むかしむかし、あるところに一人の、それはそれは可愛らしい女の子がいました。
女の子はたくさんの優しい人達と、ながいながい、気が遠くなるくらいに長い旅をしていたのですが、
ある時、哀しい事に事故が起こり、気がついた時には見知らぬ土地で、たったひとりぼっちになっていました。
そこは、言葉も心も通じない、とてもとても寂しくて恐ろしい場所でしたが、
女の子はあの優しい人達もきっと無事だと信じ、何年も何年も待ち続けました。
1年経っても、誰も女の子を捜しに来ません。
10年経っても、誰も女の子を見つけてくれません。
女の子は、寂しくて寂しくて、あのまま死んでしまった方が良かったと思い、硬く心を閉ざしてしまいました。
でも、女の子の辿り付いた場所には心優しい動物達がたくさんいて、女の子を神様か宝物みたいに大事に大事に扱ってくれていたので、
どうしても自分から命を絶つ事は出来ませんでした。
女の子は動物達が作ってくれた建物の中で、それから何年も何年も、自分の時間を止めて暮らしました。
女の子は動物達よりもずっとずっと長生きでしたから、動物達と暮らすうちに、彼らの言葉や心を少しずつ理解していきました。
なにしろ、時間だけはたっぷりあったのですから。
女の子は、動物達が自分と同じように、考え、笑い、怒り、泣き、そして愛を持って子孫を残す生き物なのだと知って、
自分を今まで護り、称え、そして愛してくれた彼らを、自分も愛するようになりました。
20年が経ち、30年が経ち、女の子は事故の時に自分といっしょにこの土地に辿り付いた乗り物の力を使って、
自分の身体を、彼らと同じにしようと思い始めました。
彼らと同じになり、彼らと共に生きよう。
彼らに混じり、彼らの子供をつくろう。
それが自分の、ここですべき事なのだと思ったのです。
きっとそのために、自分はここにやってきたのだと、女の子は思ったのです。
おしまい。
話し終わり、紅茶を飲んで「ほうっ」と幸せそうに一息ついた母は、「ほにゃにゃ〜ん」とした顔で、女の子の姿をした愛しい息子を見た。
「それで?」
「それで?って?」
「……それだけ?」
「なにが?」
少女のように、きょとんとした無垢な瞳で見つめ返す母に、圭介はだんだんムカムカしてくる。
頬杖をつき、無意識のうちに右手の指でテーブルをとんとんと叩いていた。
まるで、特別補佐官の報告を受けるキューバ危機の時のアメリカ大統領のようだった。
「それで終わりかって聞いてんの」
「終わりよ?」
「………なんだよそれ…全然説明になってねーじゃん!!」
「そりゃそうよ。肝心のお話はここから始まるんですもの」
「…へ?」
母はにっこりと笑うと、紅茶をもう一杯カップに注いで、今度はたっぷりとミルクを注いだ。
1杯目はストレートで、2杯目はミルクティーで…というのが、母の大好きなお決まりのコースだ。
「お母さんが善ちゃんと初めて会ったのは、チベットの山奥だって事は、前に話したかしら?」
「ぶっ!!?」
吹いた。
「あらあらあら」
「『あらあらあら』じゃねーよ、聞いてないぞそんなのっ!!」
圭介の口元をティッシュで拭いてやりながら、母は、父親に叱られた幼女のように首を竦めた。
「善ちゃん」というのは圭介の父親のことだった。
正しくは「善二郎」と言って、煮ても焼いても食えなさそうな、殺しても死ななそうな、実にふてぶてしい顔をしている。
圭介は、一週間のほとんどを家に帰って来ず、たまに帰ってきては好き勝手やってまたいなくなる父親が、子供の頃からちょっと苦手だった。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない〜…」
「なんでそんなとこで母さんとオヤジが出会うんだよ?なんかヘンだぞ?」
「ヘン…かなぁ?」
小首を傾げて「うにゅにゅ」と唇を歪めた母は、肌の色も顔付きも体型も日本人離れはしているけれど、
それでもやっぱり日本人にしか見えなかった。
その上、言葉遣いは、何年も何十年も日本で暮らし、日本の土壌で育まれた慣習や常識をその身に受けて育った人間のそれだ。
「出会ってすぐにわかったの。善ちゃんは“混じってる”って」
