母の言葉に嘘は無かった。
眼差しは優しく、強く、圭介を心から大切にしている者のそれだった。
もし、この瞳が信じられないのなら、この世の全てのものを信じられなくなる。
それほどの『力』がある瞳だった。
この瞳に騙されるのであれば、それはそれで構わない。
そう思わせる、瞳だった。
「…で、さしあたって、俺はどうすればいいの?」
溜息とともに吐き出された言葉は、ぶっきらぼうではあったけれど、さっきまでの陰鬱とした雰囲気は
春の野の残雪のように、すっかり溶けて消え去っていた。
「まずはお風呂、それから、髪を切りましょう?それじゃ、外は歩けないわよ?」
男じゃなくなった時点で、もう外は歩けないと思ったけれど、母の笑顔に毒気を抜かれた圭介には、
もうそこまで主張する気力は残ってはいなかった。
ただ一つ気になったのは、父の姿が見えなかった事だ。
圭介は、風呂に入った後、母の作ってくれた卵粥を食べて一息つくと、今度は母に髪を切ってもらいながら彼女に聞いた。
一人息子の一大事に、あのバカ親父は何をしているのか。
「そういうこと、言っちゃダメ。善ちゃんがいないのは、けーくんのために今いっしょけんめいに走り回ってるからなのよ?」
「オレのため?」
「そう。だから、あんまり善ちゃんのこと、悪く言わないでね?」
胸まであった髪を丁寧に梳(くしけず)りながら、母は息子に懇願した。
メンズ用のシャンプーとリンスを使い、乱暴に洗髪したにも関わらず、髪は見違えるようにさらさらと、艶やかな輝きを放っている。
これも母の……星人の因子が発現しているからだろうか?
圭介は、リビングのフローリングにシーツを広げ、同じくシーツで身体を覆って、その真ん中で椅子に座っていた。
母は、切った毛で服が汚れないようにTシャツとズボンだけになり、鼻歌混じりに彼の髪に櫛を滑らせていた。
「けーちゃん、善ちゃんがどんなお仕事してるか、知らないでしょう?」
「……どうせ、外資系企業のサラリーマンってのはウソなんだろ?」
「あたり」
ふふふ…と、若い母親が豊かな胸を揺らしながら、恋する乙女の微笑を浮かべる。
きっと聞いても教えてくれないだろうな…と思った圭介は、大人しく髪を切られながら、別の疑問をぶつけてみた。
「……星人ってさ……普段は何してるの?」
「この星の人達を、見守ってる」
「……見守ってるだけ?」
「そうよ?」
「戦争してる国だって、あるのに?」
「?……そうね」
「平気なの?それで」
「……どうして?」
「星人なら、戦争を止められるんじゃないの?地球上から、争いや、飢えで苦しむ人達を無くす事が出来るんじゃないの?」
圭介の言葉は、若者がある時期に持つ、彼ら特有の正義感に溢れていた。
“青い”と言われたらそれまでの、何の見返りも求めない真っ直ぐな、正義を求める心だった。
「どうして母さん達が手を貸してやらないのさ?母さん達は……母さんは、この地球が好きなんじゃないの?
ここの人たちが好きなんじゃないの?争いを無くしたいって、思わないの?」
「好きよ?護ってあげたいって思うし、私達星人なら、それはきっと可能だと思う」
「だったら…」
「でも、それはダメ」
「どうして?」
「この惑星(ほし)の人達の、本来あるべき姿を歪めてしまうことになるから」
圭介は、母の言葉に納得出来なかった。
力ある者が力のない者を護るのは、当たり前の事ではないのか?
たとえ、それがこの星で生まれた者ではなくても。
「……それで、地球人が滅んでしまう事になっても?」
「う〜ん…ここの人達は、そこまで愚かじゃないと思うんだけど」
「………好きなら、大切なら、護ってあげたいって思うもんじゃないの?」
困った顔の母に、尚も問い掛ける。
母は、物分りの悪い生徒にそうする教師のように、そしてガンコな弟子にかつてそうしたであろう
ナザレの羊飼いの息子のように、熱くも冷たくも無く、ただ、深い慈愛に満ちた瞳で愛しい息子を見つめながら、ひっそりと言った。
「ね、けーちゃん。好きだからこそ、見守る愛も、あるんじゃないのかな?」
母の言葉に、圭介は息を飲む。
母は、圭介よりもずっとずっと長い間、この地球の人々を見てきた。
善二郎を「一つの生物として全部を愛している」と言った母が、彼以外の、
けれど彼“ではない”同じ種族の者達などどうでもいい…と、思うだろうか?
