ボクたちの選択 2


「そういえば、けーちゃん、ちゃんと勉強してる?」
「ん〜…オレは実戦派だからな。オマエも知ってるだろ?」
「まだそんな事言ってるんだ?いい加減、ちゃんと勉強しないと、どこにも入れないよ?大学」
「由香みたいな事言うなよ。オマエまでそんな事言い出したら、お袋が3人に増えちまうだろ?」
顔をしかめる圭介に、由香が“ぷうっ”とほっぺたを膨らませてみせるが、もちろん彼はそれを見てやしなかった。
「おっと…」
足を絡ませてよろけた圭介を、健司が支える。体の大きさに比べて俊敏な動きだった。
「大丈夫?」
「…わ、わりぃ…」
「まだ調子悪いの?」
健司の逞しい腕に少し嫉妬を覚えながら、圭介は強引に体を起こして苦笑した。
「お前まで心配すんなってば。お袋一人でさえ鬱陶しくてかなわねぇのに」
「あんな美人なお母さんに、あんまりひどい事言うもんじゃないよ?」
「美人かよアレが」
「去年の映画、『ふた恋』の女優さんをつかまえてそれは無いんじゃない?」

『ふた恋』というのは、去年の暮れに関東圏で公開された邦画で、一部に熱狂的なファンを獲得したものの、
年末公開のハリウッド大作に呑まれてしまった、圭介の母の出演映画だった。
『ふたりの恋』というのが正式な題名だけれど、一般には『ふた恋』と言った方が通りが良いのだ。
圭介はその、“母娘二人のそれぞれの恋模様”に“国家規模の霊的守護都市計画”を絡めた、
なんだかわけのわからない変化球的恋愛映画を、まだ一度も見ていない。
自分の母親がスクリーンに映る姿なんてものは、恥ずかしくて見てらんないというのが正直な感想だった。

「ダブルヒロインって言っても、主演だったアイドルの香坂舞菜を完全に食っちゃってたんだよ?」
「そうそう。冷たい視線と氷のような話し方、それと、すっごいプロポーション」
「ものすごい美人だから、ああいう格好も似合うんだよねー」
「ねー」
圭介を真ん中にして盛り上がる健司と由香をぼんやりと見ながら、圭介は家を出る時、
涙目になりながら自分を抱き締めて離さなかった母親を思い出していた。

いつまでたっても「過保護」を絵に描いて立派な額縁に飾り、美術館の特別展覧室に飾ったような母。
今の圭介よりもずっと若い時に息子を産み、32歳という年齢にしては、
母親というより歳の離れた姉と言われた方がしっくりくる顔立ちをした母。
小学校の時、仕事が忙しい中、せっかく授業参観に来てくれたのに、
友達の母親と比べて若すぎる事を「気持ち悪い」と言ってしまい、泣かせてしまった母。
ちょっと熱が出たらすぐに薬を持ってきて学校に休みの電話を入れようとするし、
夜遅くなる時など必ず電話して帰宅時間を言わないとすぐ拗ねて涙目で抗議する。
たっぷりと豊かで重たいバストにぎゅっと抱き締めて「けーちゃん、好きよ。愛してる」なんて言うのは日常茶飯事で、
高校生にもなる息子にそんなマネをする母親なんていうのはハッキリ言って異常だった。
バストよりウエストの方が遥かに豊かになった健司の母親がそんなマネをすると気持ち悪いだけだが、
圭介の母親はそういうマネが妙に似合ってしまう分、ずっと質(たち)が悪い。

