ボクたちの選択 26


午後7時ともなると、日も沈んで辺りはぐんと暗くなってくる。
空には、紫から群青色に移りゆく夕焼けの残照がわずかに残るばかりで、星達がさっそく夜の瞬きを披露していた。
夜空に黒々とそびえる校舎の黒いシルエットは、まるで堅牢な要塞のようだ。
実際、実社会から切り離された『学校』という空間は、世の中に満ち満ちている苦難から、
幼い生徒を護る最後の砦のように思える。
辛く厳しい現実に飛び立つ前に、弱くて小さな翼にたっぷりと力を蓄えるための場所。
甘えが許される、最後の時間。
だからこそ生徒達は毎日を精一杯楽しむのだ。
本人達にその自覚は無いだろうけれど、時が経ち、再びこの幼年時代を振り返ったとき、
自分がどれほど大人達に“護られて”いたか、まざまざと思い知るだろう。
もちろん彼も、その一人だった。
その体の中に、どんなにすごい力が秘められているとしても。
今は、ただの無力な、自分の運命に戸惑い、躊躇い、逡巡する、ただ一人の子供に過ぎなかった。

グラウンド横にある、体育館より一回り小さい蒲鉾(カマボコ)型の建物は、内部から浩々とした光が漏れている。
それは、健司が属する水泳部が、夜遅くまで練習をしている室内プールの光だった。
全天候型の半屋内プールというのは、ひょっとしたら県下でも珍しいのかもしれない…と、圭介は思う。
天井を覆う天蓋は、天候によって半分以上も開閉し、冬季にはボイラーと屋上の太陽式電池の併用で
水温を常時27度から32度に保っている。
夏季でも水温は微妙に調整され、もちろん、高温維持による雑菌繁殖を抑えるために
水は<常に滅菌フィルターを通されていて、消毒用の塩素使用も最小限となっていた。
8コースまである50メートルプールは、深さが1メートル50センチから1メートル90センチと比較的深めに造られていて、
圭介は1年生の時に足が攣(つ)り、危うく溺れかけた事があった。
それ以来、圭介はあまりこのプールが好きではない。

その圭介は、グラウンド横の特殊舗装された小道を、プールに向かって足早に歩いている所だった。
右は雑木林…というか、樹木園となっていて、外灯があっても闇がわだかまり、どこか薄気味悪い。
いくら自分が星人の子供…という非常識な存在だとしても、怖いものは怖いし、不気味なものとはなるべくお友達になりたくはない。
『まだべたべたする…』
今日は作法室で、茶道部と一緒にお茶を飲んだ。
美術部であるはずの自分が、だ。
いや、百歩………一万歩譲って、そこまではいいとしよう。
我慢ならないのは、杉林部長の用意した着物だった。
抵抗空しく茶道部の女子生徒全員に寄ってたかって着付けられ、白粉(おしろい)や紅まで塗られてお人形さんよろしく
畳の上で長時間正座させられれば、慈悲の心溢れるマリア様だって不機嫌になるというものだ(マリア様は着物なんて着ません)。
着物の下はパンツ無しが常識だ!とばかりに、あのヘンタイ部長に裸にひん剥かれそうになった時は
さすがに泣きたくなったけれど、茶道部の部長さんが助け舟を出してくれて危うく事無きを得た。
それでも襦袢(じゅばん)、足袋(たび)は必須らしく、着付けに20分、化粧に15分かかって、
実際にお茶の作法を“習わされた”のは1時間くらいだった。
「なんで…このオレが…」
首までべたべたと塗られた白粉(おしろい)の残りをタオルで拭いながら、圭介はブツブツと呟く。
いっそのこと運動部のシャワーでも借りれば良かったと思うけれど、彼は、まだどこのシャワー室も使わせてもらえないから、
こうして水で濡らしたタオルで適当な状態まで拭うしかなかったのだ。
しみじみと圭介は思う。
こんな事までして、いったい何になるというのか。
たぶん部長は、
『おもしろいから』
の一言で済ませてしまうに違いない。
キチガイに刃物。
ヘンタイに財力。
なまじ実家がこの街有数の名家なため、金にあかして好き勝手やっている。
前々から変だ変だと思っていたが、今週になってから以前より輪をかけて変になっている。
おかげで圭介は学校で、自分の置かれた異常な境遇に悩んでいる暇が無い。
本当にいい性格をしているヘンタイだ。
それをつくづく痛感してしまう圭介だった。


