ボクたちの選択 6


目が覚めた時、窓の外には夜空が広がっていた。
空には浩々と月が輝いている。
静かだった。
窓から見える家々には、明かりが一つもついていない。
今がいったい何時なのか、知りたいと思わなかった。
だから時計も見なかった。
聞こえるのは時計の秒針が時を刻む音。
そして、窓の外から聞こえる、近所の犬の声。
住宅街のためか、自動車の走る音もしない。
眠っている間に人類が滅びて、今、世界中で生きているのは自分だけだと言われたらそのまま信じてしまいそうだった。

重たくて、まだ感覚の戻らない体を、ほとんど引き摺るようにして部屋を出た。
長時間正座して足が痺れ、そのまま立った時の、あの全く感覚の無くなった状態に似ていた。
床を確かに踏んでいる筈なのに、足にはその感覚が無いのだ。
どこか、自分の足じゃない借り物のような感じがつきまとう。
手摺に掴まって、転げ落ちないように気をつけながら階段を下りた。
両親はまだ帰っていないのか、家の中は静まり返っている。
眠っているのだろうか?とも思ったけれど、玄関を横切る時にクツが無い事を確かめた。

キッチンに行くと、テーブルの上に紙があるのが見えた。
読まなくてもわかる。
きっと今日は帰れないとか、遅くなるとか、そういった文と「ごめんね」と「愛してる」の文字達が“いつものように”綴られているのだろう。
やはりさっき見た母は夢だったのだ。
…いや、それとも一度帰ってきて、それから再び仕事に出掛けたのだろうか?
どちらでもいい。
今はただ、喉がひりついて痛かった。
シンクに寄りかかって水道の蛇口を開き、コップに水を注いで一口飲んだ。
すると、今まで感じた事の無いような喉の渇きを感じてそのまま立て続けに3杯の水を飲み、
そして咽(むせ)て、体を折りながら床に膝をついた。
まだ、体が熱い。


「…どう…なっちまったんだ?…俺…」
ひゅうひゅうと、喉が鳴った。
自分の声と思えなかった。
甲高くて、声を出すだけで声帯がじんじんと痛む。
鈍い全身の感覚の中で、喉の痛みだけが、これが現実なのだと教えてくれているようだ。
「…カッ…けへっ……っ……」
咳き込みながら立ち上がり、グラスをシンクに置くと、圭介はトイレに向かった。
尿意はほとんど無い。
膀胱…というか、膀胱と陰茎の間に妙な違和感がある。
何かが詰まっているような、逆に何かが抜け落ちてしまったような、不思議な感覚だ。

トイレに入り、洋式便器の蓋を上げて、そこでようやく圭介は、自分が身に着けているのがTシャツとトランクスだけだという事に気付いた。
両方共、汗を吸ってぐっしょりと濡れている。
たぶん、冷えて冷たいのだろうけれど、その感覚さえも希薄だった。
「……おい…ぉぃ……」
いつものようにトランクスの横から指で性器を引き出そうとして、思わず声が漏れた。
陰茎が、小さく縮み上がっている。
指で触れた感じは、まるで小学生のモノみたいだ。
親指の三分の二くらいの長さと太さしか無い。
『…やべ……高熱が続くと、インポになるとか聞いたな』
陰茎も縮んで小さくなるのだろうか?
『……やだな……』
トランクスの横から外に引き出せなくて、仕方ないので下着は脱いで「大」の方をする時みたいに便座に座って用を足した。
親指よりちょっと小さい陰茎を指でちょっと押さえながら放尿する自分に、圭介は情けなくて思わず苦笑してしまう。
小学生の頃は、上手に便器に放尿出来なくて、よくこうして女の子みたいに便座に座って用を足した事を思い出したのだ。
『オレは…あの頃からなにも変わってねーや……』
健司も由香も、どんどん変わってゆく。
変わらないのは自分だけだ。
それを、強く強く感じる。
変わりたい。
本当は、圭介も変わりたいのだ。
けれど、どうすればいいのか、それが全くわからなかった。

