ボクたちの選択 25


圭介が肉体の満足感と精神的な喪失感、それと多大な罪の意識に苛まされながら美術室のドアを開けると、
そこにはもう5人の人影があった。
珍しい。
ほとんどフルメンバーだ。
それで喜んでしまうというのもどうかと思うけれど、悲しい事にそれが現実である事も認めなければならない。
本当は圭介を入れて全部で7人なのだけれど、一人は3年生のため、6月からは顔を出す程度になっているのだ。
12日には引継ぎも完了し、その3年生は実質「OG」となってしまう。
よくこの人数で部として成立しているものだ。
圭介は、それがいつも不思議でならなかった。

「…はよー」
まるで、くたびれたTV局のアシスタント・ディレクターみたいな顔で業界的挨拶をかます圭介に、
いち早くイーゼルの向こうから顔を覗かせた少女がいる。
口に咥えているのはポッキー……かと思えば、チャコールペンだ。
やけに太いと思った。
「ういっす圭ちゃん。遅いよー」
自分で切ったんじゃないか?と誰もが思わずにはいられないざんばら髪の下で、ゲジゲジの眉がいたずら小僧のように動いた。
浅黒い肌は、文化部系というより体育会系のノリで日に焼けている感じに見える。
また、ブラウスの前を大胆に開いたその間からは、綺麗な鎖骨の線が覗いていた。
胸が薄いから色っぽい胸の谷間などは拝めないけれど、鎖骨を含めた首筋の線はなかなかのものだと
本人も自負しているらしく、よくこうして胸元を開けてアピールしているのだ。
その前に髪型とゲジゲジ眉毛を何とかした方がいいと、圭介はいつも思うのだけれど。
「宮森さぁ…一応、男もいるんだから服の前閉じろよ」
宮森倫子(みやのもり りんこ)は圭介と同学年で、隣の2Dのクラスだった。
クラスの男子を差し置いて、「アネゴ」と呼ばれながらクラスのボス的存在になっていた。
「いーじゃん、ここには男なんて久保塚(おまえ)一人しかいなんだからさぁ」
「それって俺の事っスかぁ?嬉しいっス。一応男として認めてくれてんスねぇ?」
ワイシャツ姿で机の上に胡座(あぐら)をかいていた男子生徒が、自分を指差しながら嬉しそうに言う。
少し長めの髪を後で一つに縛っている。
ポニーテールほど長さが無いので、まるでホウキみたいだった。
男子の長髪は基本的に許されていないけれど、「不衛生でない程度の長さ」は黙認されているのだ。
目が細く、例えてみるなら「キツネ」…だろうか。
漫画やアニメなら間違い無く悪役で主人公を騙すタイプの顔だけれど、圭介の後輩のこの少年は、
これはこれで義理堅い正直な人間だったから、圭介も決して嫌いでは無かった。

「性別的には男だろうが。使う機会の無いチンコぶら下げててもな」
「ひでっ。それって差別っスよ…………先輩、ところであと20秒っス」
「うおっ!?」
とても女らしくない呻き声を上げてイーゼルに向かう宮森に、圭介は思わず苦笑いする。
猥雑なセリフが飛び交うが、それもいつもの事なので誰も咎めたりしない。
以前は圭介もこの美術部で数少ない男子部員だったけれど、彼が女になってからというもの、
男は久保塚裕一(くぼづか ゆういち)ただ一人になってしまった。
最近は力仕事や雑用をいつも任されるので、圭介は事あるごとにぶちぶちとグチを聞かされている。
「先輩も早く用意して下さいよ。出来れば俺と代わって欲しいなぁ…なんつって」
「タイム・クロッキーだろ?何分?」
「今は2分っス」
久保塚は左手の銀色をしたゴツい腕時計を振ってみせた。
2000メートル防水とかの「アクア(なんとか)」という自慢の時計らしいが、
圭介は別に時計フェチではないので綺麗に聞き流して記憶に残っていない。
「んじゃ、一巡したらな。久保塚はそれから」
「ええーーー…………と、時間っスー」
久保塚の時間終了を告げる声に、他の4人が“ふううぅぅ”と長い息を吐いて全身の力を抜いた。
モデル役が1人に、時間計測係りが一人、それ以外は全員手にクロッキー用の道具を持っている。
全員が全員、宮森のようにイーゼルに向かってチャコールを持っているわけではない。
クロッキー帳を手に持ってる者、クロッキー帳ではなくスケッチブックを持っている者、子供用のらくがき帳を持っている者……
そこに描く描画用道具もまちまちで、チャコール、鉛筆、サインペン、それに筆ペンだった。
これは全部、今年から顧問になったはるかちゃんの提案だった。
いわく、
『絵はもっと自由なものだもの。決まりきった道具使って描いても、つまらないでしょ?』
との事だ。
彼女に言わせれば、これでもまだ『既成概念に囚われてる』らしいのだけれど。

