次の日は日曜日だった。
ここ数日、ずっとテレビを見ていたのにも関わらず、それを忘れていた事に圭介は気付き、
自分が画面を見ていながら実はまったく何も見ていなかった事を知って、笑った。
久しぶりの笑みだった。
心の中にどんよりと溜まっていた澱(おり)のようなものが、笑いと共に口からこぼれ出て霧散していくような気がして、
身体に入っていた力が“すうっ”と抜けた。
笑いを人の気持ちを軽くする。
それを痛感した。
朝ご飯を母と食べ、やがて母のマネージャーから半泣きの電話があった事を幸いに彼女を仕事に送り出して、久しぶりに一人きりになった。
キッチンの後片付けをしてから、天気が良かったので、ついでに洗濯も済ませる。
炊事洗濯は、母の仕事が忙しい時には自分でもしていたので特に苦ではない。
けれど、洗濯カゴに入ってる自分の下着を見ても、もう何も思わなくなっている自分に気がついた時、圭介はやっぱり少し寂しくなった。
もう、放尿するだけでもトイレでいちいち下着まで脱いで便座に座るのは、当たり前なことになっていた。
トイレットペーパーで女性器を拭く事も、特別苦痛を感じる事も無い。
お風呂に入った時、お湯が膣内に入ってしまうのではないかと思い、体の力を抜くのを恐れる事も無くなった。
こうして、「女である自分」に慣れてゆく。
「女である自分」を苦痛に感じなくなってゆく。
それが、圭介は少しだけ怖かった。
確かに、女性に恋する以外で男に戻る方法があるのなら、それを知りたいとは思う。
けれど、心からどうしても男に戻りたいか?と問われれば、きっと今の圭介は一瞬考えてしまうだろう。
そこまで彼の肉体は精神を侵食し、時間が経つに従って2つはますます馴染みつつあったのだ。
そして変化は、肉体的なものばかりではなかった。
洗濯を終えて、ベランダに洗濯物を干した後、遅れた勉強を取り戻すために一週間ぶりに教科書を開いた。
そして、その単純さに目を見開いた。
いや、教科書の内容が簡単だったのではない。
何もかもが「クリア」だったのだ。
苦手だった数学も物理も、まるで小学生の問題を見るかのようだった。
考える前に数式が鮮やかに脳裏に描かれる。
英語のグラマーは、最初はちんぷんかんぷんだったけれど、20分も読み込むと大体のことが頭に入った。
そして、リーダーに至っては生まれた時から英語を使っていたかのように、最初からすらすらと頭に入ってきた。
これも星人の因子が発現したせいだとしたら、なんとも便利な形質だ。
けれど、美術や音楽は特に優れて変化したようには感じなかった。
記憶力や応用力は飛躍的に増大するくせに、感性や閃きなどは、歴史上有名な画家や音楽家のようにはいかないらしい。
それだけは心から残念に思った。
そういえば、母も料理だけは今でもあまり得意ではなかった…と圭介は思う。
料理は、あれでなかなか感性とセンスに左右される所があるから。
『けど、女優やってんだよな…』
女優は感性の仕事では無いのだろうか?
圭介はそれ以上深く考えないことにした。
勉強においての不安が無くなった以上、教科書とにらめっこしていても時間の無駄だった。
ますます自分が人間離れしている事を実感してしまうだけだ。
圭介はスウェットから、Tシャツとトレーナー、それにジーンズとスニーカーというラフな格好に着替えて、一週間ぶりに外へ出る事にした。
玄関を開け、塀の影に隠れ、周囲に人のいない事を確かめてから一番近い曲がり角まで走った。
まるで空き巣に入った泥棒のようだ。
けれど、泥棒にしては体力がものすごく低下しているのか、ちっともスピードが出ない。
「ちくしょう…」
元陸上部だったプライドが、跡形も無く砕けて消えてしまい、圭介は「ぜぃぜぃ」と荒い息のまま肩を落とした。
向こうから来た顔見知りの近所のおばさんが「どこの子かしら?」という顔をして通り過ぎて行く。
圭介は慌てて身体を起こし、何食わぬ顔ですたすたと先に進む。
角を曲がって物陰に隠れて振り返ると、おばさんは特に気にした様子も無く歩み去ってゆくところだった。
「……やっぱり気づかない…か」
無理も無い。まさか近所の男の子が、いきなり女の子になったとは思わないのだろう。
しばらく誰にも会う事無く、圭介は暖かい日差しの中、久しぶりの外出を楽しんだ。
「……あ…」
右に曲がると商店街…というところで、圭介はごく自然に左に曲がり、立ち止まって再び曲がり角まで戻る。
この姿で大勢の人々の前に立つのは、これが初めてだ。けれど、明日からは学校にも行くのだから、今から慣れておかないといけない。
「よしっ」
圭介は鼻息も荒く、商店街へ続く道を進んでいく。
その時の彼の顔は、まるで果し合いの場へ向かう武士のような顔をしていた。
ところが数分後、圭介はすっかり挫けて、近所の神社の境内に逃げ込んでいた。
へなちょこである。
商店街に入る少し前から、周囲の視線がやたら気になった。
道行く人の誰もが圭介を見る。
汗が吹き出て、足が震えた。
じろじろと無遠慮に見る男達がいる。