「は?……何が?」
「“他の人達”の血よぉ」
“人の話、ちゃんと聞いてた?”と言われた気がした。
「ちょ…え?なに?“他の人達”?血??」
「んもうっ…話は最後まで聞いて」
なんだか思いもよらない方向に話が流れていく事を感じて圭介が慌てて居住まいを正すと、
母は「めっ」と軽く圭介を睨んで、ミルクティで唇を湿らせた。
それから母が話し始めた事の半分も、圭介は理解出来たとは言い難い。
荒唐無稽で、とても信じられるものではなかったからだ。
そして、あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎた。
いまどき、中学生の妄想話でも、もっと出来のいい話が聞けるだろう。
「お母さんが善ちゃんと出会ったのは、私が何回目かの休眠期から目覚める直前だったわ」
母は、うっとりと夢見る恋乙女のような顔をしながら、自分の過去…だという話を語り始めた。
チベットの一部族……彼らの言葉で「天の一族」と呼ばれる一族に伝わる、古い古い洞穴(どうけつ)の中で、
圭介の母「涼子」と父「善二郎」は出会った。
母は、部族でも代々の長老にしか伝えられない聖別された土地に眠り、父はその母を目覚めさせるためにやってきたのだ。
父は、母が目覚めると彼女を連れ、チベットを出て、一番最初にインドに渡り、そこからイタリア、オランダ、スペイン、英国、アメリカ…と、
次々と住む土地を替え、戸籍を替え、時には顔や体型そのものを変え、そして時には地下(アンダーグラウンド)に潜り
世間の“目”から身を隠した。
長い長い旅だった。
けれど、寂しくは無かった。
父は、母の仲間だったから。
半分……いや、数十分の一ではあったけれど、母と「同じ」だったから。
戸籍を買い、名を変え、日本にやってきたのは20年前のこと。
それまでの旅の過程で、母は自分と同じように“事故”の中で生き残った人達の…
いや、正確には「その人達らしい噂」を耳にした。
それは時に、国の中枢に食い込み権力者の影に隠れながら人々を見守る『守護者』として。
時に、人里離れた原生林の奥地でひっそりと暮らす隠遁者……『仙人』として。
そして時に、弱き者を助け夜を駆ける『不死人』として。
それど、彼(か)の人々との接触は、その頃の母には到底叶わない夢でしか無かった。
「ちょ……それっていったい何の話…」
「黙って聞いてて」
母は何も、波乱を求めたわけではない。
彼らと会いたいと願ったのも、それで何かをしたいとか、生まれ故郷に帰りたいとか、そういう変化を求めたわけではないのだ。
母は、夫との静かな、穏やかな生活だけを望んでいた。
夫の故郷である日本に辿り付き、日本の風土や気候、人々の穏やかな気質に触れた時、母はここを「故郷」にしようと思ったのだという。
ここで暮らし、人々に混じり、子を作り、育て、そして見守っていきたいのだと。
それでも、同族に対する思慕、故郷を同じくする人々への想いは、どうしても断ち切る事は出来なかった。
ずっと一人ぼっちだったのだ。
ひと目会うだけでも。
自分の覚えていない、故郷の話を聞くだけでも。
想いはつのり、気の沈む日を送る事も多くなった。
そんな母に、「女優」になる事を提案したのは、父だった。
母にはそれを可能にする力があったし、父にはそれをバックアップするだけの人脈と財力があった。
「オヤジってそんなに金持ちだったの?」
「んふふ、ひ・み・つ」
「…なんだそりゃ……けど、住むとこ変えたり戸籍を変えたりして隠れてたのに、よくそんな目立つことしようなんて思ったなぁ…」
「だってぇ…」
音と光の映像を広く伝えられる媒体であれば、実際には何でも良かったのだけれど、父の
「美人な妻を自慢したいから…ってのは、理由になんねーかな?」
の一言で、母は即決したのだという。
「………単純……」
痒さの増した頭を指でこりこりと掻きながら、圭介は呆れたような目付きで、頬を染めテーブルに“のの字”を書きまくる母を見た。
「だってぇ…善ちゃんの頼みなんだもん」
この夫婦は今でも「涼子ちゃん」「善ちゃん」と呼び合う仲なのだ。