『でもなぁ…』
自分があの時、高熱で死にかけた事を、母はまだ忘れられなくて、そしてそれを今でもまだ恐れている。
それがわかるからこそ、圭介も母親を邪険には出来ずにいるのだった。
もし自分が息子ではなく娘だったら、そうしたら、母親ともっと正直に向き合えるのだろうか?
「けーちゃん?」
圭介がふと気が付くと、健司と由香が心配そうに顔を覗き込んでいた。
いつの間か立ち止まり、じっとアスファルトを見ていたらしい。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫だって」
「でも、すごい汗だよ?」
「天気いいから、な」
「でも…」
「本当に大丈夫だって。マジ体調悪かったら、ちゃんとそう言うよ」
去年、風邪を引いて、それでも展覧会が近かったから無理に登校して、美術部の部活動時間に倒れてしまった時、
由香は保健室のベッドの横でずっと泣いていた。
泣かれるだけでも勘弁して欲しいのに、泣きながら「けーちゃんのバカ」と言われ続けるのは、精神的に堪える。

『けど…あ〜…こりゃ…やべぇ…かも…』
視界の中で、アスファルトが歪む。
気だるさが全身を襲い、一歩一歩踏みしめる足が異様に重い。
痛みは無いけれど、意識に薄い膜がかかったようで、現実感が乏しかった。
にもかかわらず、どきんどきんと心臓の鼓動がいやに大きく聞こえ、体中を嫌な汗がじっとりと濡らす。
「けーちゃん、アナゴだよ」
健司の声に顔を上げれば、校門の所に生活指導の教師が2人立っていた。
一人は3年の担任で、圭介には、あまり馴染みは無い教師だったが、もう一人は見覚えがある顔だった。
いや、見覚えなんてものじゃない。
イヤになるくらい馴染みのある顔だ。


買い物しに街まで出掛けていながらお金を財布ごと忘れてしまうよう愉快な
(これを「愉快」というかどうかはかなり微妙な時代になったと思うけれど)主婦を主人公にした、
日本人ならたぶん誰でも知っている国民的アニメがある。
そのアニメに出て来る、主人公の夫の同僚に良く似ていることから、生徒からはそのキャラクターの名前で「アナゴ」とか、
演じている声優の名前から「ノリオ」とか呼ばれている教師だった。
「どうした山中?ん?体調でも悪いのか?」
分厚い唇を歪め、角刈り気味に切った髪には「必要ないんじゃないか?」といつも思う整髪量をべっとりとつけて、
40代の中年教師が圭介に言った。
その言いようは、言われた相手にもれなく不快感を与えるくらい尊大で横柄だ。
若い頃は生徒の生活が“乱れ”ないよう『指導』する事に人生をかけていたけれど、
いつの間にかその情熱が惰性に代わり、手段と目的がすっかり入れ替わってしまった………
と言われたら思わず納得してしまうような、そんな目をしていた。
「高尾先生…」
由香が何か言おうとするのを止めて、圭介は背中をしゃんと伸ばして正面から教師を見上げた。
昭和30年代生まれのくせに身長が180近くもある(偏見だ)教師には、どうしても見上げるしかなくなってしまう。
それでも、この教師に弱味など見せたくなかった。
「いやぁ…更年期障害っすよ」
「17でもう年か?体を鍛えんからだ。チマチマと絵なんぞ描いてるから体から先に老ける」
「それって偏見じゃないすか?はるかちゃんに言いつけますよ?」
自分がこの教師に持っている偏見を心の棚に置いて、圭介は「反抗的」と書かれた矢でも射そうな目で見上げる。
口調がなんだか妙に蓮っ葉なのは、この教師に対する時の圭介のクセみたいなものだ。
前に健司に聞かれた時は、「マトモな口を利くのもイヤだって体が拒否してるんだ」と妙な屁理屈をこねていた。

「自分の担任をちゃん付けするなと言っとるだろう」
「あれ?ヤキモチっすか?」
「たわけ。お前のように、無駄に人生を送ってるようなヤツに軽く扱われるような人間は、この学校にはおらん」
わざわざ『無駄に』の所にアクセントを置いて、アナゴは“ふんっ”と鼻を鳴らした。
「無駄じゃないっすよ」
「無駄だ。絵なんぞ描いとる暇があるなら、体を鍛えるなり勉強するなりしろ。くだらない事で人生を無駄にするな」
「へぇ〜〜…くだらないねぇ…」
軽い感じで口を開いているけれど、目が笑っていない。
アナゴが暗に「絵を描くのはくだらない事だ」と言った事に、本気で怒っているのだ。

