二人でお茶を(ミュラー×フレデリカ)6/3-338さん
それから1週間ほど経っただろうか。
玄関のドアチャイムが鳴る。
「お届け物です」と言われてドアを開けたフレデリカが
受け取ったのは赤いストックの花束だった。
花を届けにきた人物が去った後に確認すると
差出人はナイトハルト・ミュラーとなっており、
ご丁寧にカードまで添えてある。
先日のこともあってフレデリカはその花束を飾ることなく即座にゴミ箱に捨てた。
しかし花束の配達はそれ1回限りでなく、毎日続いたのだ。
カードにはたった一言、「あなたへ」とだけかかれており、
その言葉は変わることがなかった。
だんだんフレデリカは受け取ることすら億劫になってきて
「持って帰って、送り主に返して欲しい」と頼んだのだが。
「それが…送り主の方には返せないんです」
「え? それはどういうことですの?」
「最初にこちらに花束をお届けするご注文を承ったとき、
『そのうち受け取りを拒否され返却されることになると思うが
こちらは任地に戻らなければならない事情があるためそれには応じられない。
たとえ本人が受け取りを拒否しても必ずその家においてきて欲しい』
と言われまして…代金の方もこの先5年間毎日お届けしてもなお余るほどの
金額を前払いいただいておりますし、こちらとしてもどうすることもできないんです」
任地に戻らなければならなくなったということは、
既にミュラーはこのハイネセンの地にはいないのが明白だ。
「わかりました。私から本人に連絡を取ってみます」
と配達されたストックの花束をとりあえず受け取る。
どういうつもりで毎日花を送ってくるのか真意を掴めないフレデリカは、
花の配達を止めてもらうべくミュラーに連絡を取るために
まずはハイネセンポリスの総督府に電話を掛けた。
「申し訳ありませんが、お取り次ぎすることができません」
フレデリカの嘆願を受け付けようとした事務官は淡々とした口調で言った。
「こちらのハイネセン共和自治領と帝都フェザーンでは使用通信帯域が異なるため、
現在通信設備のシステム変更を計画中であります。
しかし実際に工事を着工するまでに約2年、
ハイネセン共和自治領全体でシステム変更が完了するまでには
さらに5年ほどの歳月が必要なのです。
もし今、伝言を承りましても実際にご本人に伝わるまでには
現時点では最低でも1ヶ月はかかることとなりますし、
ましてやミュラー元帥は帝国軍の最上級幹部であられますゆえ、
ご本人から直接お聞きにならない限りは
こちらとしても軍規上の観点から一般民間人に連絡先を開示することができません」
結局フレデリカは毎日送られてくる花を受け取らざるを得なくなった。
ストックの季節が終わると次は黄色いクロッカス。
続いてピンクのチューリップ、白いアスターと続き、
それらの花がないときには赤いバラの花束が届いた。
最初は態度を硬化していたフレデリカも
「悪いのはあの人であって、花そのものには罪は何もない、か…」
と送られてきた花束を部屋に飾り始める。
1回に30本以上の花が花屋から届けられるため、
しおれた花を次々に交換していても生けきれない。
そのうちフレデリカの住居は
ミュラーが送りつけてきた花で埋め尽くされるようになった。
(どういうつもりなんだろう…)
ある晩、フレデリカは部屋中を彩る花を眺めながら、
ミュラーの行動を自問する。
(あの後、ハイネセンを経つ前に花屋に注文していったのかしら?)
この先5年分の花を毎日届けさせるほどの大金を前金で払っておきながら、
あの日以来ミュラーは一度もフレデリカの前に姿を現さない。
(お詫び…なの? ドレスを返してくれなかったことに対する?)
フェザーンからここハイネセンまでの旅程は約半月。
ミュラーの職責を考えれば忙しくて簡単には来られないことはフレデリカにも分かるが、
既に半年が経過している。
(確かにあの日は私も怒ってたけど…。
日を改めてすぐにここへ来てくれれば、私だって少しは考えるのに)
そうは思ったフレデリカだったが、あの日のミュラーの行動には疑問を感じた。
(これがお詫びだとするなら、あの晩の「あれ」はなんだったんだろう…)
前段階で何度も上り詰めさせられ、
それから後も執拗なまでに限界を超えさせられたが、
それでも彼は思いのままに自分を蹂躙しようとはしなかった。
それどころかフレデリカがそうして欲しいと伝えるまで
自分の欲望を弾けさせようとしなかったし、
いざそうしようとするときも少し戸惑っているように思えた。
(あの人なら、そんなことしなかったのに)
そこまで考えて、頭の中で亡き夫の姿が霞んでいたことに気づき、
「!」
(私ったらどうしてそんなこと考えてるのかしら、
まるであの人のことを忘れてしまったみたいじゃないの!)