にやにやと笑いながら擦れ違う男がいる。
こちらを見てくすくすと笑いながら、何か話している女の子達がいる。
出会う人みんなが、自分を笑っている気がして、圭介は小さな身体をさらに小さくして歩いた。
駅前から数百メートルに渡って続くアーケード商店街は、この街でも比較的賑わっている場所だった。
日曜で天気もいいためか、人通りも多い。
その中を、圭介は人ごみに紛れるようにして歩いた。
背が低く、しかも華奢に変化した圭介の身体は、大人の身体が当たっただけで容易くよろけた。
小さな肩を張って「このやろー」と思いながら足を踏ん張れば、ガニマタで両足を突っ張る圭介を、
ぎょっとした顔で見る年配の女性と目が合った。
「おい、あれ見ろよ」
慌てて足を閉じて、後から聞こえた声に振り返ると、2人の高校生らしい男が圭介を指差していた。
圭介が通う学校とは別の学校の制服を着ている。
部活帰りなのか、スポーツバッグを足元に置いていて、かたわらには2人のものらしい自転車が見えた。
「かーのじょ」
「どこいくのー?」
語尾にハートマークがつくくらい、気持ち悪い猫なで声に、圭介の背筋がぞぞぞ…と総毛立った。
男達はどちらも引き締まった体躯の、すらりとしたスポーツマンタイプだ。
けれど、2人とも顔には“らしくない”、にやにやした笑いを浮かべている。
大方(おおかた)、試合に負けたか、先輩にいいように使われたか、どちらにせよ何かむしゃくしゃした事でもあったのだろう。
そのうちの1人が自分の方へ足を踏み出した時、圭介は自分の中で“スイッチ”がカチリと切り変わるのを感じた。
「なんか用かよ?」
気がついた時には、その男達に向き直って、2人を睨み付けていた。
言葉遣いなんて気にしちゃいられなかった。
自分が、元は男だったのがバレたのだと思っていた。
こういう手合いには、舐められたら何をされるかわからない。
最初にガツンとやっておいて、頃合いを見計らって……逃げるのだ。
対して男は、声をかけた女の子が男みたいな口調で睨みつけてきたため、鼻白んでその場に立ち止まっていた。
この辺りでは見かけない自分の好みの女の子だったし、なんだか不安そうな顔をしていたから、からかいついでに声をかけただけだった。
なのに、いきなり喧嘩腰で睨まれて、その対応に困惑していた。
ひょっとして顔には似合わず百戦錬磨のケンカ上等な女の子なのだろうか。
そういう不安が男の顔に浮かんでいた。
「…いや、その…なんかお困りかなぁ〜…って…」
「別に困ってねーよ。ほっとけ」
「……口が悪いなぁ…おにーちゃん怒るよ?」
「なにがおにーちゃんだ。オレも高校生だからタメか1コくらいしか違わねーだろ?」
「……オレ……」
さらさらの髪と、ぱっちりとした大きな目。
長い睫(まつげ)と可愛らしい鼻。
ぷっくりとやわらかそうな唇と、ふっくらとして今は怒りのためかほのかに紅潮したほっぺたは、
少女の可愛らしさをひときわ際立たせていた。
そんな女の子が、実に汚い言葉で罵(ののし)る。
その倒錯的な現実に、もう一人の男は舌で唇を湿らせながら圭介に歩み寄った。
『ヤッたらどんな顔するかな』
そんなイヤらしい思いが心に流れ込んできた気がして、圭介は“びくっ”と体を震わせる。
たちまち、圭介の中でピンと張っていたものが“ぷつん”と切れた。
「あ、ご…ごめん…うそ、えっと…なんでもないから…」
「は?」
「じゃあね、ばいばい!」
「おい!待てよ!」
後も見ずに、逃げた。
身体が重い。
駆ける足がもつれそうだった。
声が追いかけてくる気がした。
人にぶつかり、転びそうになり、それでも走った。
途中でいきなり横道に入りアーケードを抜け、お好み焼き屋の角を曲がってサンザシの垣根を左手に路地裏に駆け込む。
石垣を登って破れた金網をよじ登り、クヌギの林を抜けたらそこは高台の神社の境内だった。
心臓がバクバクと飛び跳ねていた。
汗が吹き出て、背中がぐっしょりと濡れている。
水飲み場で蛇口を捻り、流れ出る水に口をつけてゴクゴクと勢い良く飲む。
それから圭介はようやく思い出したかのようにキョロキョロと周囲を見回して、
誰も後を追ってきていない事を確かめてからホッと一息ついた。
歯がカチカチと鳴った。
まだ、身体が震えている。
なぜだかわからない。
あの男の目付きを見たら、足がすくんだ。
どろどろとしたものが心に流れ込んできたような気がして、吐き気がした。
理解ではなく本能的な恐怖だった。
おかしいと思う。
男のメンタリティを持つ自分が、どうして女の本能で男に恐怖を感じなければならないのか。
そう思った。
「ちくしょう……」
圭介は神社の社の縁石に腰を下ろし、唇を噛みながら空を見上げる。
空は、憎たらしいほど澄み渡っていた。
神社を出ると、圭介の足は、自然と幼馴染みの家への道筋を辿っていた。
なぜか、無性に健司の、あののん気で牧歌的な顔が見たかったのだ。
見れば安心出来る気がした。
きっと元気になれる気がした。
そう思った。