『…いや…』
きっとわかっているんだろう。
でも、わかろうとしないだけなのだ。
『ほんと……ガキの頃から進歩してねーよな……』
健司や由香を護りたくて、本当は怖くて仕方ないのにカッコだけつけて強がって見せた、あの頃と。


便座から立ち上がる時、膀胱に残っていたらしい尿が不意に漏れて、太股とトランクスを濡らしてしまった。
高校に上がってまでオモラシをしてしまう自分を恥ずかしく思ったけれど、こういう状態なら仕方ない…
と無理矢理自分を納得させる事にする。
でも、小学校5年生までオネショをしていた健司を、これではもう笑えない。
2階で着替えてから、また階下の脱衣所に戻ってくるのは難しそうだった。
だから、家に誰もいない事をいいことに洗濯カゴへ下着を放り込んで、下半身裸のまま2階へ上がる。
なんとも情けない格好だけれど、背に腹は代えられないというのはまさにこの事だ。
「ふう……ふぅ……」
息が上がる。
部屋に戻って新しい下着を履き、シャツを脱いでパジャマに着替える頃には、もう体力が残っていなかった。
体の中が全部、どろどろとした泥に変わってしまったような気がする。
ベッドに倒れ込むようにして寝転がると、毛布を被った。
あっという間に意識を持っていかれる。
夢も見ない闇の中、圭介は、ギシギシと体が軋み、内臓をかき回されるような不快感に全身を震わせていた。


それから3日間、圭介はただひたすらに眠り続けた。
何度も夢と現を往復し、どれが現実でどこからが夢なのか、朦朧とした意識の中では判断出来なかった。
夢の中で母がめそめそと泣き、父がガハハと酒を飲みながら笑った。
かと思えば母がニコニコと嬉しそうに笑って何度も頬擦りしてきて、父は憮然とした顔で酒を飲んでいた。
現実でも夢でも、機嫌が良くても悪くても酒を飲んでいる父の頭を思い切り引っ叩いてやりたかったけれど、
ほとんど動かない体ではどうしようもなかった。

その間、口にしたものといえば、なんだかわからないけれど蜂蜜みたいなトロリとした金色の液体と、
やたらと喉越しの爽やかな水だけだった。
金色の液体は、蜂蜜みたいに喉が痛くなるような甘ったるさではなく、ふうわりとほのかに深緑の香りのする不思議な味がした。
甘いのは確かだけれど、後に残るような甘さではないのだ。
口にするだけで、たとえようも無いほどの幸福感が全身を巡った。
ただ、今の圭介には、まだ自分の舌が味を感じられる事の方が嬉しかった。
母に、この液体が何か聞いたような気がする。
けれど母は、その「食事」が終わると、ただいつものように優しく微笑んで、熱い頬に軽くキスしてくれるだけだった。


圭介が学校を早退した昼から、太陽が2回沈んで2回昇った。


2日目にはすっかり熱も引き、汗をかく事も無くなっていた。
それでも、彼は時々しか目覚めない。
健司も由香も、毎日圭介を見舞ったけれど、圭介の母…涼子が会わせてくれなかった。
いつ行っても「眠っているから」と言うのだ。
静かにしますからと言っても、ひと目だけでもと言っても、やんわりとした優しげな微笑で拒絶された。
さすが女優だと、健司も由香も思った。
こんな時でも、感情を出さずに、微笑みの仮面で人を惑わせる…。
「そんなに具合が悪いのなら、病院に移してちゃんとした医者に見せた方がいいと」言った時も、
「そうね」とか「もう来てもらったわ」とか、本当か嘘かにわかには判断のつかない口調と表情で言われては、
それ以上問う事も出来なかった。
2人とも、自分の子供が可愛くない親などいないと信じていたからだ。
それに、相手はあの圭介の母親だ。
子煩悩で超過保護で、子離れが全然出来ていない…と圭介自身に評される、あの母親なのだ。
彼女が圭介にとってためにならない選択などするはず無いし、逆に、彼女に任せておいた方がいいようにも、思ったのだ。

