最初のその変化に気付いたのは、幼馴染の少女だった。
満天にひろがる青空は、ゆったりと流れる雲と共にどこまでも広かった。
5月。
天気はすこぶる良い。
風はゆるやかで湿気も少なく、初夏の爽やかな空気を制服の中に運んでくれる。
昼近くになれば、温められた空気で汗ばむほどの陽気になるかもしれないけれど、
少年は一年のうちで、この時期の登校時間が一番好きだった。
少年が通っている地元公立高校の始業時間には、まだたっぷりと余裕がある。
ゆるやかな下りの坂道になっている通学路には、同じ方向に向かう制服姿の学生達が大勢いた。
男子は詰襟の黒の平凡な学ラン、女子は紺を基調にしたブレザーだ。
昨今の少子化に伴い、生徒を集める目的か何かは知らないが、その女子のブレザーは数年前になんとかという
聞いたことの無いデザイナーにデザインさせたものだった。
少年にはなじみの無いデザイナーだったけれど、東京ではそれなりに有名な人らしく、見た目は一見地味だが、
そこそこに創意工夫が見られ、近隣の女子中学生には評判が良い。
ただ、1年前にマイナーチェンジされてぐっと短くなったチェックのスカートだけは、一部の女生徒を除いて甚(はなは)だ
不評だったけれど。
まだ、先を急いで走っている生徒は一人もいない。
一般道から少し奥にある裏道のためか、車も、学校関係者以外にはほとんど通らず、
ほとんどの生徒が、結構道一杯にまで広がって歩いていた。
「あ〜……ガッコ休んで河原とかで寝たら…気持ち良いだろうなぁ…」
制服を第二ボタンまで外した少年が、欠伸混じりに呟く。
清潔なシャツはパリッとノリが利いてて、襟も汚れてなどいない。
高校生としては、結構キチンとした姿だろう。
けれど、その制服に身を包んでいるのは、少し高校生としては微妙に首を傾げそうな顔だ。
小さな頭。
短く切った、柔らかそうな毛質の髪。
少し吊目っぽい、くりくりとした大きな目と、小さくて低いけれど、それがどこか可愛らしさを感じさせる鼻。
日に焼けて健康そうな顔は、少女のように整っていて、どこか中性的な雰囲気を醸(かも)し出している。
未分化の性を強く感じさせるが、それは、一見して「高校生」というより「中学生」とか「小学生」とか……
まあ、つまりは「少年」と形容する事が、至極まっとうな事のように誰もが感じる…そんな顔だった。
そしてそれをさらに確かにさせるのが、
「ういっす圭介〜今日もちっこいな〜」
「うるせバカッ!蹴倒すゾこの野郎ッ!」
「山中、おはよ〜」
「あっ!てめっ」
「遅れるぞ、ケースケ走れ走れ〜」
「っ…てめーら!毎朝毎朝ふざけんなちくしょー!!」
自転車通学の学生が3人、通りすがりに次々と少年の頭を軽く叩いていく。
少年の頭は、自転車に乗った彼らにとって、実に叩きやすい位置にあるのだ。
身長159.9センチ。
その数値は、高校二年生の男子としては、少し低い…かもしれない。
さっきからずっと少年の隣で一緒に歩いている少女と、ほとんど同じくらいの高さだった。
「ったく…馬鹿トリオが…後でめためたにしてやるかんなっ」
鼻息も荒く、懐かしささえ感じさせる言い回しを口にした少年…圭介は、ぐしゃぐしゃになった髪を指で適当に梳く。
そんな彼を、隣の少女は「しょうがないな」といった顔で見つめていた。
「けーちゃん、毎朝おんなじこと言ってる…」
「オマエな、気付いてたなら言えよ、そーゆー事わっ!!」
「だって…吉崎くんが『しぃ〜〜〜』って…」
「オマエはどっちの味方だ!?どっちの!」
「味方でも敵でもないよぅ。クラスメイトだもん」
少女は、ほにゃっと笑みを浮かべ、どこかズレた事を口にする。
制服の肩を撫でるセミロングの髪は、艶々と濡れたように真っ黒で、キューティクルが朝日 を受けてキラキラと天使の輪を作っている。
眉が少し太いけれど、手入れをしていないという わけでは無いようだ。
目はぱっちりと大きく、ちょっと垂れているから、眉を細くするとやわらかすぎる……
ハッキリ言えばしまりの無い顔になってしまうような印象を、見る者に与えかねないから、本人もそれを意識しているのかもしれない。
……成果があるかは、微妙なところだけれど。
159.2センチの身長は、女子でも低いうちに入るだろう。
それでも隣を歩く圭介と、全く同じ身長に見える。
もっとも、たった7ミリの差なのだ。