慌ててフレデリカは首を大きく横に振る。
(いくら夫が先に死んだからと言っても、
私はヤン・ウェンリーの妻なのよ。他の男性の事なんて考えては駄目)
おもむろにフレデリカは立ち上がり、寝支度を整えるべく寝室へ向かった。
さらにしばらく後、フレデリカは花束とともに
比較的大きな荷物を配達業者から受け取った。
差出人はまたもナイトハルト・ミュラーとなっている。
梱包を解き、箱の蓋を開けると1枚の便箋が目に飛び込んでくる。
すぐその下には布状の物体が丁寧に畳まれて入っていた。
広げてみるとそこに現れたのは、見覚えのあるモスグリーンのドレスと、
明らかに新品の、それもかなりの高級品と分かる下着類の包み。
「今どきこんな古典的な方法で連絡してくるなんて…。
手紙をデータディスクに変換してくれればいいのに」
と呟いた後、フレデリカはハイネセンポリスの総督府に
電話を掛けたときのことを思い出して苦笑いを浮かべた。
(そういえば、あちらのデータディスクが
そのままこちらで使えるわけではなかったわね)
フレデリカは便箋を開いてその文面を読んでみることにした。
『捜索の結果ドレスを発見することはできました。
しかしながら、下着類についてはあなたが病院に搬送されたときに
診察助手を務めた看護士が医師の診察の妨げにならぬように診察前に切断、
後に感染症等を防止する観点から焼却処分したとの報告がありましたため、
ご返却することが適わなくなりました。
この点につきまして帝国軍を代表しあなたに陳謝するとともに
代替品を送付いたしますのでよろしくご査収くださるようお願い申し上げます』
直筆のサインとともに書かれた文面はあまりにも事務的で、簡潔で。
「あなたへ」と書かれたカードとともに花を贈ってくる人物が
同じものを書いたとは思えなかった。
これで自分に詫びたつもりなんだろうか、とフレデリカは釈然としないまま
便箋をテーブルに置こうとした。と、そこに光が反射する。
「あら?…これは…」
窓からの採光が便箋の表面を照らす。微妙な陰影が浮き上がってくる。
便箋いっぱいに何かを書いた痕跡。
そのほとんどは何度も上書きされたのか文字が重なりすぎていて読めなくなっていた。
しかし事務的に書かれた文章より下に書かれた、なんとか読める部分には。
彼なりに考えながら書いたのであろう、より話し言葉に近い表現の、
彼の潔白を証明するに足る事実の一部。
最終的には合意の上で行われたものになったが、
あの日そこへ到るまでに自分がフレデリカに対して行ったことへの謝罪。
そして、フレデリカに対する自分の想い。
それらが表面的には見えない文字で綴られいる。
ペンを握り、強い筆圧で何度も書き直した結果だろう、
フレデリカに届けられたその便箋にミュラーの強い想いが刻まれているように思えた。
文末に書かれた「あなたを愛しています」という見えにくい文字列が判読できたとき、
フレデリカはあの日自分に囁いた彼の声を、
あの日彼に弁解の余地を与えなかった自分の行動を思い出した。
便箋を片手に持ちながら、フレデリカは家の中を歩き回りながら考える。
彼が言葉を紡ごうとする度にそれを途中で遮り、詰問した。
(そういえば…あの人はあのイヤリングを返すとき、
「皇太后陛下から預かったものであなたに返すように託された」と言っていたような…)
爪が食い込むほどにつかまれた両肩の痛みと、
その数時間前に何度も背中を撫でてくれた優しい感覚。
そこかしこに口付けられた時の唇の温かさが、忘れられない。
(あの夜たしか2回言われた気がするけど、でもあれは)
彼は自分のために「自分が愛した男」の代わりになってくれただけのはず。
(ではこの便箋の、この簡潔な文字列は?
