数学・物理 100の方程式

act. 17

卒業式の間中、泣きそうになるのを必死でこらえた。大学に行けば友人に会える生活が終わってしまうのだ。
式の直後、人気のない場所に誘われた頃には死にそうな顔をしていたに違いない。今生の別れでもあるまいにと友人は笑いだし、彼女に小突かれていた。
『丸尾君に謝った?』
そう彼女が切り出した時、すぐには何のことか判らなかった。忘れたわけではなかったが、既に遠い記憶になりかけていたのだ。
真顔になった友人は一瞬目を伏せたが、すぐに視線を上げた。
『ずっと黙っててごめん。院に行くつもりはないってもっと早く言えばよかった。でも、お前とは初任給だの倍率だのって、そういう話したくなかったんだ。そんな暇があったら数学の―――いや、数学じゃなくても何でもいい―――大学で学んでることについて、話をしたかった。お前と友達になれて四年間本当に楽しかったよ。これからもよろしくな』
照れもせずに差し出された手を硬く握り締めた瞬間、ついに涙が溢れてしまった。
『な、泣くなよ―――おい、ハンカチ』
すかさず彼女が目元を拭いてくれるのに甘え、自分では何もせずに泣き続けた。
『ま、まだ院に行くかどうかまだ決めてないって、一年の夏休み前に言ってただろ………親もどっちでもいいって言ってるって………』
『うん、言った』
『事務職って、なんなんだよ………』
『あ、お前、事務職馬鹿にすんなよ。これでも結構真面目に勉強したんだから』
『事務職馬鹿にしてるわけじゃない、なんでわざわざ文系就職したんだ………も、もし、進学の費用とか、そういうのが理由だとしても………』
本来、友人が謝るいわれなどどこにもない。駄々をこねていると自分でも判っていたが、この際一年近く貯め続けた鬱憤を一気に晴らしてしまおうと思った。学費が問題なら出させてくれと最後まで言わずにきた自分への、せめてもの御褒美だ。
『いや、金じゃない。バイトで稼いだ分もあるけど、頼めば親も出してくれたと思うし』
『だったらなんで………僕なんかより、お前のがずっとできるのに………』
『それはない。ないのは根性もだけど―――こいつくらい執念深くなれたら考えたかもな』
友人が苦笑しながら彼女を指差すのを見ても、単なる揶揄だと思っていた。
教養でも学部でも、いつだって友人は鮮やかで鋭かった。
対照的に彼女は泥臭い努力を重ね、何事にも執拗に食い下がった。時には見当違いな方向に進みかけ、それを周囲が押し留めて正しい道に引き戻してやるといった具合で、お世辞でも友人が褒めるような器ではないと決め付けていた。
『執念深くて悪かったね』
『尊敬してるんだよ。お前ほど熱くもなけりゃタフでもないからさ―――もう大丈夫か?』
頬を掠めた指先に顔が熱くなりかけたが、彼女がタイミングよく友人の腕を引いてくれた。
『ハンカチ濡らしてきて』
このままでは研究室にも行けないと友人を追い払った後、彼女は軽く自分の肩を叩いた。
『丸尾君とは、あと二年は一緒だね―――四月からもよろしく』
そう言って笑った彼女は、四月の半ばからぷっつりと大学に来なくなった。

その日、自分にメール一つよこさず休んだ彼女を訝り、携帯にかけたが繋がらなかった。
メールを打った後、念のために自宅にもかけたが、こちらも出なかった。
普段なら一旦諦めて夜を待つところだが、なぜかその日に限って携帯と自宅の両方に何度もかけなおした。なにがしか、予感めいたものがあったのかもしれない。
二時過ぎ、日中は誰もいないはずの自宅の電話に出たのは彼女の弟だった。まだ高三の彼に「学校はどうしたのか」と尋ねると、小さな声で母親が倒れたと答えた。
朝、救急車を呼んで一緒に病院に行き、姉を残して一旦家に戻ったところに自分からの電話がかかってきたのだという。
そこまで一息に話した後、ふいに言葉を途切らせ嗚咽を漏らした。
『すぐに行くから家で待ってて』
先輩に手短に事情を話し、急いでアパートに帰った。車に乗り込む前に友人の携帯に短いメッセージを残してから一目散に彼女の家に向かう。
四年も一緒にいれば彼女の家庭環境も少しは知っている。
父親は既に無く、薬剤師の母と弟の三人暮らし。祖父母も全員他界しており、両親は共に一人っ子。近い親戚が殆どいないのだ。