そして『タイム・クロッキー』というのは部長が勝手に名付けたもので、
短い時間でモチーフ(対象物)の形を正確に、的確に、直感的に捉えるための練習なのだという。
時間は3分から始まり、30秒ごと短くしてゆく。
一番短い30秒までの6本を1セットとして、一度に大体3セットというのがだいたいの流れだった。
まるで運動部の練習メニューのようだけれど、圭介はこの『タイム・クロッキー』が結構好きだ。
頭を空っぽにして何も考えず、ただひたすらにモチーフの形を紙に写し取って行く瞬間が、
まるでスタートダッシュをひたすら繰り返すあの校庭のトラックでの日々を思い出させるからかもしれない。
そして『タイム・クロッキー』は、その時の心の在りようを紙の上にそのまま描き出してしまう。
心に迷いがあれば迷った線を、悩みがあれば悩んだ線を、“ゆらぎ”のままに描き出してしまう。
だから、好きだった。


モデル役をしていた少女が部員の描く円の中心から外に出て、ぐるぐると腕を回した。
かなりふくよかな女の子で、将来はさぞ恰幅の良い肝っ玉母さんになるだろうと思わせる風体をしている。
嫌な感じの“ふくよかさ”ではなく、どこか見る者を和ませるような、そんな体型と表情だ。
本人は結構嫌がってたりするのだけれど、あだ名は当初、そう呼ばれるのが当然とばかりに「マミー(お母さん)」だった。
今はそれが短くなって「マーちゃん」と呼ばれている。
ちゃんと「森本三奈(もりもと みな)という名前があるのだけれど、ここでは誰もそう呼んでいない。
「マーちゃん、またジャンケン負けたの?」
「…はい」
高校一年生とは思えない包容力のある微笑で圭介に答えるけれど、この美術部に所属している以上、彼女もただ優しい微笑みだけの少女ではない。
圭介が珍獣扱いで生徒達に付き纏われていた時、部室にかくまって助けてくれたのは彼女だし、
これだけしか部員がいない美術部に、しっかりと生徒会執行部から部費をぶんどってくるのも彼女だった。
「どうしたんですか?」
「え?」
「なんだか、すごく疲れてるみたい」
まさか、トイレでオナニーして初めてイッてしまったから…などと言えるわけもない。
「オナニーでもやりすぎましたか?」
ギクリとした。
「久保塚ぁ〜オマエ殺されたいのか?」
宮森が物騒な目付きでキツネ目の少年を睨む。
「オマエみたいに毎日毎日センズリこいてるバカガキじゃねーんだからな」
「うわっひどっ!ひどいっスよソレ」
「圭ちゃんみたいな美少女は、セックスもオナニーもウンチもオシッコもしないの」
めちゃくちゃ言ってる。
「美少女ってそんな……ほら、オレってもと男なわけだし…」
圭介がそう言うと、
「あ。俺、センパイが男でも女でもおっけーっスから。バイなんで」
キツネが“きゅうう”と口の両端を引き上げながら笑った。
油揚げでもお供えしたくなってくる顔だ。
…と、
「んひゃうあっ!?」

突然、胸を揉まれた。

「ふむ。毎日揉んでやってるのに、ちっとも大きくならんなぁ」
すぐ耳元で、やたらと理知的で、それでいて同性ですらゾクゾクするような女性の甘い声が聞こえる。
「ぶ…部長……」
いつの間にか背後に現れて、圭介の小さな両胸を優しく優しく揉んでいるのは、美術部部長の3年生だった。
勉強がやたらと出来るくせに教師に注目されて絵を描く時間が無くなるのが嫌で、
いつもいつも学年40位近辺をキープしている変わり者だった。
今時、2日で1本の性欲励起電子遊戯(エロゲー)を消費するディープ(駄目)でコア(ひとでなし)な
「人間以下人種(そだいごみ)」しか反応しないような、三つ編みで黒縁眼鏡の立派なヘンタイだ。
きっと、クラスでのあだ名は「委員長」に違いない。
これででっかいおっぱいだったら、その手の社会不適合者に大人気だったかもしれないが、
あいにく彼女はBカップという標準的なガッカリサイズだった。
「失敬な」
「へ?」
「今、私の事を侮辱しただろう」
「してませんよそんなうわっ…いたたた…」
「ん?胸が痛いのか?」
「は、はい……いたたたたたたたたたたたたたたたっ」
「どうやら本当みたいだな」
「痛いって言ってるんですからわざわざ確かめないで下さい」
「許せ。探求心と好奇心は芸術の母だ」
「ナニわけわかんない事言ってんですか。いいかげん胸を揉むのやめてあひゃふえっ」
黙って座ってれば深窓の麗嬢と言っても通用しそうな可憐な女性なのだけれど、
わきわきと圭介の胸をまさぐる指の動きは立派なヘンタイさんだ。
見ている他の部員達は、圭介が女になって登校してから毎日毎日繰り返されたその場面にすっかり興味を無くし、
早くも次の『タイム・クロッキー』に入っている。
そもそも彼女等は、月曜日に突然圭介がミニスカートを履いて美少女然と顔を出した時も全く動揺しなかったツワモノ達であった。
これくらいの事で動揺するわけもない。
今の圭介には、とてもとても不幸な事ではあったけれど。
「いつまでもぺったぺたではまずいだろう?イロイロと。だからこうして大きくしてやろうというのではないか」
「人に揉まれたからって…んっ…そんなに急に大きくなりますかっ…はっ…んっ…」
「感じるか?」
「感じません!!」
「なんだつまらん」
顔を真っ赤にして怒鳴る圭介に部長はボソリと呟くと、表情をほとんど変えないままポイッと彼を放り出した。
はあはあぜいぜいと、しどけなく机にもたれかかり、圭介は胸を押さえる。
乱れた髪が紅潮した可愛らしい頬にかかり、部長でなくともムラムラきてしまいそうだった。
「か…かんべんしてくださいよぉ……」

