目覚めてから4日間、彼が何もしなかったわけではない。
その間、圭介は母からいろいろな事を教わった。
正直、ちょっとうんざりした。
17年間男として生きてきたのに、いきなり女の生き方を教えられても困惑するだけで、
具体的な現状の打開策なんてものはこれっぽっちも浮かびやしない。
けれど、身体は心の器であり、心は身体のありように影響されるものだ。
圭介の場合は、ある日突然…というわけでもなく、昏睡状態だった期間も合わせて一週間という時間をかけ、
徐々に心が肉体に引き摺られていった。
それはいっそ、「馴染んでいった」と言い換えてもいい。
「男であろうとする」「かつて男のものだった心」が、「女であることを強く感じさせる」
「女そのものの身体」に、徐々に“呑まれて”いったのだ。
確かに喪失感は、強い。
当たり前に男だった自分が元々持っていたものが、すっぽりと肉体から消失してしまったのだから。
それは「性器」だけではなく「力」であり「声」であり「肉体における自由さ」だった。
たった3日間で、思い知った事がある。
それは、男という生物は、「生物学的に」驚くほど「身軽」だった…ということだ。
それをまざまざと実感する。
男の時には感じなかった非力さを、些細な事で痛感した。
前のように笑い合いたくて、訪ねてきてくれた健司を右手で軽く突いた事がある。
健司の肩は、動きもしなかった。
キッチンの椅子を運ぶだけで、腕が疲れた。
親父の田舎から送られてきた、10キロの米が入った宅配便の箱を運ぼうとして、持ち上げる事も出来なかった。
電話に出た時、圭介の声を聞いた相手が急に馴れ馴れしくなった時には、怒りを通り越して呆れた。
そして、女の肉体の不自由さを知った。
トイレに行く度に、パンツもズボンも脱いで、便座に座らなければならない。
たったそれだけの事が、とんでもなく面倒臭かった。
それだけではない。
放尿した後、トイレットペーパーを使わなければならないのがイヤだった。
男なら、陰茎の根元に力を込めて尿を切った後、“ぴっぴっ”と陰茎を振れば良かった。
それであらかた尿は切れるし、長い陰茎で尿が漏れる事もあまり無い。
でも、女は違った。
気を抜くと、尿が漏れる。
放尿した後に丁寧に拭いておかないと、すぐパンツがおしっこ臭くなる。
一度など、くしゃみをした途端“ぴゅっ”と尿が漏れ、パンツがしっとりと濡れた。
なんだかそれが情けなくて悔しくて、パンツを換えながら、ちょっと、泣いた。
うんちをした後は、もっとひどい。
とにかく、拭くのが怖かった。
ヘタに拭いて、うんちが性器についたら…あの繊細な襞についてしまったら…。
そう考えると、紙で強引に拭く事なんて出来なかった。
幸い、ウォシュレットが完備されていたから、圭介はそれを多用した。
そして、トイレットペーパーを何回も何回も使って、軽く叩くように、押し当てるようにして拭いた。
以前はものの数分で済んでいた排泄作業が、5分も10分もかかるようになり、そういう些細な事の繰り返しが、圭介の心の奥に、
「もうオレは男じゃないんだ」
という、諦めにも似た思いを植え付けていった。
17年という年月が、たった1週間という日々に、確実に侵され、呑まれ、そして、変化しようとしていた。
もちろん、17年間男として培ってきたアイデンティティは、そうそうたやすく女性という立場に対応出来るほど、
柔軟でもいい加減でも無かった。
それでも、その「変化」は着実に圭介の精神を、感情を侵食し始めていたのだった。
涙が出やすくなったのも、変化の一つだった。
確実に、情緒不安定になっている。
涙もろくなり、感情に波があった。
以前からその気はあったけれど、女性化してからはそれが顕著だ。
テレビから流れる、子供などの甲高い声に敏感になった。
以前は鼻で笑っていたような、“あざとい”、いわゆる『泣きドラマ』で容易く泣いたりもした。
圭介も、「女」というものが、全てこんな感じだなどと思った事は無い。
「女」にもいろいろいるし、基本的には男と同じ人間という生物なのだから。
けれど、メンタリティの部分では、圭介は確実に「圭介が思っていた女のイメージ」へと近づいていった。
それは、本人の自覚も……無いままに。
息子が突然娘になってしまった事について、母は特に気にしていないようだった。
目覚めてからずっと聞かされた話で、事の概要は理解したつもりだけれど、それでも、もうちょっと哀しんでくれてもいい気がする。
これで悲嘆に暮れて自殺でもしたらどうするつもりだったのか、圭介が少し不機嫌に言うと、
「そのための『ネクタル』よ」
と言ってにこにこと微笑んだ。
『ネクタル』というのはギリシャ(ヘレネス)神話に出て来る神々の飲み物であり、不死の酒の事だ。
同じく神の食べ物の『アムブロシア』と共に、全能の神「ゼウス」から眷属の神々に振舞われたり、
神々の子供達に与えられたりする、神話上の飲み物と言われている。
…が、もちろん実際は、そんな伝説の飲み物が現実に存在する筈もなく、『ネクタル』というのは母があの液体に、
勝手に名付けた名前らしかった。