学生の自分に大したことが出来るはずもないが、それでも彼女の元に行ってやりたかった。
マンションの入り口に立っていた彼女の弟を拾い、どこの病院かを聞き出した。
『必要な物はあとで姉ちゃんが取りに行くから学校行けって言われたけど………行けるわけないじゃん』
赤い目を隠すように俯いた彼の頭を信号待ちで撫でた。彼とは初対面の時に“強大な姉に虐げられる弟”という非常に情けない共通点で話が弾み、以来弟のように可愛がってきた。
『学校行けって言ったのは、緊急を争う事態じゃないってことだろうから』
無責任な言葉を吐く傍らで姉弟の前途を憂い、心中嘆息した。
一家の大黒柱が倒れたのだ。まだ学生の二人は一体これからどうすればいいのか。
そんな自分の胸の内を読んだかのごとく、弟がため息をついた。
『俺、高校卒業したら―――できたらの話だけど―――就職する』
『………今すぐに、それも君一人で決めることじゃないと思うよ』
『勉強そんなに好きでもない俺が無理して大学行く必要ないし。勉強中毒の姉ちゃんはともかく………姉ちゃんが学校辞めるのは絶対やだ。ドクターにも行かせてやりたい』
健気な言葉に他人の自分ですら目頭が熱くなりかけたが、当の姉は病院の階段でいきなり弟を張り倒した。
『ふざけんじゃないわよ。あたし、あんたが就職したいなんて初めて聞いたよ。いつから就職希望になったか言ってみな』
頭一つ分背の高い弟の襟首をつかんで揺さぶる姿は、自分の姉以上の迫力だった。
慌てて止めに入って弟を背後に庇ったら、余計彼女を怒らせてしまった。
『卒業してすぐに就きたい職があるわけでもないんでしょ? あったら人の背中になんか隠れたりしないよねえ? 思いつきでもの言いなさんな!』
いくら声を落としているとはいえ、病院の階段でもみ合うのは迷惑かつ危険だ。
『二人とも、家に帰ってからゆっくり話し合った方が』
『話なんか―――ああもう、とにかく大学行け。入ってから好きなだけバイトでも何でもしろ。言っとくけど、高卒フリーターと大学生じゃ時給に差があって当たり前だからね』
ろくな反論もできぬまま、弟は小銭とメモを渡されて買い物を命じられた。すごすごと去る彼の後姿を見送りながら、彼女は両腕を組んでため息をついた。
『………あー、なんであんな甘ったれに育っちゃったかな』
『甘ったれはないだろ、あの子なりに色々考えて』
『あたしも手が出ちゃったからアレなんだけどさ。丸尾君の言う通り、ここでする話でもないでしょ。「病院に来たら気分が盛り上がっちゃいましたー」って言ってるようなもんじゃん。悲劇の主人公気取ってんじゃねえよ、まったく―――もう一回病院に来るなら、家から何か持ってきてくれりゃいいのに手ぶらで来やがって。ほんと使えない奴』
男なんて大体そんなものだと自分の母が入院した時の話をしたら、今度はこっちに怒りの矛先が向けられた。
『お母さんとお義姉さんが一度に倒れたらどうすんのさ』
その時は姪達がやってくれるだろうとはあえて言わず、友人に連絡済であることを告げた。
『一応、「詳しいことが判り次第連絡するから、それまで来るな」って伝言いれといたから』
そう言わなければ早退して駆けつけていただろう。自分と違って、入院先を教えられなくても何とか辿り着いてしまえそうな男だ。
『別に電話しなくてもよかったのに。丸尾君もごめんね、わざわざ来てくれてありがと』
『よくないよ―――こっちこそ何もできないのに押しかけて悪かったね』
素っ気無い彼女の態度につい拗ねてしまったら、彼女が笑いながら背中を叩いた。
『そんなことないよ、ちゃんとあの馬鹿送ってきてくれたし。ふらふら出てったから、この上あいつまで事故にあって入院したらどうしようかと心配してた』
すでに医師の説明も受けたという彼女に誘われて病室へ向かった。
眠っていると聞いて家族でもないのにと尻込みしたら、「それを言うなら最初から病院にくるな」と返されてへこんだ。
『やだな、冗談だって。うちのお母さん丸尾君のファンだから目が覚めたら悔しがるよー。またそのうち暇ができたら顔見せてやって』
そのうちということは、やはり長期にわたる入院なのか。
『どれくらいになるかねえ………ま、生きるの死ぬのって病気じゃないから。あ、退院祝いは是非来てね』
