどね』
『静かだったら心配通り越して気持ち悪………あ、今のは聞かなかったことに。ええっと、来年の四月に復学するんでしたっけ』
『多分。お母さんの経過も順調みたいだし』
四年生は頷いて、月曜になったら二人組に自慢すると言って笑った。
『あいつも愛されてるなあ』
『そりゃもう』
『ガサツな女って見下されやすいんだけどね。特に同性に』
つい嫌味な言い方をしてしまったが、相手は勝手に履き違えてくれた。
『確かに、ごく一部で非常に同性受けが悪いみたいですが』
皮肉な笑みを浮かべるのを見て、同じフロアに噂雀が一羽いたのを思い出した。
『あそこは厳しいって聞いてたんだが、意外と暇そうだよな』
『事情通気取りで吹かしまくってますよ。“ヤッカミ丸出しで見苦しい”って陰で笑い者になってます。承知の上でやってるんだったら、それはそれで凄いかも』
『フカシって言ってくれるんだ』
『何しろ発信源が一人だけですから。言ってることの十分の一でも本当ならもっと大勢の人から聞かされるはずでしょ? 周りの人も止めてやればいいのに“面白いからやらせとけ”って感じで―――女の人は怖いですねえ。その辺はきっちり足並み揃ってますもん。先輩達にしてみれば、面白半分にしてもやめてくれってとこでしょうけど』
『言ったところで余計面白がらせるだけだしね。付き合う付き合わないってやりとりがあった後も一緒にいるのなんて別に珍しくも何ともないと思うけど、何かにつけてあることないこと言って回るんだよな。それもあいつ一人悪者にして―――自分より格下と決めた相手には、とことん居丈高なんだから』
わざとらしく溜息をつくと、人のいい後輩が慰めてくれた。
『そうそう表立って嫌われるタイプでもないと思うんですが、そこが気に入らないって人もいるでしょうね。いい子ぶってるとか―――まあ、万人に愛されるなんて不可能だし、気が合わないっていう人達がいて当たり前で、まったくいなかったら気持ち悪いですよ』
『うーん………いい奴なんだけど、女の子の集団に入るとどうしても浮いちゃうんだよな』
『あちらさんも大概浮いてますが。噂の垂れ流しを止めないのだって、見てて面白いだけじゃなくて積極的に関わりたくないのもあるだろうし。表向きはどうあれ、実際は「一緒にされたら困る」って一線を引かれてます。皆さん、プライド高くていらっしゃるから』
思わず後輩の顔を見つめてしまった。
『………辛辣だね』
『そういうのに辟易してるから、女の子の集団から浮いちゃう位の人にホッとするんです』
『癒し系だったのか、あいつは』
感慨深げに呟くと、先輩がこちらも見ずに「あんなに人を消耗させる癒し系がいるかよ」とこぼした。
『さんざん構い倒しといて何言ってんですか』
物怖じしない四年生が笑うと、もう一人の先輩が大仰な溜息をついて天井を仰いだ。
『どうせならもっと可愛い子を構いたいけど、後輩は選べないからなあ』
『可愛い子って「せんぱぁい、わかんなぁい。教えてくださぁい」みたいな?』
四年生が両手を組んで小首を傾げてみせると、気のない声で返事をした。
『いいねえ、そういうの』
『お前アホか。うちの大学にそんな殊勝なのがいるわけねえだろ』
『夢くらい見させて。それに、うちの大学どうこうは関係ないでしょ。今どきそんな子、滅多にいやしませんて。いたとしても、周りの女の子に嫌われまくりで村八分だね』
『とかなんとか言って、現実にいたら相手にしないくせに。先輩達、揃って無視しそう』
容易く想像できる。無視はしないまでも軽くあしらい、まともに相手にしないだろう。
助手の言うとおり、彼らもやる気のない者をかまうほど暇ではない。
『いやあ、懇切丁寧に教えてやるよ? 手取り足取り腰を振り、ってな具合で』
『オッサンくさ………まあ今日はいないからいいですけど、間違ってもあの二人の前では言わないで下さいね。セクハラだって吊るされますぜ』
