数学・物理 100の方程式

act. 16

「あ、うん………えっ、もうこんな時間?!」
急ぐ様子もなくのんびりと服を拾い上げたからまだ時間に余裕があるものと思っていたが、時計を見るともう終電が出てしまった後だ。
「電車、もうないよね。ちょっと待ってて」
財布を取りに立ち上がりかけたが、肩を押されてベッドに転がる。
「適当に帰るからいいって」
その『適当』が嫌なのだ。そこらで適当な車を引っ掛けたり、あるいは誰かを呼び出したりしないで、まっすぐタクシーで帰って欲しい―――と言えたらいいのだが。
「気をつけて」
実際に口から出るのは、当り障りのない言葉だけ。
「ん。おやすみ」
そのまま扉に向かうと思っていたが、ふと足を止めてサイドテーブルの本を取り上げた。
「え」
つい上げた声に反応して、彼はすぐに本を元の位置に戻し、こちらを見た。
「ああ、勝手に触って悪かったな」
「べ、別に悪くなんて。ただ、その、古い本だから。そういうのが読みたければ、もっと新しいのを貸すよ?」
「いい。んじゃ」
ひょいと片手を挙げて寝室から出て行く彼を、手を振りながら見送った。
扉が閉まるのを見届けてから目を閉じる。奥まで音が響くような閉め方はしないから、耳をすませていないと、いつ玄関から出て行ったか判らない。
本当は玄関まで一緒に行って見送りたい。彼の姿を見ていられる時間は一秒だって惜しい。
しかし、実際に行動に移したことはない。玄関口で袖を掴んで引き止めてしまいそうで、恐くてできない。
―――鬱陶しい真似はしたくない。できる限り、彼にとって都合のいい男でありたい。
かすかな金属音を聞き取ったのち、浴室に向かうべくのろのろとベッドから這い出ると、先ほど彼が手にした本が目に入った。

“連立方程式から数理物理の最先端へ”と副題がつけられたそれは、本来見られて困るようなものでもない。子供の頃に隣りのお兄さんに貰って以来、大切にしてきた本だ。
大学院卒業後、就職のために自宅を出ることにした彼が引越しの荷物を纏めているところに顔を出したら『欲しい本があればあげるよ』と言われた。
中学生になる直前の自分がどうしてこの本を選んだのか、理由は良く覚えていない。ハードカバーではない、比較的薄めのものなら学術誌の類もあったはずなのだが。
おそらく表紙に惹かれたのだろう。見たこともないグラフや聞いたこともない方程式が並んだそれが、他の地味な表紙のものよりもとっつきやすく感じられたのかもしれない。
一応貰ったその晩に自室で広げてみたものの、何が書いてあるのかさっぱり判らなかった。
それでも彼をしのぶよすがとして、常に学習机の上に載せておいた。自慰を覚えてからは何度もお世話に………そんなことは黙っていれば判りはしないのだが、後ろめたいやら恥ずかしいやらで慌てふためいてしまった。
くれた当人の預かり知らぬところで汚らしい真似をしているという自覚はある。
幼い自分とよく遊んでくれた隣家の次男坊は年の離れた姉と同学年だった。
自分が幼稚園の頃はさほどでもなかったのに、小学生になってから頻繁に声をかけてくるようになったのには理由がある。
なんと彼のストライクゾーンは小学生だった―――わけではない。残念ながら。
後に思い至ったが、進学を機に上京した姉との接点を保ちたい一心だったのだろう。
もっとも、将の近況を尋ねると『僕と遊んでるのにお姉ちゃんの話ばっかり』と拗ねてしまう馬では努力の甲斐もなかったが。
じきに諦めて、夏休みを迎える頃には彼から姉の話題を振ることもなくなった。だからといってすぐには役立たずのチビを邪険にできない人の良さに付け込み、結局大学卒業まで付きまとった。
間もなく自分の兄が学生結婚をしてしまったのも彼にとっては不幸だった。学生夫婦に代わって孫の面倒を見始めた母が、これ幸いとばかりに家庭教師を頼んでしまったからだ。定期的に部屋を訪れ、正規の時間が終わってもなお居座るガキなどさぞ煩わしかっただろうに、嫌な顔ひとつ見せなかった彼は本当に偉いと思う。
『末男ちゃんは賢いから楽だ』と度々言ってもらえて有頂天になりもした。もしかしたら家庭教師はいらないだろうと暗に仄めかされていたのかもしれないけれど。
それでも、小学生の自分が勉強に関して手がかからなかったのは確かだ。ことさら知能が高かったわけでもないが与えられた課題を黙々とこなすのが苦にならない性質で、テストではそれなりの点を取ってくる子供だった。
時間内に解けず空欄で提出した問題も、一度教えて貰えばちゃんと覚えて次からは解けた。
―――今にして思えば、この時すでに危険な兆候は現れていたのだ。当の本人はもちろん、学校の教師も親も家庭教師も、誰も気づいていなかったが。
小学生低学年の頃、どうして答案を破いてしまう級友がいるのか理解できなかった。消しゴムのかけ過ぎで破れるなんて思いもよらなかった。
これでテストが毎回満点なら実に嫌味たらしい子供だが、それほどできが良くもなかった。
解けたらさっさと書くし、解けなかったら考える。考えても判らなかったらパス。当然、解けたつもりでいたのが間違いだったりすることもあるが、いずれにしても答案を破くには至らなかった。
『もしやテスト憎しでわざとやっているのか』と家庭教師相手に漏らしてしまったほどだ。
何度も消しゴムをかけるのは延々迷っている間に何回も答えが変わるからだと家庭教師に説明されてもピンと来なかった。
試行錯誤を繰り返せばどうしてもそうなるというのが、もう感覚的に判らなかったのだ。
(考えたって、知らないものは知らないし、判らないものは判らない)
頭の隅でそんなことを思いながら、闇雲に数値や単語、解法等を暗記して、何も考えずに受験を乗り切った。