さっきから彼の口調が、普段のそれとは全く違う。
教師にさえ厚顔不遜な彼が、この先輩にだけはてんで弱かった。
“天敵”と言ってもいい。
こうまでされて、なぜ美術部を辞めないのか。
それは、あの日あの時あの美術館で見た、圭介の人生を変えたあの絵を描いたのが、この杉林部長だったからだ。
圭介にとって、それは正真正銘の不幸だった。
『これさえなきゃ、いい先輩なんだけどなぁ…』
一歩でも部長から離れようと、じりじりと後ずさる。
「い……いいいん…です…か?3年生…なのに…部活…なんか、きてっ」
それにしてもあぶなかった。
危うく決して踏み込んではいけない道に引き込まれるところだった。
部長の指使いは、繊細で優美でそれでいて大胆で、抵抗の無い女子生徒なら一発で堕(お)ちてしまいそうな恐るべき魔力を秘めている。
「かまわん。りんりんへの引継ぎは12日だ。それまで私は毎日圭ちゃんの胸を大きくするために努力しようと思う」
「しなくていいです」
腰に手を当ててふんぞり返る部長に、圭介は冷たい目を向ける。
「12日以降も続けて欲しいのか?私はそれでも構わんが」
「…誰もそんな事言ってません!」
「なんなら、直接じかに揉んでやってもいいが」
「結構です!!」
「むう………圭ちゃんは、私にいったいどうしろと言うのだ?」
理知的な眉を寄せて腕を組み、本気で悩んでいるのが腹立たしい。
「も、好きにして下さい…」
「そうか」
がっくりと肩を落として泣きそうな顔をする圭介に、部長は人差し指を顎に当てて思案げに考え込むと、
「ではりんりん、後は任せたから今日も圭ちゃんをちょっとだけ借りていくぞ」
「あいよー。なるべく早めに返してねー?」

りんりんこと宮森倫子は、前衛的なポーズで固まったままピクリとも動かないキツネ顔の少年をスケッチしながら、明るい顔で手を振った。
「では行こうか」
「え?え?」
ずるずると手を引っ張られながら、圭介は部長と宮森と他の部員を見る。
…誰も圭介達を見ていなかった。

うらぎりものたちめ。

「『いざ、おともつかまつらん!ラピス・ラズリの鉱脈を探す旅に!』」
「なんですかそれは!」
「気に食わんか?では『行こう!おばさん!父さんは生きて帰ってきたよ!』」
「誰がおばさんですかっ!」
「ワガママだな。では『ここにいてはいけない。日が沈む前にすぐに帰るんだ!』」
「それもなんか違うー」
部長は、日本で一番有名なアニメ映画スタジオのファンだった。
「たーすーけーてー…」
圭介の悲痛な声が段々と遠ざかってゆく。
部室の窓のすぐ外を、スズメが2匹飛んでいった。
「ねえ、今日はどこ行くのかな?」
「昨日は?」
「手芸部」
「その前は?」
「園芸部」
「月曜日は演劇部だっけ?」
「部長、前から圭ちゃん大好きだったもんねぇ」
「そうそう。綺麗な服着せて遊びたがってたし」
「可愛い女の子にするって燃えてるもんねぇ…」
「前、『オレ少女』って萌える!とか言ってなかった?」
「今日はどこかな?」
「……茶道部か華道部じゃない?」
「今日って何曜日?」
「木曜」
「じゃあ茶道部だね」
「副部長って浜崎君だっけ?」
「伸吾くん?圭ちゃんと同じクラスだったよね確か」
「…着物かな?」
「着物でしょ。部長のことだから」
「無駄に金持ちだもんね。部長の家」
「着物姿の圭ちゃんか…」
「クラスメイトの前で…」
「……おもしろそう」

美術室は、今日も平和だった。




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