『そんなに神経細くねえだろ、あいつらは』
『だね。「どうぞ、お一人で好きなだけ振ってて下さい」とか言って鼻で笑いそう』
『うーわ、そっくり。もしかして言われたんですか』
『まさか。百合ちゃんズの前で下ネタ披露する度胸が俺にあるわけないでしょ』
『すごい言われ様ですね―――ま、あいつらもそれだけのことはしてるけど』
出身校に因んだニックネームをつけられた四年生の女子二人は、共に生粋の女子校育ちだ。
講座が決定した時、「純粋培養のお嬢様がやってくる」と先輩達は喜び、他の講座からは羨ましがられた。今となっては憐れまれているが。女の園で健やかに育った二人は、ものの見事に理系オタク共の独善的な夢を粉砕してくれた。
それに比べて彼女は擦れてなくていい、と言う後輩は、まだ話題を変える気はないらしい。
『そんなにいいなら口説いてみる? 今ならもれなく噂の仲間に入れるよ』
笑って手招きする自分に、後輩は慌ててかぶりを振ってみせた。
『滅相もない―――ていうか、やっぱそういうんじゃないですし。尊敬してるし、好意も持ってますが、押し倒そうとは思えません』
『………迅速かつ明瞭なお答えありがとう』
少し苛めようと思っていたのに、直球で返されて鼻白む。
そんな自分の代わりをかって出るようなタイミングで、先輩が四年生に突っ込んだ。
『後輩より殴られてる奴を尊敬ねえ。打たれ強さでも見習いたいの?』
『はい。見習いたい点は他にもありますが』
『ふうん。例えば?』
『努力家だけど、それをひけらかしたり、他人に同等の努力を要求したりしないでしょ。見てる方がしんどくなるような切羽詰った感じもないし。むしろ楽しそうですよね』
『確かに本人は楽しそうだけど………ノートを取ってる時なんか、見てて疲れないか?』
先輩が首を傾げると、それまで黙っていた助手がいきなり二人の会話に割って入った。
『あれはなあ―――初めて見た時、何じゃこりゃって思ったよ。“熱心にノートを取るのも結構だけど、今何やってるのか判って書いてる?”ってここまで出掛かったからね。ま、多少時間はかかっても、自分の手で書いた分はちゃんとものにしてるみたいだからいいんだけどさ』
助手の言葉がさっくりと胸に突き刺さり、いたたまれなさに面を伏せた。
『あいつなりに努力はしてるよな。とても見習う気にはなれねえけど』
『いや、見習うといっても、そっくり真似はできないし、する気もないんで』
すかさず予防線を張った四年生は、墓穴の堀り方も見習えと先輩に詰られた。
『それも遠慮しておきます。ノートにしたって、俺があんな勢いで手を動かしても余裕がないガリ勉君って感じで鬱陶しいだけですよ。でも先輩は………なんて言ったらいいのかな。一所懸命なところを見てると、俺も頑張ってみようかなって思えるんですよね。やる気を分けてもらってるみたいな………って、ちょっとクサいか』
笑顔で話す彼がうらやましい。自分はすっかりやる気をなくした。

夕刻になり、残っていた面子が揃って定食屋に向かいかけた中から、一人で抜け出した。
食欲がないのに加え、彼らと一緒にいるのが苦痛になりかけていたのだ。 アパートに帰るなり荷物を床に放り投げ、ベッドにもたれて膝を抱えた。
(………何を期待していたんだか)
彼女が泣けば満足したのか。馬鹿馬鹿しい。
わずか二ヶ月でそこまで悲惨な状況に陥るのなら、休学はもちろんのこと、長期の入院や旅行、語学留学等は一切できなくなってしまう。
それだけ自分が彼女を侮っていたということだ。今日になるまで気づきもしなかったが。
長らく友人の振りをしながら密かに見下し、「あれよりはマシだ」と安堵していた。
そうでもしないと、不安に押しつぶされてしまいそうだったから。
大学入学直後に友人に出会い、できのいい学生と自分の力量の差を嫌でも認識させられた。