やがて大学に進学し、友人と彼女に出会った。
学籍番号順に並ぶ語学の授業で彼女を挟み横一列の席だったのがきっかけとなり、その日の新歓コンパでもさっさと三人一緒のテーブルについた。
友人には一目で惚れた。よく日に焼けた顔、逞しい体にまず惹きつけられ、快活な笑顔に駄目押しを食らった。
高校三年間山登りに専念して浪人したと照れ臭そうに語る彼は、いわゆる理系学生像からは程遠く、青白い勉強小僧の典型である自分の目には大層眩しかった。
やがて講義が進むにつれ、彼の頭の良さを肌身で感じることになった。
演習や実験での要領や手際の良さもさることながら、講義に関しても理系文系の科目を問わずに要領よくノートを纏めていた。
試験期間に入ってもバイトの予定を変えず、人に貸したノートが試験当日迄に返ってこなくても平然としていた彼。特に勉強していた様子も無かったのにしっかり優を取っていた。
こうして思い出すと普通に優秀な学生だった気もしてくるけれども、当時はとてつもなく凄い男に見えた。自分があまり要領がいい方ではなかったせいもある。だが、それ以上に彼女が酷かったからだ。
板書のみならず講義をまるごと口述筆記したかのような、膨大かつとりとめのないノートを初めて見た時は絶句した。
『あたし馬鹿だから、どれが書かなくてもいいのか時間内に判んないんだよねえ。だからもう全部書いちゃうの。筆圧低いし、手首も丈夫だから腱鞘炎にはなったことないんだ。頭の分と差し引きなのかも』
豪快に笑う彼女を見て、どうして現役で合格できたのかと頭を抱えたくなった。
「人間、努力すれば何とかなる」という稀有な実例なのだろう。努力するのも才能だと、どこかで読んだ覚えもある。
―――そうやって片付けた自分の不遜さに気づくのは、まだまだ先のことだった。
学部に進むと彼の優秀さはますます際立ち、彼女の要領の悪さも一段と目立った。
ゼミに同席した院生に笑われたこともある。
『お前ら三人、バランスいいんだか悪いんだか、よく判らんわ』
笑われるほどかどうかはともかく、三者三様だったのは間違いない。
ことさら自分から前に出ようとはしないが、必要とあれば的確にリーダーシップを執る彼。
ごく当り障りの無い意見を、それも求められた時にのみ述べ、早く終わらせたがる自分。
がむしゃらにノートを取りつつ、たまにとんでもなくずれた発言をして失笑を買う彼女。
―――出来の良さでは上中下といったところか。確かにバランスは取れている。
そうやって勝手に納得していた。
彼女に対する評価はあくまで低かったが、侮っているという意識は無かった。傲慢にも、自分には出来ない種類の努力を重ねる相手に敬意を払っているつもりでいた。
先輩達が彼女に向ける笑いも決して冷たくはなく、むしろ暖かくすらあった。出来の悪い妹を、からかいながらも可愛がっているといった感じだった。
そんな光景を眺め、さすがに院生ともなると皆大人だと感心した。大学に入っても偏差値を振りかざし、他大学を侮蔑する幼稚な連中に辟易していたから尚のこと。
彼女の明るさによるものも大きかったのだろう。頭が悪いと自己申告しても卑屈さはなく、いつも前向きで明るかった。
彼女が院への進学を希望していると聞いた時、「脱落せねばいいが」と密かに案じもした。
不況を反映してか、はたまたモラトリアム期間の延長か、院へ進む者の数は増えているが、脱落者も増加していると聞いていたからだ。
自分も進学志望だ。人の心配をしている場合ではなかったが、それでも彼女に比べればマシだ。友人は間違いなく合格するだろう。
―――どうか三人揃って合格しますように。
そんな幼い夢を、一人で見ていた。