昔は仲の良い両親を見るのは嬉しかったけれど、年頃になっても息子の目の前で平気でキスする姿は、
気恥ずかしいを通り越してうんざりしていた圭介だった。
母が芸能界に身を置き、特定の音と色彩と韻の組み合わせで世界中に散らばった仲間へメッセージを送り始めてから、
徐々に彼らからの接触が増え始めた。
細心の注意をもって構成されたメッセージは、母と故郷を同じくする人々にしか理解する事が出来ない。
母や、彼らを“追う者”達には、ただの声や音や曲や色彩としか感じられなかったことだろう。
「ちょっと待ってよ。“追う者”ってナニ?母さん、いったいナニしたのさ?なんで母さんが追われなくちゃなんねーの!?」
「わかんない」
勢い込んで身を乗り出す圭介に、母はカップを持ったまま「ぺろっ」とピンク色の舌を出した。
日本という極東の小さな島国からの発信ではあったが、そのメッセージはTVを含めた映像を媒介して、
その“因子”を持つ人々から人々へと伝わっていったのだ。
圭介が小さい頃、良く家に来ていた芸能界関係の人達は、みんな世界中に散らばっていた、かつての仲間なのだという。
「けど、あれ?…うちに来た人って、みんな日本人じゃなかった?」
「見た目はね?みんな顔や体型を変えて来てたから」
「へぇ…………………って、たかが同郷の人間に会うだけで、整形までしてきたっての!?」
頷きかけて、圭介は不意に顔を上げて母を見た。
いくら小さかったとはいえ、日本人と外国人の区別くらいはつく。
「整形?……整形手術?…そんなことしないわよぉ?」
母はのん気に言って、くすくすと笑った。
「地球に来てから、みんな一度も手術なんてしてないわ。原始的な器具で身体を切り裂かれるなんて、お母さんでも怖くてダメね」
「地球???」
にこにこと聞き捨てならない言葉をのたもうた母上に、圭介はぎょっとして聞き返した。
「そう」
その時の母の顔で、圭介は、彼女が意図してわざわざ「地球」という言葉を使ったのだと悟った。
「………ええと……」
「けーちゃんが今いる惑星(ほし)よ?」
「んなこたわかってるよ!!」
「良かった」
「…母さん…オレ、真面目な話をしたいんだけど」
「真面目な話よぉ?」
「どこがだよ!!母さんの話聞いてると、まるで母さんが宇宙人みたいじゃないか!!」
チベットの山奥の洞穴に眠り続け、父に目覚めさせられてからは彼と何十年も世界をさまよい、
日本にたどり着いて20年間、世界にメッセージを送り続けてきた。
母の話をまとめると、そうなる。
では、母は本当は何歳なのだろう。
この、どこから見ても20代中頃にしか見えない、母親というより歳の離れた姉と言われた方がしっくりくるような若く美しい母は。
「やあね。宇宙人だなんて」
気色ばむ息子に、母はいつもの「ほにゃにゃ〜ん」とした笑顔を向ける。
「せめて『星人(ほしびと)』って言ってよ。ずっとそう呼ばれてきたんだから」
「…なんっ………」
圭介は開いた口が塞がらなかった。
ふざけるのにも限度がある。
こっちは真面目に話を聞こうとしているのに、よりによってこんなデタラメな話で人をからかおうとするなんて。
圭介は顔を真っ赤にして立ち上がり、テーブルを思い切り叩いた。
ガチャン!と、冷めた紅茶の入ったカップが音を立てる。
それなりにお気に入りなカップが傷ついたかもしれない事に、母はちょっとだけ顔を曇らせた。
「そんな…そんな漫画とかアニメみたいな馬鹿話、オレが信じられるとでも」
そこまで口にして圭介の言葉が途切れる。
絶句していた。
『漫画とかアニメみたいな馬鹿話』にそのまま出てきそうな人間が、今ここにこうして立っている事に気付いたのだ。
「ね?ありえない話じゃないでしょう?」
“えっへん”と胸を張る母の、たっぷりとした胸がゆさっと揺れた。
「じゃ…じゃ、じゃ、じゃあオレは…その…宇宙人……なのか!?」
「『星人』だってば」
「母さん!!」
「怒っちゃダメ」
「ちっちっちっ」と、本気なのかふざけているのか良くわからないポーズで右手の人差し指を振り、母はにっこりと笑う。
圭介には、今まで17年間ずっと見続けてきたその顔が、今は人間とは全く違う生物の顔に見えた。