計測器の具合によってはどうとでも変動する数値ではあった。
もちろん、圭介にとってその差は断固として主張したい、いわば男のプライドがかかった果てしなく大きな差であった。
この少女を一言で表現すると…
トロそう。
…だろうか。
決して可愛くないわけではないのだが、纏っている雰囲気が春の日向のタンポポみたいに「ぽややん」としているため、
そういういささか本人にとっては不本意な印象を見る者に与えてしまうのだ。
「けーちゃん、だらしない。前はちゃんとボタン留めようよぉ」
学校指定の革カバンと部活用のサブバッグを両手で持ち、少女は、第二ボタンまで外してある少年の制服の前を横目で見ながら言った。
唇を少し突き出すようにして言うのが、どうしようもなく子供っぽい。
背が低くて体の線もメリハリがほとんどない…いわゆる「幼児体型」のため、制服を脱ぐと中学生………
いや、小学生にさえ間違われそうだ。
「うっせ。ガッコ行ってから留めりゃいいんだよ」
「学校は朝の登校から学校なんだよ?」
「遠足じゃねーつーの。ワケわかんねー事、真顔で言うな。学校は校門入ってから出るまでで十分だ」
「でも…また高尾先生に何か言われるよ?きっとたぶん今日も校門のとこにいると思うし…」
「由香。あんまりうっせーと、もう一緒に学校行くのやめるぞ?ただでさえ先輩とかにからかわれてるんだからな」
「え〜〜〜……小学校からずっといっしょなんだもん。
なのに、一年生の時は、けーちゃんがどーしてもやだって言うもんだから、私、我慢したんだよ?
けーちゃんは寂しくないの?私は寂しいよ?」
「…あのな、いくら幼馴染みでも、付き合ってるわけでもない男と女が毎日連れ立って学校行くのは、やっぱヘンなんだよ」
「……………そりゃ…………そうだけど………」
由香は、圭介の言葉に“しゅん”として俯き、
「でも、やっぱり…寂しいもん…」
と小さく呟いた。
彼、山中圭介がこの街に引っ越してきたのは、小学校の3年生の時だった。
自分では、もうそれが本当にあったことなのか定かではないが、両親の話によると小学2年生の1学期の時、
原因のわからない高熱で一週間ほど昏睡状態となった事があるらしい。
その時は夜間でもあり、家から近く、また救急救命センターとしても機能している大学医学部附属病院へと運ばれたのだと、母は言った。
けれど、その病院は地元でも優秀な医師が揃っている事で有名だったものの、
医師達の少年に対する扱いが気に食わなかったとかで、父が強引に病院を移してしまったのだ。
昔も今も強引で人の迷惑を考えない自分勝手な父だが、もしそれで彼が死んでいたらどうするつもりだったのか、圭介は一度聞いてみた事がある。
すると父親は、茶の間で近所の煎餅屋で買ってきた堅煎餅をバリバリ齧りながら
「次は女の子が良かったな」
圭介は何も言わず父の顔面にドロップキックを食らわせ、逃げた。
その時の後遺症なのか、はたまた全く別の原因なのか、小学三年生の頃から毎年この時期になると、
圭介は高い熱が出たり、やたらと眠くなったり…と、体の調子が不安定になる。
季節の変わり目でもあるし、今まで特に気にした事も無かったが、今年はもう一週間も微熱が続き、
時折襲ってくる倦怠感と慢性的な眠気も、例年に無く強烈だった。
実際、由香がこうして毎日わざわざ家まで起こしに来てくれていなければ、無理矢理にでも理由をつけて、
家でゴロゴロと寝ていたいくらいだ。
「まだ、熱あるの?」
不意に由香が心配そうに言った。
眠くて眠くて仕方が無く、少し気を抜くと瞼(まぶた)が“とろん”と下りてきてしまうのを、
熱のせいで気だるくなっているのだ思ったのだろう。
だが、微熱で少し体が重く感じる以外は、特に頭が痛いとか苦しいとか、不快感を感じる事は無い。
「まあ、ちょっと、な」
「ねえ、やっぱり休んだ方がいいんじゃない?だってヘンだよ?声も、なんかヘンだもん」
「大丈夫だって」
「でも体だるいんでしょ?」
「だるいっていうか……眠いだけだよ。こんなのいつものことだろ?毎年、今頃はいっつもこうなるんだって」
「でも…なんか、けーちゃん声がヘンだよ?……あ、ひょっとして声変わり?」
「ばか、普通は高くなるんじゃなくて低くなるんだろうが」
「そうだよねぇ。なんかちょっと高くなってる気がするもんねぇ……じゃあ牛乳の飲み過ぎ?」