四年に進み、友人と彼女が付き合いだしても依然として三人でつるんでいた。コンパでもない限り、夕刻になれば友人がそそくさと帰ってしまうのも入学当初から変らず、四年になってもバイトに励む余裕のある彼を素朴に羨んで院試の準備に取り掛かった。
彼の分も過去問をコピーしようとして、初めて進学しないことを知った。
『公務員試験受けるんだって』
彼女から聞かされたのもショックだったが、付き合っているのだから当たり前だと自分を納得させた。
―――理系学部で文系就職を志す者は珍しくもないが、地方とはいえ公務員の事務職は相当厳しいのではなかろうか。
『だろうねえ』
恬淡としている彼女に苛立ちかけたが、続く台詞に、背中に冷水を浴びせられたような心地になった。
『ちゃんと話しておくね。丸尾君に聞かれたら説明してくれって頼まれてるし―――前々から準備はしてたんだよ。もう一昨年くらいには、先輩の知り合いにそういう人がいないか聞いて回ってた。対策講座に通ったこともあるし、模試も受けてる』
二人が付き合いだすよりもずっと前から、自分だけが何も知らされていなかったのだ。
『最初は隠すつもりはなかったみたい。でもそのうちに「あいつの耳に雑音入れたくない」とか言い出してさ。なんだかねえ。勝手に理想化して盛り上がってるなあと思ったけど、そこであたしから丸尾君に言うのも変でしょ? 丸尾君はあんたが院行くもんだと思ってるよー、って何回言っても「判ってる、ちゃんと話す」ばっかりだったくせに、今ごろになって「頼む。俺からは言いづらい」って。アホか。自分で言いづらくしたんじゃん』
―――彼の進路の話を雑音だなんて思うわけがない。院に進むと勝手に信じて疑わなかった自分が重く感じられたのか。何も話したくないと思うほどに。
呆然として立ち尽くし、彼女に背中を叩かれて我に返った。
『だから早く言えって言ったのに。もし丸尾君が落ちたらあいつのせいだね』
小さく呟いた彼女の声はいつまでも耳に残り、院試までの数ヶ月間、自分を支えてくれた。
無事合格できたのは彼女のおかげだ。つくづく、彼女は自分の良き理解者だったと思う。
もしかしなくても、ずっと自分が抱いていた彼への想いに気づいていたのだろう。でなければ、あのタイミングであんな台詞は出てくるまい。
ようやくそれを悟ったのは、院を中退すると決めてからだった。
彼女も相当うまくやりおおせたが、こちらの目が節穴だったのが何よりも大きい。彼女のがさつな面ばかりに目が行って、細やかな部分には気づきもしなかった。
ただ無神経なだけの女が、あんなに教授や先輩達に可愛がられたり、友人に好意を抱かれたりするはずもないのに。
………そんなつもりはないと思っていても、どこかで彼女を馬鹿にしていたのだ。


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