「けーちゃん…大丈夫かな…」
由香が、泣きそうな顔で2階の彼の部屋の窓を見上げた。
下校途中に、彼の家に寄ったその帰りだった。
夜の帳(とばり)が空を濃紺に染め始め、夕焼けが、山のように地平から盛り上がった雲の陰に隠れかけている。
「……明日、またこようよ」
由香に付き合ってここまで足を運んだ健司が、同じように窓を見上げてポツリと言った。


圭介が学校を早退して3日目の朝。
太陽が3回沈んで3回昇った、その朝に、彼はようやく目覚めた。
目覚めてすぐ、彼は異常に気付いて身を起こした。
まだ体の調子がおかしい。
ただ、痛みとか、だるさとか、そういう不快感ではないのは確かだ。
それはもう嘘のように無くなっていた。
そういう肉体的なものじゃなくて、どこか違和感がある。
けれど、根本的な問題はそこには無かった。

臭い。

汗の臭いと、ツンとした刺激臭が鼻を突いた。
「…なんだコレ…」
思わず自分の手や、パジャマの胸元の臭いを嗅ぐ。
「…ぅわ…」
猛烈に汗臭かった。
そして、手も首もべとべとして、擦ると皮膚が剥がれ垢(あか)となってボロボロと落ちる。
まるで、何日も何ヶ月も風呂に入っていなかったように。
そして決定的だったのは、
「やべ……なんだよコレ……冗談だろ…?」
トランクスとパジャマのズボンが、ベッドのシーツが、ぐしょぐしょに濡れているのがわかった。
しかも、股間を中心とした部分が、だ。
『……この歳で寝小便かよ……なんだよ……』
「…冗談じゃねーぞ…」
おまけに、声もまだおかしい。
妙に高くて、ザラザラとした違和感を感じた。
…と、いきなり何の前触れも無く部屋のドアが開く。

「あ、けーちゃん、気付いた?」
何かの冗談かと思うくらい、たっぷりと重量感のある豊かな胸が、イメージそのままにゆさりと重たげに揺れた。
「ちょっと待ってね?今、用意するから」
黒のサマーセーターにブラウンのジーンズ、そしてオレンジの靴下で部屋に入ってきたのは、母親の涼子だった。
艶々とした長い黒髪を背中の所で軽くまとめ、そのまま腰まで垂らしている。
一見、化粧っ気の無い顔は、それでもナチュラルメイクをしっかりしてあるためか、元々整ったカメラ映えする顔のためか、
とても高校生の息子がいるような女性には見えないほど綺麗だった。
また、切れ長で深い色合いの眼には優しげな微笑が浮かび、マスカラをつけていないにも関わらず
長い睫はバッチリと綺麗に形を見せている。
まるで、恋人とのデートに気合を入れて望んでいる女性みたいにも見えるけれど、涼子にとってはこれが普通なのだ。
妻であり母であり、そして時に主婦であり嫁である彼女だが、その前に、男なら誰もが一度は寝てみたいと思う
「女優」の1人でもあるからだ。
「ちょっ…えっ?…な、なんの!?」
「用意」と言われ、無意識に圭介は毛布を押さえて、慌てて左右をキョロキョロと見た。
肉食動物に狙われた小動物が、必死になって逃げ場を探しているようで、はっきり言って、果てしなく挙動不審だ。
「汗かいちゃってるでしょ?体拭いてあげようと思って」
見れば、母はほっそりとした白い両手に、お湯を満たした洗面器とタオルを持っている。
圭介の勉強机の上にそれを置くと、母はタオルを浸して、圭介の側に膝を着いた。
肌は白く、近くで見てもシミや皺がほとんど無い。
口元にある笑い皺は、老いよりもむしろ可愛らしさを際立たせていた。