「……飲んで声が変わるような牛乳、どっかおかしいだろ。放射能でも入ってんのかよ」
早く背を伸ばしたくて仕方ない圭介は、毎朝、コップに2杯の牛乳を必ず飲んでから登校する。
本当は1リットル紙パックを1本まるまる飲みたい所だが、母が涙目になって抗議するものだからコップ2杯で手を打ったのだ。
もちろん、過保護で子離れの出来ていない母親の、いつも潤んでいるような黒目がちの瞳が届かない学校内では、
水を飲むより牛乳を飲んでいる方が多い。
それでも、圭介の経済力では、1日100円のパック牛乳2本が限界だった。
由香と話しながら、気だるい体を奮い立たせつつ豆腐屋の角を曲がる。
ここを曲がれば後は学校まで一直線だ。
…と、
「おはよ」
“のそっ”と、豆腐屋の看板の陰から背の高い男が、実にのんびりとした口調のまま姿を現した。
でかい。
180センチはありそうだった。
体つきも、背に比例するようにガッチリとして胸板が厚い。
そして、肩が盛り上がって、ひどく逞しく見えた。
腕を一振りすれば、同じ歳の男子どころか、上級生…いや、大学生ですら薙ぎ倒してしまえそうだ。
にも関わらず、彼からは殺伐とした雰囲気は微塵も感じられない。
いや、むしろ……牧歌的…だった。
眉が、海苔でも貼り付けたように太く、濃い。
その下の目はくりくりとして大きく、けれど笑うと“きゅっ”と細くなって皺に隠れてしまう。
顎がガッチリと張っているので、顔の形そのものは角張ってゴツく見えるが、
鼻が少し丸くてぽってりとしているため、怖さよりも愛嬌が勝っていた。
彼を一言で言い表すならば、たぶん
『牧場の牛』
だろうか。
牧場でのんびりと草を食(は)みながら道行く人を眺めている牛。
そんな感じだ。
「おっす」
「なに?けーちゃん、また由香ちゃんいぢめてるの?」
圭介と由香に歩調を合わせながら、牛男が歩き始める。
背が高い分、歩幅も広いのだろうが、二人の歩く速さにキチンと合わせていた。
特に意識していないのは、もうすっかり慣れてしまっているからだろう。
「いぢめてねーよ。コイツがヘンな事言うから教育的指導してやってたんだよ」
「ひどぉい、あたし、けーちゃんの事心配して…」
「はいはい。な?この調子だよ」
「ふーん…教育的指導…ね」
牛男…健司は、きゅっと目を細めて、にこにこと邪気の全く無い笑みを浮かべた。
笑うと、の口元に笑窪(えくぼ)が出来て、柔和な雰囲気がさらに促進される。
体格からは想像も出来ないくらい優しい笑みは、エプロンを着ければ今すぐにでも保父さんが勤まりそうな感じだった。
「…んだよ?」
「将来のため?大変だね、由香ちゃん」
「……あのな健司…オマエ、たまには違ったこと言えねーのかよ…」
「仕方ないでしょ?俺の幸せは、けーちゃんと由香ちゃんが幸せになる事なんだから」
「いや、だからさ、なんでオレと由香がオマエの幸せのためにくっつかなきゃなんねーんだ?」
「俺の幸せのためじゃないよ。けーちゃんと由香ちゃんの幸せのためだよ」
「はぁ?」
「けーちゃんと由香ちゃんが幸せになる一番手っ取り早いのは、二人が結婚する事なんだ。
それで二人が幸せになれば、俺も安心出来るんだよ」
「何を安心するんだよ。…ったく…あたまいたくなってきた……おい、由香も何か言ってやれ」
「ひゅあ?」
「……何真っ赤になってんだよオマエわ」
頬を真っ赤に染めながらにこにこと圭介の横顔を見ていた由香の頭を“ぺしっ”と叩き、圭介は呆れたように溜息を吐(つ)いた。
「で、今日は朝錬はいいのか?」
「試験前だからね。それに、今週はプールの補修工事が入るから、陸トレ中心なんだ」
健司を見る人は、大抵が、彼は柔道か空手かバスケットの選手だと思ってしまう。
けれど本当の所は、彼は県下でも指折りの水泳選手なのだ。
豪快なストロ−クで水を掻き驀進(ばくしん)するその姿は、健司を知る圭介でさえも「すごい」と思ってしまう迫力だった。
そして彼はさっきの豆腐屋の次男坊でもあり、その実家で彼が作る豆腐は、近所の奥様方の間でも評判の味だった。
背が高くて優しくて、運動も出来て豆腐作りも上手い………
豆腐はどうか知らないが、これで彼女の一人もいないのは圭介も不思議に思っている。
けれど、いいのだ。
彼がイイヤツなのは事実だし、友人として、また小学校からの『兄貴分』として、コイツの事が大好きなのだから。