以来、「この先ついていけるのか」と怯えながらも、彼女の存在を支えに院まで進んだ。
脱落するなら彼女が先で、彼女がついていけるうちは自分も大丈夫と思っていたのだ。
思い上がりと誤解を積み重ねて何とか四年間凌いだけれども、もう限界だ。
判ってしまった。僅かな期間でも大学を離れたら取り返しがつかないのは自分の方だ。
彼女は違う。
久しぶりに訪れた研究室で、空白期間に臆することなく新しい知識に身を浸していた。
一度で理解できないのを恥じもせず、素直に「判らない」と言って質問し、笑われてもなお執拗に食い下がった。入学当初から少しも変わらないひたむきさで。
―――転んでも泣かない。すぐに立ち上がり、ひたすら前に進もうとする。
指名を恐れて身を縮め、やむを得ず発言する際も誤りを恐れて出来るだけ短く纏めようとする姑息な小心者が、よくも彼女を見下せたものだ。
ふと頭を上げた瞬間に床に投げた荷物が目に入ってしまい、空しさがいや増した。
彼女を叩いた査読誌は、大学に入学して以来ずっと購読しつづけているものだ。
内容が判らなくても英語の論文に少しでも慣れることができれば、と思って読み出したのだが、まだ同級生が手を出していないものを読む自分に酔っていたのは否めない。
判りもしないくせにと嘲られるのが嫌で、院に進むまでわざわざ学外で注文していたそれは、四年間で書棚の一角を占有するほどになった。立派なのは量だけで、自分の中には何も残っていないけれど。
何もと言うには語弊があるかもしれない。これのおかげもあって、今ならまだ試験の評価や語学力は自分が上だとかろうじて思える。何の慰めにもならないが。
近頃の子供は自分の頭で考えようとしないと言われて久しい。なりこそ大きくなったが、自分はまさしく「近頃の子供」の典型だ。なまじ記憶力が良いのも仇になった。
長年、自分の数少ない取り柄だと信じてきたが、それだけを頼りにここまで来てしまうくらいなら、いっそ人並み以下の方がよかったのかもしれない。
高校・大学・大学院と、入試の度に、こんなお粗末な人間が合格する代わりに誰かが不合格になった。誰であれ、自分以外の人間が進学した方が有意義だったろうに。
範囲を覚えて必要とあらばそれを紙に書き写してきただけで、先輩達を向こうに回してでも主張したい自説など一度も持ったことがない。テストで良い点をとれば頭を撫でてもらえる、そんな幸福な時代はとうの昔に終わってしまったというのに。
………二ヶ月の間離れて、ようやく自分の目から曇りが取れた。
与えられた問題を解けばすむ領域を越えて、先へ進む力は自分にはない。
学問の神様がいるとしたら、きっと彼女の方を愛している。 職業としての学問に携わるのに、自分と彼女のどちらがふさわしいかは言うまでもない。
ずっと目を背けてきた自分の卑しさと弱さ、無能さが許せなくて、その夜は眠れなかった。

次の日は出かける用事も気力もなかったため、そのまま一日中部屋で落ち込み続けた。
二日間どっぷりと沈んでいた気分は、三日目の朝を迎えても浮上する兆しは見られなかったが、月曜とあっては仕方がない。いやいや起き出して洗面所に向かった。
しかしながら鏡を見て、あまりの酷さに絶句した。今日の予定を諳んじ、休んでも支障はあるまいと判断してベッドに戻る。
寝不足と泣き過ぎが丸わかりの顔で外に出たくなかった。
(明日になったら行こう)
学校と名のつくものに通いだして十六年余、幼稚園を含めてすらも一度もズル休みをしたことがないのだし、たまには自分を甘やかしてやろうと思ったのだ。
それまで一度も自分に厳しかったことなどないくせに。

たった一度のつもりでいたズル休み。
まさかこれが脱落への第一歩になるとは、思いもよらなかった。


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