屋内プールの入り口まで来ると、タイル地の階段を一人の女生徒が下りてくるところに出会った。
圭介がそれと気付く前に、軽快なステップで階段を駆け下りてくる。夜目にも豊かな胸が、
白いブラウスの下でゆさゆさと揺れているのがわかった。
少し湿った感じのショートボブの髪を掻き揚げて、にっこりと笑うその顔に、圭介は見覚えがある。
「圭介くん……ええと、今は圭ちゃんって呼んだ方がいいのかしら?」
美人…だった。
圭介と同じ丸襟のブラウスと紐タイに紺のベスト、そしてチェックのミニスカートという出で立ちでありながら、
纏(まと)っている雰囲気がまるで違う。
出るところは思い切り出て、引っ込むところは思い切り引っ込んでいる。
それでいてバランスを崩したりせず全体のシルエットはすらりとしていた。
まさに理想的な体型と言える。
由香とはまるで正反対の女性だ。
「どっちでもいいですよ。玲奈さんの好きな方で」
「…じゃあ、圭ちゃん。……ふふ…なんだか、見ないうちにずいぶんと可愛くなっちゃったのね」
彼女、岬 玲奈(みさき れいな)は、健司の従姉だ。
あの樽型の母親(失礼)と同じ血を引いているとはとても思えない、彼女の姉の娘で、今は女子水泳部の部長をしているはずだ。
この学校よりもっと上を狙える頭がありながら、わざわざこの学校を受験したという、
まるでどこかの誰かさんを思い出させるような、とっても奇特な人だった。
1年生の時にメーカーから競泳用水着のモデルを頼まれて、そのカタログが1週間で近隣の街の店頭から消えてしまった…
という、ウソか本当かわからない伝説を持っている。
今は3年生だから、きっと2年前よりも女らしいやわらかい体型になって、今モデルになれば3日で無くなるに違いないとか言われていた。
かくゆう圭介も、一時期、憧れていた時があった。
健司の所によく遊びに来ていたから、その時は彼女目当てに用も無いのに彼の家まで行ったりなどしていたのだ。
「玲奈さんはもう帰り?」
「もう…って、やあね。それこそ、もう7時過ぎよ?」
美人は、声まで美しい。
玲奈は、「貴女は本当に高校生ですか?」と問いかけたくなるような、そんな美貌とスタイルだ。
それは、並々ならぬ努力の賜物なのだろう。
なにしろ、水泳部にいるのは大会で記録を出すためじゃなく、その類まれなプロポーションを維持するためだ…と
実(まこと)しやかに囁(ささや)かされているくらいだ。
圭介は、思わず自分の体を見下ろした。
見事なまでに何も無い、まるでモンゴルの大平原みたいにまっ平らな胸がある。
場所によってなだらかな起伏があるだけ、あちらの方がマシかもしれない。
「女の子なら、こんな時間に歩くのは危険よ?」
『あなたは別だけど』と言われた気がした。
確かにそうなのだけれど、なんだかムッとくる。

圭介が彼女を憧れの対象から外したのは、そんなに昔ではない。
彼女の物言いがどこか挑発的で、こちらを見下しているように感じ始めたからだ。
それは圭介の気にし過ぎなのかもしれない。
本当は、昔と同じように誰にでも優しく親切なお姉さんなのかもしれなかった。
けれど、圭介は彼女の視線や口調や態度に、「自分が綺麗だと自覚しているためにおこる傲慢さ」が滲み出ているような気がして仕方なかった。
そんな彼女が、健司の従姉妹で、あいつと一番近い所にいるのがなんだか気に入らない。