圭介が夢現(ゆめうつつ)をさまよい、意識混濁の時、母が飲ませてくれた「蜂蜜みたいなトロリとした金色の液体」と
「やたらと喉越しの爽やかな水」が、共に母の言うところの『ネクタル』であり、どちらも基本的には似たようなもので、
その時の肉体の状態によってどちらを与えるかを変えたのだという。
「で、それって大丈夫なの?」
圭介が、風呂に入ってさっぱりした身体で、覚醒した状態では3日ぶりとなる食事を口に運びながらそう聞くと、
母は傷ついた!という顔をして唇を突き出し、
「お母さんが、可愛いけーちゃんに危ないもの食べさせたり飲ませたりした事があった?」
と大変憤慨あそばされた。
圭介はキッチンのテーブルに載った母のたっぷりとした胸を見て、それから母の真剣な目をちらっと見て。
「おかわり」
と、卵粥の2杯目を所望した。
本当は、時々テーブルに現れる、生焼けのホットケーキや塩の入ったミルクセーキは危ないものじゃないのか、
膝を突き合わせてじっくり聞いてみたい気もしたけれど、きっとたぶん「愛情がこもってるからいいの」などと言って
煙に撒かれるのは目に見えていたので、ちゃんと無視しておいた。
たぶん、実際には栄養剤とか、精神安定剤とか、そういうものなんだろうと、圭介は思っているのだが。
とにもかくにも、圭介が必要以上に悲嘆したり、発作的に世を儚(はかな)んで自殺したりしなかったのは、
その『ネクタル』のおかげらしかった。
「ね?ね?お母さんだって、ちゃんと考えてるのよ?」
そう言って、『どーん!』と白いブラウスを突き破るのではないかと思うくらい突出した、
豊かで重たげな胸を張って得意げに言う母を見て、それでも安心出来る人間は、きっとそうはいないに違いないけれど…と、
圭介はひっそりと思った。
そんな母だったが、圭介が寝込んでいる間に買い物をしておいたのか、下着から何から女モノをちゃっかり用意しておいてくれたのには、
本気で、ちょっと…絶句したものだ。
しかもサイズは測ったようにピッタリだった。
眠っている間に身体を拭いた…とか言っていたから、きっとその時にでもサイズを測ったのだろう…と圭介は思ったけれど。
確かに、正直に言えばズボンを履いていると、トランクスだと股間に当たる硬い布地があの『肉の裂け目』に食い込んで、
時々…ホントに時々、すごく痛くなったから、女モノの柔らかい下着は……不本意ながら、ありがたかった。
そう思っていた。
実際に履いてみるまでは。
「さ、履いてみて」
食事が終わった後で、にこにこと満面の笑みで言われながら、駅前の大きなデパートの紙袋に入った、
それなりに有名なメーカーの下着を母から受け取った時、圭介はたぶんきっと死刑宣告を受けた囚人みたいな顔をしていたのだと思う。
これを履いたら、もう戻れない。
そんな気分だったのは確かだ。
「覗かないでよ?」
そう言って、圭介は部屋に入り、袋から下着を取り出して広げてみた。
光に透ける白い布地のそれは、少年漫画でよく「パンティ」とか「ショーツ」とか「スキャンティ」とか呼ばれてる、
圭介が想像していたような、過度な細かい刺繍で彩られた色っぽい下着などではなかった。
サイドも幅があって、まるで前に穴が開いていないブリーフみたいだった。
もっとブリーフとの違いが顕著なのは、布地が想像していたよりもずっと薄い事だった。
圭介は一呼吸すると、意を決してパジャマごとトランクスを脱いだ。
脱ぐ直前、あたりをきょろきょろと見てしまい、自分の部屋なのに何をそんなに警戒しているのか、自分で自分が可笑しくなった。
骨盤が張って、お尻の肉が、男だった時よりもむっちりと付いているため、その肉を全部包むようにして下着に押し込む。
腰骨の位置がなんだか微妙なためか、ゴムが当たる部分がよくわからないけれど、たぶんこんな感じだろう…と適当に引き上げた。
「………ヘン…」
鏡に映して見てみた自分の姿に、圭介は顔をしかめて溜息をついた。
正面から見ると、前が膨らんでいない股間がこんなにも頼り無く見えるとは思わなかった。
それに、なんだか今にもずり落ちそうで、どうにも心もとない。
くるっと背中を向けてパジャマの上着を捲り上げ、お尻を鏡に映してみる。
そんなに大きくないけれど、それでも男だった時から比べると明らかに大きい。
ぽってりとしたお尻の肉は決して垂れてなどいないものの、下着からむちっとはみ出た肉が、なんだかすごく恥ずかしくて、
圭介は下着の端を指できゅっと引っ張って、隠した。
その瞬間。
圭介は、突然感じたのだった。
『ああ、もう、戻れないんだな…』
鏡の中でパジャマの上と下着だけの姿で立ち尽くす少女は、肩を落として今にも泣き出しそうな顔をしていた。
こうまで用意周到では、息子が女になったのを気にしていないどころではない。
やはり、母はむしろ喜んでいるのではないのか?…と、圭介は思った。
けれど、それに対して圭介は、一抹の寂しさと共に「女親なんてこんなものか」と、思ったりもした。
過保護に纏わりつく自分を疎ましく思う息子よりも、一緒に何か出来る…出来そうな娘の方が、やっぱりいいのだろう…と。