そこには、『力』を持つがゆえに迷い、そして決断した苦しみがあったはずだ。
ここに至るまでに、深い苦悩の日々があったはずだ。
「それにね、正直に言えば、星人はもう残り少ないの。純粋な星人は、私と、あと世界中でも数人しかいないわ。
その数人も、私とは違って文明圏から離れて静かに暮らしている。
自分達の『力(テクノロジー)』が、この惑星(ほし)の人達の正常な進化を妨げる恐れがあるって知っているから」
「……進化……」
「そう。それにね?『力』で争いを無くすというのは、『力』で人々をコントロールする……
従わせるって事と、程度の差こそあれ、結局は同じことなの。私は、ここの人達を“支配”なんてしたくはないわ」
ここで母の言う支配というのは、「あるものの意志・命令・運動などが、他の人間や物事を規定し束縛すること」だ。
そのものの意志を無視し、特定のものにとって都合が良いように束縛する。
それでは、人間(ひと)は、動物園の動物達と変わらない。
「血を流さないで人々を『支配』する事は、星人にとってはそんなに難しいことではないの。
それに、強い者に支配される事で得られる充足感とか安心感そのものを、お母さん、否定はしないわ。
でも、そうなったらもう人々は星人に対して畏怖や恐怖、憧憬は抱いてくれても、親愛や友情は感じてくれなくなる。
『考える』というその自由意志まで奪ったら、それはもう人とは言えない。
ここの人達は、私達と同じ『愛』を知る人達だから、私はその『愛』を無くして欲しくないの。
『愛』を感じられなくなったら、お母さん、それはとっても悲しいわ。
それともけーちゃんは、私達がこの星の支配者になって、全ての人々の力も夢も愛も全て、コントロールした方がいいのかしら?」
「…そんな…」
突きつけられた事柄に、圭介は言葉も無くうなだれた。
自分が口にした事は、たとえてみるならば学校で生徒同士の揉め事や決め事を、
全て教師の方で采配してくれと言っているようなものだと気付いたのだ。
面倒な事、都合の悪い事、見たくない事、そういう自分達にとってマイナスな感情を抱くものを、
自分達の問題でありながら自分達で解決する事を放棄し、高次の者に任せてその他のプラスなもの…都合のいい事、
気持ち良い事だけを甘受しようとする…。
それは、赤ん坊のする事だ。
「それにね?けーちゃん。たとえば、もし……もし、よ?私達の『力』でこの地球から争いを全て無くしたとしても、じゃあその後は?
私達が力を無くして、争いを抑制していたものが無くなったら、その後は?」
「………それは…」
「…平和はね?作り出すことより、維持することの方が何倍も何十倍も難しいのよ?
…それにね、けーちゃん。
誰かに監視され保護されながらでしか維持できない平和は、平和じゃないの。
それはただの怠惰。箱庭や実験室のケイジの中の、閉じた世界。外国の言葉で『モラトリアム』って言葉があるけど、まさにそれよね」
モラトリアムとは、『知的・肉体的には一人前に達していながら、それでも尚、社会人としての義務と責任の遂行を猶予されている期間。
または、そういう心理状態にとどまっている期間』を言う。
総じて昨今では、社会に出ていながら、その社会そのものを嫌悪したり社会から拒絶される事を恐れて自分の殻に閉じこもる、
精神的幼児であったり未成熟者であったりする人間の状態を、そう呼称する。
もちろん圭介は、そんな言葉など知らない。学校でも聞いたことが無かった。
息子が要領を得ない顔をしているのを見て、母は「こほん」と咳払いをすると、再び口を開いた。
「結局ね、ここの人たちの世界はここの世界の人たちの力で護っていくのが一番なの。
そうしないと、いずれ『そと』に出る時、生きていけなくなっちゃう」
「『そと』…?」
「お母さん達は、それを信じてる。だから、見守るの。星人は、自分を護る事以外で社会に関与してはいけない。
それは、私達が自分達の架(か)した枷(かせ)でもあるわ。好きだから、愛してるから、信じてるから。
少なくともお母さんはずっとそうしてきたし、善ちゃんもそれが一番いいって言ってくれたし、だからきっとこれからも、そうすると思う」
圭介は、まだ、よくわからなかった。
母の言う事はわかる。
少なくとも理性では。
けれど、もし圭介にそんな力があったら、それで世界が平和になるのなら、彼はきっと……
いやたぶん躊躇いながらでも使ってしまうだろう。
でもそれは、自分がまだ『子供』だからなんだろうか?
『ただ見守る勇気』が持てないだけなんだろうか?
圭介は口をつぐみ、母も時折話しかけるだけで、やがてリビングにはショキショキと、
圭介のさらさらの長い髪を母の白くてほっそりとした手が持つ、散髪用鋏が切り揃えてゆく音だけが静かに満ちた。
彼はもともと短いのが当たり前だったので、前と同じ髪型を希望したのだけれど、母はガンコに
「もう女の子なんだから、慣れなくちゃね」と言って、セミロングにする事を強硬に主張し、そして強行した。
圭介が母に髪を切ってもらうのは、中学校以来だった。
本当に久しぶりだったからか、それとも、ずっと気を張っていた疲れからなのか、
いつの間にか彼は、晩春の日差しの中、うとうとと居眠りし始めていた。
だから、母が少し苦しそうな顔で不意に手を止めて、
「もし、女の子でいるのがどうしても辛かったら………」
と呟き、そしてまたその考えを打ち消すように首を振ったことに、彼はとうとう気付かなかった。
髪を切った後、圭介は母と2人で2階に上がり、部屋の掃除をした。
そして掃除をしながら考えた。
自分がこうなってしまったことを、大切な幼馴染である由香と健司には話しておかなければならない…と。
そして母から『女性仮性半陰陽』の事を教えられ、彼らにはそう言うように言われて、由香と健司に連絡を入れた。
夕方に2人が家までやってくると、母に2階まで通してもらい、そして、真実は隠したまま偽りの事実を話した。
その結果、健司は前と変わらぬ笑顔を向けてくれて、そして由香は…
「やっぱり……受け入れられないのかな…」
この部屋で倒れて、ショック覚めやらぬ顔で帰ってから、彼女はまだ一度も圭介に会いに来てはくれていない。
健司が誘っても、「うん」とか「わかってる」とか言うだけで、それきり黙り込んでしまうのだという。
もちろん、圭介も電話をしようかと思った。
でも、すっかり少女の声になってしまった彼の声では、由香にまたショックを与えるかもしれないと思い、
とうとう今日まで連絡出来なかったのだ。