従姉は、結婚出来るのだ。

「3年生の第一次追い出し会の準備だったの。今年は人数が少ないから楽よ」
玲奈はそう言って、グロスを塗ってやたらとツヤツヤ光る赤い唇で“くすくす”と笑った。
12日の部長引継ぎを機に、水泳部の3年生は夏の大会出場者を除いて事実上部活から引退する。
その追い出し会は、夏休みに入る前に行われる毎年恒例のイベントだった。
「会」とは言っても、なにも食べ物や飲み物を持ち寄って騒ぐわけではなく、3年対1・2年生混合チームでの全体記録会が行われるのだ。
ただし、自己ベストを更新した部員から、抽選で選ばれた人に贈られる商品はちょっと豪華で、
去年は東京ディ●ニー・シーへの1泊2日の招待券だったと聞いている。
…部員の大部分が彼女も彼氏もいないのに、そんなものをもらってどうするのか、という声もあったけれど。
「健ちゃんなら更衣室にいるわよ」
「…どうも」
なんだか余裕の表情(彼にはそう見えた)の玲奈の顔を見ていられなくて、圭介は目を逸らして階段を昇る。
色々な意味で負けた気がして、まるで負け犬にでもなった気分だった。
「あ、そうそう。健ちゃん、夏の大会のメドレーの代表選手に選ばれたでしょ?応援に行くつもりなら…」
「え!?」
「…あら?聞いてなかったの?おかしいわね。選考会は先週末だったんだけど」
「…べ、べつに、オレ達だってなんでもかんでも話してるわけじゃないし」
むっとしてセミロングの髪を揺らし玲奈に向き直る圭介は、まるで子犬が精一杯威嚇しているように見えた。
一生懸命なのはわかるけれど、なぜかそれがひどく可愛い。
「そう?じゃ、わたし行くわ。またね?」
くすっと笑って、目を細め、ミニスカートを翻して階段を下りてゆく。
彼女の姿が闇に紛れて見えなくなるまで、圭介はその後姿を見送った。
それから“ふっ”と肩の力を抜き、
「健司も、ああいうグラマーなタイプがいいんだろうな……あいつ、おっぱい星人だもんなぁ…」
そう呟いてから、それが『男』として言った言葉なのか、それとも『女』として言った言葉なのか、
自分でも判断出来なくなっていることに愕然とした…。


入り口でクツを脱ぎ、スリッパに履き替えるのが面倒なので黒のハイソックスを脱いで
右手にぶら下げながら、ぺたぺたとリノリウムの廊下を歩いた。
ソックスをぶんぶんと振り回しながら裸足で歩く姿は、まるきり近所のいたずら小僧という風情(ふぜい)だ。
ただ、それをしているのが可憐な美少女…という点がどこかおかしい。
美少女なら美少女らしく、ちゃんとスリッパに履き替えて足音を立てたりせずしずしずと歩くものだ。
「うるせー」
圭介は誰にともなくそう呟くと、水飲み場のウォータークーラー(飲料用冷水機)で口を漱(すす)ぎ、
右手で口元をごしごしと拭いながら男子更衣室に行っていった。

平気な顔で。

「うわっ!」
「きゃあっ!」
「いやーん!」
「なんだなんだなんだ!?」
途端に沸き起こる悲鳴と怒号。
「ばーか、オレだよ。圭介だよ」
あわてふためく部員達に、圭介はつまらなさそうに言った。
水泳部の連中とは顔なじみだ。
健司の応援や、今日みたいに彼を迎えに来る事もある上、由香と一緒だと彼女が菓子やらジュースやらを差し入れるので、
どちらかというと“ついでに顔を覚えられてしまった”と言う方が正しい。
その上、今回の事で、校内に圭介の事を知らない人間は一人もいなくなった…と言っても過言じゃなかった。
「…ふざけんなよオマエ…カンベンしてくれよ…」
腰回りをバスタオルで隠した水泳部員が、ぐったりした様子で文句を言う。
足元に競泳用パンツが落ちているから、たぶん今は下半身素っ裸に違いない。
「お前らのチンポ見たって面白くもなんともねーよ。んな貧相なもん金払っても見たかねーや」
「ひでぇ…」
いくら圭介がもと男だとはいえ、今はれっきとした女なのだ。
しかも家族以外は、遺伝的には生まれた時から女だということになっている。
その上、さらさらのセミロングの髪を揺らして可愛らしい美少女に「貧相」と履き捨てられては、
傷つきやすいガラスの心の青少年にとって、一生のトラウマになりそうだった。
「でさ、健司ってまだ中?」
「さらっと流すなよ、おめーよ…」
むあっとした湿気の中、半裸の男達が十数人ひしめいている更衣室を、圭介は裸足のまま濡れたスノコの上を平気な顔でぺたぺた歩いた。
むせ返るような男臭さに、思わず顔をしかめる。
男だった時には何も感じなかった彼らの匂いが、女の体だとひどく不快だった。
「オマエさ、女なんだろ?こんなとこまで入ってくんなよ」
「固い事言うなよ。少し前までは平気だっただろ?」
「事情が違うだろが」
「オレはオレだ。何も変わっちゃいねーよ」
ふふん、と鼻息荒く言う圭介に、ここにいる全員が思う。
『いや、十分変わってるし』
その時、空気が動いて丁度良いタイミングでプールから入ってくる影があった。
「あ、けーちゃん。どうしたの?」
「健司てめー選考会のことだまって……」
耳に心地良い声に顔を上げ、圭介は絶句した。

