ボクたちの選択 11


ところが、目が覚めて3日目の夜、リビングのソファで寝入ってしまった時、圭介は見てしまった。
消えたテレビに映る、母の顔を。
母は、辛そうだった。
これ以上ないくらい、哀しそうだった。
それも、ただの哀しみようではなかった。
息子の境遇を思い、痛ましさに胸が張り裂けそうな、聖母マリアのような顔をしていた(もちろん、実際に見た事なんて無かったけれど)。
母は、息子が薄目を開けてテレビの画面に映った自分の顔を見ているなんて、ちっとも気付いていないのだろう。
顔を歪め、唇を震わせて、母は、息子の後姿をじっと見つめていた。
圭介がいたたまれずにもぞもぞと身体を動かすと、慌てて欠伸したようなポーズを取り、
「お母さん、眠いから、もう寝ない?」
と言って、優しく圭介の細い肩を揺すってくれた。

胸が、痛かった。

圭介がそばにいる時はいつもにこにこして、嬉しそうで、悩みなんてこれっぽちも無さそうな母だったのに。
思えば、テレビの収録やマスコミの取材などでいつも忙しそうな母が、圭介が寝込んでからずっと側にいてくれたのだ。
超が付くくらい過保護で子離れ出来ていない“減点ママ”なのは変わらないけれど、いや、むしろ加速しているような気もするけれど、
今までなら圭介が目覚め、身体的には異常が無いとわかった時点で、仕事に戻っていただろうに。
ただ能天気に、息子の肉体が『固定化』したことを喜んでいたわけではなかったのだ。
肉体的に精神的にもまだまだ不安定な圭介を、一番近いところで見つめ、癒し、そして慈しむために、息子の姿がどうあれ、
全てを受け入れるために、母にも時間が必要だったのだろう。
そして、そばに能天気で何も考えていないような明るい人間がいると、大抵の人間は暗く落ち込む事なんて出来なくなるということを、
母は知っていた。
能天気な人間に引き摺られて、悩んでいることそのものが馬鹿らしくなるか、または、能天気な人間に対して呆れや怒り、
または反発心からくる発奮を感じるようになる。
いずれにしろ、暗いエネルギーを維持出来なくなるのだ。
だからこそ、母はあの話をしてからずっと、能天気で何も考えていない母を演じ続けてきたのだろう。
母の言葉は、嘘では無かったのだ。
圭介はそう、思った。
『信じて欲しいのは、お母さんがけーちゃんの事を愛しているってこと』
あの言葉が、胸を締め付けた。
もちろん、何も考えていない能天気で明るい母が地じゃないなんてことを、圭介はとても否定なんて出来やしなかったのだけれど。

圭介は、珍しく母に「おやすみなさい…お母さん」と告げ、階段を上がった。
「おやすみ」でも「おやすみ、母さん」でもなかった。
それは、小学生の頃、母の胸に抱かれながらキスのお返しをして、そして甘えるように言った言葉だった。
まだ、キスは出来ないけれど、
母からキスされるのも照れ臭くて嫌だけれど、
でも、ようやく母と、ちゃんと向き合えるようになれるのかもしれない…と思った。
母は、いつものように優しく微笑んで、
「おやすみなさい、けーちゃん」
と言った。
その声を聞いた時、圭介は感じた。
あの日、目覚めてから聞いた母の言葉を、ようやく冷静に振り返る事が出来そうだ…と。


「はあ?何言ってんの母さん」
6日前のあの日、あの朝、圭介は、ベッドの側の床に正座して、今まで一度も見たことの無いような真剣な目で
こちらを見上げる若い母を、呆れたように見やった。
「いいから。ね?おちんちん、ある?」
黒目がちでいつも濡れたような瞳を向ける母の言葉には、有無を言わせぬ迫力がある。
けれどそれは、去年の出演映画『ふた恋』での「冷徹で氷の微笑が似合うヒロイン」とは、どうしても結び付かなかった。
もっと切実だ。
まるで、「今度いつ帰ってくるのか」と、遠方に単身赴任している夫や父に聞いている新妻とか娘みたいな声音で聞かれた気がする。
つまり。
『ちゃんと答えないと泣くぞ』と言われた気がした。
「ねっはやくっ」
TV画面や雑誌の中では、母の真剣な眼差しを見た事もあった。
けれど、今日のような母を見るのは、初めてだった。
母に急かされ、圭介は毛布の中に手を入れた。
まだ、昨日の無感覚を引きずっているのだろうか。
どうも、股間にいつも感じる感覚が無かった。
右手を股間に当てようとして、その直前で躊躇する。
寝小便してしまって、まだそこはしっとりと濡れているのだ。
「あの、母さん」
「もうっ、どうなの?あるの?無いの?」
ベッドの端に両手を着いて詰め寄る母に、気圧されるようにして股間に触れた。
「……え?…」
手に、何も感じなかった。
夜にトイレに行った時、親指の三分の二くらいの大きさまで縮み上がっていた陰茎を思い出す。
「…あ…ははっ…」
手が濡れるのも構わないで、今度はさらにズボンの中へと手を入れる。
けれど、やっぱり、無かった。
「うそっ!?」
毛布を跳ね除け、膝立ちになり、母がいる事も忘れてしまったかのようにトランクスをズボンごと引っ張って、中を見た。
トランクスの裏地に、もしゃもしゃしたものが大量にへばりついているのが見える。
さっきからずっとむずむずとむず痒かったのは、オモラシをしてしまったから…というだけではなかったらしい。
右手でそのもしゃもしゃしたものを摘んでみた。
それは、黒くて、艶々して、そして歪(いびつ)に縮(ちぢ)れた毛。
下腹部を触る。
つるつるしてた。
……陰毛が、全部抜け落ちた??
何がどうしたのかわからない、ただ、気が抜けた。

