目が覚めた時、圭介は一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
体が、ドロドロに溶けてしまったかのようだ。息をする事で、かろうじてコレが自分の体なのだと認識出来る感覚…。
熱い。
服を脱いでしまいたい。
ここは、どこだろう?
白い天井。
蛍光灯。
クリーム色のカーテン。
声。
「…こえ…??…」
声が聞こえる。
叫ぶ声。
ボールを追う声。
掛け声。
「お、起きたか?」
体が動かず、顔をちょっと動かして目だけで声の主を探す。
すぐ、ザッ…とカーテンが引かれて、髪の短い、やけに整った顔立ちの女性が顔を出した。
「ソラ…せんせ…」
「まだ体が動かねーだろ?いいから寝てろ」
「ここ…は…」
「私がいるとこって言ったら保健室しかねーよ」
ああ、じゃああれは体育の授業のサッカーの声か。
圭介は、ぼんやりとした頭で今日の時間割を思い出そうとして…思い出せなかった。
今日は何曜日だっただろう?
それで、今はいったい何時?
「…ぐ…ぅ…」
「お?あああああ…ちょっと待て待て待て待て待て!!」
喉の奥からこみ上げてくる灼熱のモノを堪えると、美智子が慌てて枕元の洗面器を持ち、圭介の上半身を抱き起こした。
「…うぇっ…げっ…げえっ…」
朝食べたマッシュポテトのサンドウィッチとスクランブルエッグとブロッコリーと人参とキャベツのサラダ“だったものたち”が、
どろどろと洗面器に敷いた紙の上に溜まっていく。
ツンとした刺激臭に再び胃がぐるりと動き、口の中に大量の唾液が溜まった。
「全部吐け。吐いちまえ」
美智子の手が、言葉の乱暴さとは裏腹に優しく優しく圭介の背中をさすった。
「…ぅ…ぐっ…」
ひとしきり吐くと、ずいぶん楽になった気がする。
美智子の差し出した水を飲むと、清涼な感覚が胃の腑まで滑り落ちていくのを感じた。
「もう、いいのか?」
声が出なくて、圭介は“こくっ”と頷いて再びベッドに横になる。
美智子は洗面器を持ってカーテンの向こうに消え、圭介は急に心細くなって彼女が再び姿を表すのを辛抱強く待った。
甲高い笛の音と男子生徒の叫び声が、カーテンの向こうの開け放した窓から聞こえる。
ゴールしたのか、またはファウルしてしまったのか。
「もうちょっと、寝とけ。私はここにいるからさ」
カーテンの間から顔を出した美智子は、今まで見た事も無いくらい優しい顔をしていた。
結局、あの後、圭介は再び吸い込まれるようにして眠りに落ち、再び目覚めたのは、昼休みのさなかだった。
「あ、けーちゃん、起きたよ?」
圭介の額の汗をハンカチで拭いていた由香が、思わず声を上げてカーテンを開いた。
その動きに誘われるように圭介が視線を巡らせば、保健室のテーブルから立って健司が歩いてくる。
口に咥えているのは箸のようだ。たった今まで弁当を食べていたのだろうか。
「……今、何時だ?」
「あ、起きちゃダメだよぉ」
「大丈夫だよ。なんか、もう平気みたいだ」
起き上がろうとする圭介を、由香が支える。
手に持った弁当箱をサイドテーブルに置いて、健司が手を貸した。
「もうお昼だよ?けーちゃん、ずっと寝てた」
「由香ちゃんなんて、休み時間のたびにここに来てたんだよ?」
「だって…心配だったんだもん」
手に持ったハンカチを、きゅっと握り締める由香は、心底ホッとした顔をしている。
その顔はまるで、
「まるで、子供の心配するお母さんみたいだった」
健司が、圭介の心を読んだかのように言う。
「……せめて、弟くらいにしといてくれよ」
「彼氏でもいいんだけどね」
「ふえっ?」
「ばか。なに赤くなってんだ」
健司の後では、いつの間にか美智子がニヤニヤと笑いながら3人を見ていた。
由香と健司の過保護っぷりが、よほど可笑しいのだろう。
「今更だけど、救急車…呼ぼうか?」
「いいです、ここんとこ無かったけど、中学の時も年に何回か、こういう事があったから」
「ま、そうだろうと思ったよ。お前のオヤジさんに電話したんだけどさ、なんか、あんまり心配してなかったしな」