この期に及んでいつも通りの身も蓋もない口が叩ける彼女を見て、上がしっかりしすぎるとついつい下が甘えてしまうのはどこも同じだ、としみじみ思った。
母親の顔を見せてもらった後、自販機でコーヒーを買って廊下のベンチに座った。
『さっきはごめんね。後であいつシメとくから』
『シメるなよ。それに、病院で思いついたわけじゃない。来る途中にも話してたよ。勉強そんな好きでもないし、“みんな行くからとりあえず”だからいいんだって………』
『それが本音なら、あいつだって今日こんなとこでいきなり言ったりしなかっただろうし、あたしもあんなに腹立たなかったよ。』
姉を「勉強中毒」と評するだけあって、弟の学習方法は至ってスマートだった。机に向かう時間も驚くほど少なく、タイプとしては実の姉よりもその彼氏に近い。
しかし、読書に充てる時間を聞いてしまえば、姉といい勝負の中毒患者であると知れる。
勉強が嫌いなはずがない。
一昨年の夏休み、大学で開かれた高校生向けの公開講座に出て以来、ずっと志望は変えていなかったはずだ。彼女も「うち受けたいんだって。成績だけはいいんだけど、とろいとこがあるから変な失敗しそうでやだよ」と嬉しそうに話していた。
―――どうしてあの子が。
はにかみながら将来の夢を語った彼を思い出すと、悔しさが胸にこみ上げてくる。
なにも、学ぶ機会を奪われた子供は彼一人というわけでもない。世間にいくらでもいる。
判ってはいるのだが、やはり実際に言葉を交わした相手は別格だ。
大学に進んでも教養から学部に上がる際に希望した学科に進めるかどうかなんて判らない。
希望が叶ったとしても、挫折感に苦しめられることだってあるだろう―――自分のように。
それでも行けるところまで行かせてやりたかった。挫折するならそれも良し。
やれるところまでやって駄目なのと、最初から何もできないのとでは、後に引く尾の長さが違う。
―――いっそ、金を出させてくれと言ってしまおうか。
怒鳴られるのを覚悟して唇を湿した瞬間、彼女がぽつりと呟いた。
『費用があってもテンション落ちて不合格だったらそれまでなのになあ………ま、本当にやる気なくしたんならそれはそれだ。無理矢理行かせても税金の無駄遣いだし』
『失礼を承知で聞くよ。資金面に不安はないんだ?』
彼女は、私立はさすがに勘弁してほしいと苦笑いしたのち、すぐに生活が逼迫するわけでもなければ病状もさほど深刻ではないと言った。
『あいつも何を勘違いしてあんなこと言い出したんだろ。一緒に先生の話聞いてたのに』
『頭に入ってなかったかもな。それにお母さんも、保険とかの話は「お姉ちゃん」としかしてなかったんじゃないか?―――それじゃ、後は勉強しろって尻叩くだけなんだ』
『そゆこと。ま、近いうちに休学届出してくるわ』
『………休学、って………お金の心配はないんだろう?』
『うん。でも、できるだけ付き添いたいし。あいつもガッタガタだから、しばらく家にいて様子見たい―――やだな、そんな顔しないでよ』
彼女は笑いながら両手で紙コップを包み、覗き込むようにして語り続けた。
『うち、母子家庭じゃない? お母さんのおかげであんまり金銭的な苦労はしてないけど』
祖父も早世したため母親もまた母子家庭に育ったという。苦心して一人娘を大学まで行かせた祖母は「女だからこそ手に職をつけておきなさい」と幼い孫に言い聞かせたそうだ。
『けど、お母さんはあたしが大学で数学やりたいって言っても特に何も言わなかったし、教職勧めたりもしなかった。あいつはあいつで天文学とか寝言こいてるし………姉弟揃って食えない方へ食えない方へって進んでんのに「好きにしなさい」くらいしか言ったことない。資格の有り難味は身に沁みて判ってる人なのにね』
穏やかに語る彼女は、親から貰った金をちらつかせる隙を窺うばかりの自分よりも、はるかに大人で逞しかった。
『秋には、復帰できそう?』
『来年の春にしようかなあ。キリもいいしね。その間バイトでがしがし稼げば、あの馬鹿にも時給の差ってのを見せ付けてやれるしさ』
『僕にできることがあったら、言ってくれよ?』
『うん。手ぶらでいいから見舞いに来て。暇があったらでいいから。無理はしないでね』


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