ボクたちの選択 5


救急車はさすがにオーバーだという事で、学校にはタクシーが呼ばれた。
担任のはるかは午後から授業があり、また、美智子はいつ何があるかわからないため、
職場である保健室を離れるわけにはいかなかったからだ。
他の教師が送っていく事も考えられたけれど、そうすると話が大きくなりそうで、それは圭介の方から辞退したのだった。
病院に直接向かう事をはるかは主張したが、意外にも美智子がそれを却下した。
状態も安定したし、悪化してもいないため、自宅で休んだ方がいいだろう…というのが彼女の意見だった。
原因は不明のままだ。
「成長期だから不安定なんじゃないかな?」
と美智子は言ったが、それにしても微熱が長く続き過ぎる。
圭介は、もやもやとした得体の知れない不安を胸に仕舞い込みながら、タクシーまで背負ってくれる健司の背中で、小さく溜息をついた。


来客用の正面玄関に横付けされたタクシーが、廊下のずっと向こうに見える。
保健室は正面玄関の正反対の位置にあるため、少しだけ距離があった。
圭介は健司の背中に揺られながら、弟分のはずの幼馴染が、すっかり男の体格になっている事に今更のように驚いていた。
やはり、いつも見てはいても、こうして触れるのとでは実感が違う。

健司の背中は、広く、そして逞しかった。
『小さい頃はあんなにちっちゃかったのにな…』
昔は自分が兄貴分として護ってやった背中に、今はこうして背負われている事が、圭介の心に少し痛みを感じさせる。
嫉妬…だろうか?
けれど、泣き虫で自分の後に隠れているしかなかった幼馴染が、いつの間にかこんなにも逞しくなっている事が、どこか嬉しくも感じるのだ。
そして、ほんの少しの寂しさも。
もう、自分はコイツを護ってやる事は、出来ないんだろう。
そう…心に思い浮かべて。

「悪いな健司」
「いいよ。けーちゃんには昔から世話になってるし。たまには俺にも世話させてよ」
「お前って、イイヤツだよな。オレが女だったら惚れてるぞマジで」
「けーちゃんに好かれてもなぁ…こんな手のかかる彼女じゃあ苦労しそうだ」
「なんだとコラ」
「くっ苦しい苦しい苦しいぃ〜落っことしちゃうよ、けーちゃん〜」
健司はいいヤツだ。
健司のそばにいてやりたい。
『いや、そうじゃない…な』
圭介は健司の首をぐいぐいと締めながら、ひっそりと思う。
『オレは健司のそばにいたいんだ』
いつかきっと、自分にも、そして健司にも彼女が出来るだろう。
そして、卒業。
健司の志望する大学が、自分とは別の大学だと聞かされたのは、いつだっただろうか。
やがて自分と健司は別々の道を進み、そして、それぞれいつか恋人と結婚する。
別の家庭を持ち、きっと、年に何回か会うだけの……そんな、関係に、なる。
今感じているこの友情も、いつか色褪せ、思い出になって風化してゆく…。
『何考えてんだオレは…ホモじゃあるまいし…気持ち悪い…』
圭介は、熱くなる目頭を強引に擦って、自分の考えを振り切った。


家に帰り、玄関の鍵を開けて、どうにか2階の自分の部屋まで上がったところまでは覚えている。
けれど、圭介にはその先の記憶が無かった。

気持ち悪い。
胸がムカムカして、胃がぐるぐると動いているのがわかる。
胃がせりあがって、何も入っていない中身をそれでも放出しようと痙攣するように震えた。
なんとか制服を脱いでベッドに潜り込んだものの、圭介には、もう自分がどんな格好をしているのかさえわからなかった。
シャツを着ているのかどうかもわからない。
ズボンは?ベルトは外しただろうか?
そもそも本当に自分は制服を脱いだのだろうか?
「…ぅ…んっ…」
体の感覚が無かった。
ただ、熱かった。 汗の染みたシーツの中に、ずぶずぶとどこまでも沈み込んでいく気がする。
暗闇に。
覗き込めばそのまま見えない腕で引き擦り込まれ、2度と戻ってこられないような恐怖。

闇に、喰われる。

ゾッとして、全身が震えた。
怖かった。
こんな感覚は、もうずいぶんと感じていない。
風邪で倒れた時も、「たかが風邪」とどこかで楽観していた。
けれど今度のは違う。
これは、違う。
このまま自分の体がどうなってしまうのか、自分がどうなっていくのか、ただ、恐怖だけがあった。

『…健司……由香……』
幼馴染の名を呼んだ。
ぽややんとした顔や、妙に牧歌的なのほほんとした顔を思い浮かべた。
『ちくしょう…オレが苦しんでるのに、なんでオマエらは笑ってんだよ…』
理不尽な怒りが湧き起こり、次いで、すぐにそれは哀しみに代わった。
彼等が離れていく。
遠ざかってゆく。

いや。
自分が置いていかれるのだ。
捨てられるのだ。
お前などもういらない、と、置き去りにされるのだ。

『待ってくれ……待ってくれよ健司……』
涙が溢れた。
置いていかれる哀しさで心が凍て付いた。
もう、ダメなのか?
こんなオレではダメなのか?
もう一緒にいられないのか?
何度叫ぶように問い掛けても、優しい笑みの幼馴染は、ただ、笑いながら去っていくだけだった。


彼は一度、夢か現(うつつ)かはわからないけれど、自分を静かに覗き込む母の姿を見た。
「か……さん……オ…レ……」
「しゃべらないで。いいの。いいのよ?今は眠りなさい」
いつも、黒目がちで大きな優しい瞳が、どこまでも澄んだ色を映していた。
今、自分の息子の体に起こっている事を全て理解し、そこには恐れなど無いのだと諭しているような瞳だった。
額に当てられた、母の白くてほっそりとした手が、ひんやりと気持ち良かった。
汗を拭い、眠りながら少し嘔吐してしまった口元を拭い、母は、子供の頃のように熱く火照った額にキスをしてくれた。
それが、
それが、涙が出そうになるくらい嬉しかった。
闇は続き、体が溶けてゆく夢を見た。
熱が出て、体が軋む。
骨が、関節が、ギシギシと音を立てて罅割れ、砕け、形を無くしていくイメージが圭介の脳を満たした。
そしてそれは、蛹(さなぎ)になる夢に変わっていく。
手も足も体も頭も、全てがどろどろに溶けて、再構成され、生まれ変わる。
自分は「何か」に生まれ変わるのだ。
その感覚だけが、不思議と理解の中にあった。


もう、何も怖くなかった。




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