毎度、顔を合わせるたびに応酬される2人の言い合いに、由香と健司だけでなく周囲にいた登校途中の生徒までがうんざりとした顔をする。
一回りも二回りも年の違う経験豊富で老獪な中年教師に、たかだか17年しか生きていない少年が口で敵うはずも無いのだけれど、
圭介にそれを言っても無駄だと幼馴染の2人は早々に理解し、それ以来、大人しく事の成り行きを眺めるだけにしているのだった。


中学の時、陸上部に所属してた圭介は、そこそこ良い成績を残していた。
卒業式直前の休みに由香と行った展覧会で、一枚の絵と運命的な出会いをしなければ、
圭介自身、高校でも陸上をやっていただろう…と、自分でも思っている。
陸上部の顧問を担当しているアナゴは、そんな圭介に入学当時から目をつけていたらしく、実際、何度か直接誘われた事があった。
けれど圭介はあっさりとその誘いを断り、陸上部ではなく、あまり人気も無い上に部員も6人しかいない美術部を選んだのだった。
問題はその後で、何度目かの勧誘の時、些細な口論からアナゴが洩らした「絵なんぞ書いていても無駄だ。お前に才能は無い」
という言葉に、「うるせぇクソジジィ!」と叫んだのがまずかった。
きっとアナゴはその時の事を、まだ根に持っているに違いない。少なくとも圭介はそう思っている。
なにせ一年以上も、なにかと圭介の事を目の敵のように扱うのだから。


「はるかちゃん、今年から美術部の副顧問になったの知ってるっしょ?んな古臭い事、言っていいんすかね?」
「オマエには関係無いだろう?おら、ボタンを留めんか!」
「さわんな!」
手を伸ばしてくるアナゴを睨みつけ、圭介は胸元のボタンを右手で握った。
アナゴの背後ではもう一人の教師が、「まだやってるのか」という顔をしてこちらを見ている。
けれど見ているだけだ。
この2人の口論に口を出す教師は、この学校には一人もいない。
口を出しても無駄だという事が、よおくわかっているからだった。
「…あんまり世話を焼かせるな。また親を呼んでもいいんだぞ?」
「卑怯くせぇな。今月に入ってそのセリフ、7回も使ってんぞ」
「男のクセに細かいヤツだな?…あんまり小さい事言ってると、背が縮むぞ?」
「なっ!?」
「まあ、それ以上縮みようも無いだろうがな」
「んだとコラ!」
「けーちゃん!」
気色ばむ圭介に、由香がしがみ付いて腕を引いた。
気がつくと、いつの間にか健司もさりげなく圭介の左前にいて、いつでも圭介とアナゴの両方を止められるように立っている。
健司は、圭介が実際に手を出す事は無いとは思っているが、子供の頃、やたらと喧嘩っ早かった圭介もよぉく知っている彼は、
いつもこうして圭介が熱くなり過ぎないようにフォローするのが役目となっていた。
しかも、アナゴは圭介に対して身長の事を口にした。
この話題は、圭介には禁句なのだと知っていて。
健司は、しかみつく由香を振り解こうとして、けれど乱暴には出来なくて苦々しい顔でいる圭介を見ながら、
『結局、根っこのところでは良く似てるんだこの二人は』
と、思った。

「先生、そろそろ始業時間ですから、もう行っていいですか?」
「コラ健司!ナニ勝手にぬかしてんだ!」
「はいはい、けーちゃん、わかったわかった」
「わかってねー!おいっ!下ろせバカ!」
ひょいっと圭介を担ぎ上げ、健司がにこやかに軽く会釈する。
毒気を抜かれたアナゴは小さく笑うと、さっさと行けとばかりに右手をひらひらさせて、登校する生徒の群れへと戻っていった。




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