「どう?あった?無かった?」
「……ない……」
圭介が手に縮れ毛を持ったまま呆然と言うと、
「きゃーーーーー!!!おめでとうーー!」
急に女子高生みたいな黄色い声が響いて、圭介は母にむぎゅっと抱きしめられた。
ふかふかとした二つの豊満なふくらみに顔を埋められ、圭介はじたばたと暴れる。
「ちょ…かあっ…」
いい臭いの母の香りを嗅いで、逆に圭介は、自分がツンとした酸っぱいような臭いとアンモニアの臭いで、とんでもなく臭い事を思い出した。
恥ずかしい。
強烈な羞恥心が身体をカッと熱くした。
恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて、汗がますますどっと出た。
けれど、離れたいのに母は離してくれない。
「ちゃんと固定化したのね?初めてだからお母さん、すっごく心配したのよ?」
「え?ちょ…え??固定化?なん……ちょ…かあっさんっ!」
「よかったぁ……ほんとうに…よかったぁ……」
自分の豊満な胸で愛しい息子が窒息寸前に陥った事にこの母が気付くまで、あともう少し。


ひとしきり『娘』の抱き心地を堪能したのか、母は満足そうに微笑みながら「お風呂を沸かしてくるわね?」と言いつつ部屋を出て行った。
圭介はその間に…と、汚れてしまったズボンとパンツを慌てて脱ぐ。
そして母の持ってきた、お湯の入った洗面器でタオルを硬く絞り、とりあえず顔や手や首筋や胸元などを拭いたけれど、
一番汚れているだろう股間は、こびりつく陰毛と垢を手早く拭っただけで、奥の方にはほとんど触れなかった。
怖かったのだ。
自分の身体ではあるものの、まだ、自分の身体とか思えなかった。
見慣れた陰茎も陰嚢も無く、つるつるで、産毛だけしか生えていない。
そんな所をヘタに触れて“取り返しのつかない事”になったりしたら、困る
(どう取り返しがつかなくなるのかは、さすがに想像も出来なかったけれど)。
そう思ったから、ちょっとお湯を含ませたタオルで軽く拭うだけにしておいたのだ。
ねとねとした白っぽい粘液がいっぱいついて、すごく臭くなり、そのタオルではもう顔は拭けなくなってしまったけれど。
「……あ……」
身体を拭き始めて、圭介は自分の髪が胸元まで伸びている事に、今更のように気付いた。
気付いて、自分がいかにパニックになっていたのかを知った。
それとも、感覚そのものがマヒしていたのだろうか?
ばさばさと顔に振りかかる髪をしきりに掻き上げ、圭介は今日、目覚めてから最初の溜息を吐(つ)いた。


「けーちゃーん。下で話さないー?」
ベッドの上やカーペットに散った“恥ずかしい縮れ毛”を拾っていると、階下から母の呼ぶ声が聞こえた。
まだ、パジャマの下の肌がべとべとしている気がするけど、我慢出来ないほどじゃない。
それよりも、長く伸びた髪から白いフケがパラパラと落ちて、それに気付いてからは、
ずっと頭が痒くてたまらなくて、そっちの方がずっと気になった。
フケの浮いた不潔な頭など、自慢じゃないが圭介は今まで一度だって人に見せた事は無い。はずだ。
早く洗いたかったけれど、とりあえず応急処置として、リビングに行く前にトイレで頭をばさばさと振ってフケを落とすと、
水を流しながら手早く輪ゴムで髪をひとまとめにした。

「お風呂、今沸かしてるから、その間にちょっとだけ昔話するね?聞いてくれる?」
パジャマにフケがついていないか確認してから圭介がリビングに行くと、ちょうど手にティーカップの乗ったトレイを持って
母が入ってくるところだった。
もう、いつもの母だった。
いつもの、ぽやぽやとして、息子が可愛くて可愛くて可愛くて仕方ない、ただの子煩悩な母親の顔だった。
「昔話?」
「ね、けーちゃんは、お母さんがどうして女優なんてやってるのか、不思議に思ったことは無い?」
「へ?」
突然、母はいったい何を話すつもりなのだろう?
圭介は、自分が女性化したその理由を母が知っているのだと思っている。
知っているからこそ、特に驚きもせずに普通に接し、あまつさえ
『きゃーーーーー!!!おめでとうーー!』
などと言い、さらには
『ちゃんと固定化したのね?初めてだからお母さん、すっごく心配したのよ?』
などと言ったのだろうと思っている。

固定化。

どういう意味なのか。
“何が”固定化したのだというのか。
身体が?
女に?
それは、いったいどういう意味なのか。
それを母は、ちゃんと説明してくれるものだと思っていた。
だから大人しくリビングに降りてきたのだ。
なのに。
「そんな怖い顔しないで。ちゃんとワケも話すから。ね?」
むうっと唇を突き出して拗ねるように言う母を見て、圭介は不機嫌そうにするのも馬鹿らしくなり、
ティーカップを取って香りの良い紅茶を一口だけ口に含んだ。




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