当たり前だけれど、上半身裸の健司がいた。
その途端、圭介の体が意思に反して硬直する。
健司の裸をこんなに近くで見たのは、実は1年ぶりだった。
大会や記録会の時は2Fの応援席からだったし、いつも迎えに来た時には大抵着替えも済んで、
後は靴下を履いて帰るだけの事が多かったのだ。
健司は、制服を着ている時とは全く印象が違っていた。
180センチはある体躯は、胸板が厚く肩も大きく盛り上がって、バタフライを主種目にする水泳選手らしい力強さに溢れていた。
愛嬌があって牧歌的な雰囲気の方が勝っているためにそうとは知れないが、筋肉は引き締まってバネも強そうだ。
贅肉が全く無く、腹筋はかすかだけれど割れていた。
太股の筋肉はパンッと張って、いかにもしなやかでいながら、水を強引に撥ね退ける強靭な力を内に秘めていそうだった。

随分と長くそうしていたらしい。
実際には5秒かそこらだったかもしれない。
けれど、健司に話し掛けられるまで、圭介は“ぽ〜〜…”とバカみたいに彼の裸の上半身を眺めていたのだった。
「ごめん。けーちゃん大変だったでしょ?だから……。それより、外で待っててくれれば良かったのに」
「あ…うん…」
ハッと気付いて、慌てて健司の顔に視線を上げた。
海苔でもぺたりと貼り付けたような眉が、ふにっと下がり、なんともいえない雰囲気になる。
目がくりくりとして大きいため、その目で見つめられると心の底まで見透かされそうだった。
慌てて視線を下げる。
競泳用パンツの前が、『オマエなんか入れてるだろ!?』と突っ込みたくなるくらいの大きさで盛り上がっていた。
『うわっ』
心臓が破裂したかと思った。
バクバクと血液が急激に頭に上り、くらくらして目を何度も瞬(しばたた)かせた。
「ご…ごめん、今日、付き合えねぇ…」
「え?けーちゃん?」
「オレ、帰るわ。ゴメン」
「どうしたの?」
圭介は、きゅっと目を細めた邪気の無い健司の笑みに、逃げるようにして更衣室を出た。
「けーちゃん!?」

健司の声が追いかけてくる。
圭介は振り返らなかった。
涙が出そうだ。
口元に出来たあいつの笑窪(えくぼ)が、
体格からは想像も出来ないくらい優しい笑みが、
圭介の動機をもっともっと激しくさせる。
「あいつ…」
髭の剃り残しがあった。
『髭が生えてるんだ…』
喉のところに、2ミリくらいの一本の髭。
それが、瞼に鮮やかに蘇る。
『オトコ…なんだよな…』
今さらのように心の中で呟く。
ハイソックスを履き、クツを履き、入り口のドアを開けても、なんだか体が浮いてる気がした。
深呼吸した。
背中にびっしょりと汗をかいている事にも気付かなかった自分に、夜風が吹き付けて初めて気付いた。


健司の(上半身だけ)裸に反応した。

それが、ショックだった。
「オレって…やっぱりヘンタイなのか…?」
特殊舗装の歩道を、まるで母親に叱られた子供のように俯きながら歩いていた圭介は、
保険室の明かりが点いているのを見て、「ソラ先生に相談しよう」と思った。
どうすればいいのかわからない。
心が、体に支配されてしまう。
親友の体を見てどきどきするなんて、ぜったいに普通じゃない。
けれど、すぐに思い直して背を向けた。
相談してどうする?
全てを打ち明けるか?
一週間前まで、自分は遺伝的にも肉体的にも完全に男だった。
けれど母から受け継いだ遺伝形質で、突然女になってしまった。
心はまだ男なのだ。
なのに、完全な女の体が、心を裏切る。
そんな話、誰が信じる?
「……ばかみてぇ…」
結局、圭介はその明かりに背を向けたまま、夜道をたった一人で帰っていった。
窓のそばで、その小さく頼りない後姿を、美智子がじっと見つめている事に気付かないまま。




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