去年の出演映画では冷徹なイメージで売っていたはずだけれど、ここにいるのは息子が可愛くて可愛くて可愛くて仕方ない、
ただの子煩悩な母親でしかなかった。
「い、いいよ!自分でするからさっ!」
「もうっ!何恥ずかしがってるの?けーちゃんが眠ってる間、お母さんがずっと世話してたのよ?」
すごい迫力で“どーん”と迫ってくる胸に比べ、頼りないくらいほっそりとした腰に手を当てて、
涼子は“むうっ”と拗ねたように唇を突き出してみせた。
とても32歳の女性がするポーズではない。
…いや、それどころか、母親が息子にするポーズとしても、果てしなくヘンだった。

「せ…世話??」
「おしっことか、うん」
「わわわわわわっ!!!わかったから!!もういいから!出てってよ早く!!!」
「なあによぉ…赤ちゃんの時だってけーちゃんのうん」
「母さんっ!!」
「なあに?」
顔を真っ赤にして毛布をギリギリと握り締め、圭介は睨み殺しそうなくらいの目付きで母を見た。
対して涼子は、圭介のそんな剣呑な雰囲気には全く意を解さず、にこにこと微笑みながらさっそく洗面器の中でタオルを絞り始めていた。
「あ、そうそう。けーちゃんが眠ってる間にね、由香ちゃんと健司くんが来てくれたのよ?それも毎日。
 あの2人、よっぽどけーちゃんが好きなのね。いいわねぇ友達って。ああいうお友達は大事にしなくちゃね。
 けーちゃんは、あの2人のどっちが好きなの?」
「…え?」
この若い母親がこちらの話を聞かないのはいつもの事なので、圭介はうんざりした顔をしながら『いかにして母を追い出すか』という
可及的速やかに処理されるべき問題事項を検討してた。
…が、半分聞き流していた母の言葉の最後に、何か聞き捨てならない一言を聞いたような気がして、
圭介は思わず聞き返してしまったのだった。
「あ、ああ、なんだ、友達として好きかって聞いたのか」
「ううん」
ハハハと笑う圭介に、母はにこにこと笑いながら首を振った。

「……いや、健司は男だし」
「そうね」
にこにこにこ。
「ええと…母さん?」
「はい?」
にこにこにこにこにこにこ。
「オレも男だよ?」
「そう?」
「そうに決まってるだろ?」
「そうかな?」
「はあ?自分の息子だぜ?何年顔突き合わせてんだって…」
圭介は、ガックリと肩を落として深く深く息を吐いた。
芸能界なんて場所に身を置く人間は、やっぱりどこかネジの具合が一般人と違うのだ。
幼い頃から母に紹介された芸能界の友人に、ロクな人間がいなかった事を思えば、いくら母親でもやはり
『あっちの人』なんだと息子ながら思ってしまう。感覚そのものがズレているのだ。
どこの世界に、幼馴染の男と恋人になる母親がいるものか。
少なくとも圭介には、健司と『おホモだち』になる気は、全く、これっぽっちも、無かった。
「母さんはオレをゲイにしたいのかよ…」
すると、母は急に優しい笑みを消してタオルを再び洗面器に入れ、圭介のベッドの横に正座した。
そして、正座したためにずいぶんと低くなってしまった位置から、じっと愛する息子を見上げる。
艶やかな黒髪には天使の輪がかかり、切れ長の目が強い意志を感じさせる光を鮮烈に宿していた。
まるで、死地に向かう直前、王に我が剣と心を捧げる女戦士のような錯覚を覚える。
「な…なに…?」
なぜかわからない。
けれど、圭介は初めてこの母親を「怖い」と思った。
今まで自分の味方だと思っていた人が、急に見知らぬ人になってしまったような感じ。
立場は変わらないのに「本質的な部分で理解出来ていなかったのだ」と知ってしまった時のような感じ。
そんな、“ぞわり”と背筋を撫で上げられるような感覚に、肉体ではなく心が慄(おのの)いたのだ。


「ねえ、けーちゃん…落ち着いて聞いてね?」
母はそう言うと、世界の終わりを告げる隠者のように、神託を告げる賢者のように、たっぷりと空白の時間を置いてから、
おごそかに言った。
「おちんちん、ある?」
圭介は、頭が真っ白になった。




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