「…薄情モノめ」
「で、お袋さんには連絡しない方が良かったんだろ?」
「………正解です」
あの母親に「学校で倒れた」なんて言ったらどうなるか、考えただけで恐ろしい。
今日は午後からテレビの収録があるはずだけど、そんなものは当然のように投げ出して学校までやって来るだろう。
そして涙目になって「だから今朝、休めば?って言ったじゃないー!」とか言いながら救急車を呼ばれて、
そのまま病院に担ぎ込まれて軟禁されてしまうのだ。
「さっきまで、はるかちゃんがいたんだけどね」
「はるか先生、すっごく心配してたんだよ?今、けーちゃんのカバンとか取りに行ってる」
「今日はもう帰った方がいいって、さっき言いに来たんだ。カバンは俺達が取りに行くって言ったんだけど、
これも担任の仕事とか、相変わらずワケわかんない事言って走っていっちゃった」
由香の言葉を受けて、健司が肩を竦めた。
いつも穏やかな顔をしているけれど、彼も心からホッとしているのは明らかだった。
長年付き合いのある圭介には、それがわかる。
「あ、はるかちゃんかな?」
少しして、パタパタパタパタパタパタパタパタ…と、けたたましい勢いでスリッパの音が近づいてくるのが聞こえた。
生徒は靴型の上履きだけれど、教師は各自用意のスリッパなのだ。
「カバン持ってきたわよ。ねえ、どう?山中クンの具合」
ガラッと引き戸が開き、髪をソバージュにして黒縁眼鏡をかけた女性が、両手でカバンを抱えてパタパタと入ってきた。
臙脂(えんじ)色のスーツに薄いピンクのシャツ…という出で立ちは、学校の先生というよりどこか進学塾の講師…といった印象だった。
けれど、それに対して顔付きは、教師二年目にしてはまだまだ学生っぽく、にゅにゅにゅと垂れた目とぷくぷくしたほっぺたが、
年齢よりもずっと若く、可愛らしい印象を与えている。
おまけにスリッパは大きなヒマワリの描かれた、やらたとファンシンーなヤツだ。
……誰か、このスーツにこのスリッパは壊滅的に似合ってませんよ?と進言する生徒はいなかったのだろうか?
トータルとして、制服を着たら「ああ、こういう生徒いるいる」とか言われそうで、
生徒から「はるかちゃん」と呼ばれるのも、ある意味仕方ないのかもしれない。
「あ、山中クン目覚めたんだ?どう?もう大丈夫?どっか痛いとことか気持ち悪いとか無い?
あ、吐いちゃったんだっけ?お腹とか空かない?一応、パンとか買っといた方がいいのかな?って思ったんだけど、
高尾先生に『そこまでするのは教師の担当範囲を逸脱してる』とか言われちゃったもんだから買ってないの。
あ、でもお弁当はまだだから、もしお腹減ってたら先生のお弁と」
「落ち着け」
すぱーーん…と、いきなり美智子が手に持ったファイルで女教師の頭をはたいた。
…いい音がした。
全く容赦してないのが、由香にもわかった。
「いっ………たあぁい!」
「入ってきた早々マシンガンみたいにしゃべくり倒すんじゃないよこの子は」
「だってだってだってだって心配じゃないですか!心配したんですよ?朝のホームルームで3人いなくて遅刻かな?って思ったら
浜崎クンが山中クンが倒れたから谷口クンと山野辺サンが保健室に連れて行ってるって教えてくれて、
でも初めて持ったクラスで何かあったらって担任として不安で不安で不安であたまぐるぐるしちゃって…きゃっ!」
ぷるぷると震えながらファイルを振りかざした美智子に、はるかが慌てて頭を抱えてしゃがみ込んだ。
ひとめで2人の関係…というか、力関係がわかる構図だった。
「ぼーりょくはんたーい…」
しゃがみ込んだままコソコソと美智子から距離を置き、由香の影に隠れながら右手でコブシを振り上げたりする姿は、
とても教師には見えない。
…しかも涙目になっていた。
いつもの事とはいえ、こういう教師に授業を受けている自分達の運命というか、不幸というか、
とにかくなんだかそんなようなものに、漠然とした不安をどうしようもなく感じてしまう圭介達三人だった。