ここに書かれていたはずの、私への言葉をあえて伝えてこなかった理由はなぜ?)
あの日の彼の言葉はきっと彼自身の本心ではないだろう。
フレデリカはずっとそう思っていた。
(毎日花を送ってくる理由は?)
解らなかった。彼の意図がつかめなかった。
軽くため息をつき、気分を落ち着けるためにお茶を入れようと思って、
フレデリカは足元に落としていた視線を正面へ向ける。
ふと目の前の本棚の、ある1冊に目が留まる。
何気なくその本を手に取り、ぱらぱらとめくる。
そこに書かれていた内容にフレデリカははっとなった。
「まさかあの人はこのドレスのことを含めて、だから花を送ってきたの…?」
赤いストック、黄色いクロッカス、白いアスターは、「私を信じて」。
ピンク色のチューリップは、「恋の告白・真面目な愛」。
赤いバラは、「愛情・熱烈な恋」を。
手に取った本には、それぞれの花にあてはめられた「花言葉」が書いてあった。
(本気なんですか、閣下…?)
これまで数回しか会わなかったが、そこから考えられる彼の性格からして
彼が嘘をついているようには思えなかった。
しかし、フレデリカは首を横に振る。
「もしそうだとしてもいずれお断りした方がいいわよね、あなた」
その場にはいない夫からの返事は当然なかったが、
フレデリカは自分を納得させるかのようにつぶやき、踵を返して台所に向かう。
フレデリカは見えない文字で書かれていたミュラーの言葉を、
敢えて見なかったことにしようと心に決めた。
つぶやいた後もフレデリカの心の中には
少しだけ澱のようにに引っかかるものを感じていたが、
それが後に大きくなっていくとはこのときは考えられなかった。
ようやくミュラー本人からフレデリカのもとに連絡がきたのは、
それから3ヶ月も経った頃。
イヤリングを返しに来たときから数えれば既に2年が経過していた。
フェザーンから届いた封蝋つきの手紙の内容は
時候の挨拶と締めくくりの言葉を除けばごく簡単なもので、
「○月×日午後6時にホテル・サン・アルカンジェロにてお会いしたいので、
予定を空けておいてくださると助かります」
と書かれてあった。
フレデリカにしてみれば、自分の中では納得がいかないまでも
ドレスが自分の手元に戻った時点で
ミュラーとのことは一応の決着がついたつもりであった。
にもかかわらず向こうから会いたいと言ってきたということは、
正式なお詫びをするつもりで会うつもりなのだろう。
いまだ送られてくる花束に対する疑問はあったが、
フレデリカはそのつもりで当日を迎えた。
当日、ホテルのロビーでフレデリカを迎えたミュラーは、
「お待たせしてしまって、申し訳ありません」
と現れたフレデリカの姿に言葉を失った。
ミュラーは書面にて特に服装を指定したわけではなかったが、
フレデリカが着ていたのはクリームイエローのマーメイドラインのドレス。
その場に突然神話の中の女神が姿を現したかのような美しさは、
頭の中の語彙の全てを使っても表現できそうになく、
「…………」
ミュラーは口を半開きにしたままフレデリカを見つめる。
「…閣下?」
「…………」
「閣下、いかがされましたか?」
「…………」
「閣下」と呼んでもいまだ硬直しているミュラーの気を引こうとして、
フレデリカは違う呼称で呼びかけてみる。
「あの…ナイトハルト様?」
「え? …あ! すみません、フラウ・ヤン。
その…前にあなたのご自宅に伺ったときの服装で
いらっしゃるかと思っていたものだから、びっくりしてしまって…」
「直前まで何を着ようかとても迷ったのですが、お気に召しませんでしたか…」
そう言ってうなだれるフレデリカを、
「い…、いいえ! とてもよく似合ってます」
と慌てて褒めるミュラー。
「ここのダイニングで一緒に軽く食事をと思っていたのですが、
せっかくそんな素敵な服装で来ていただいたのだから、
今日は予定を変えましょう」
そう言ってミュラーはフレデリカをホテルの外に連れ出した。
フレデリカが車で案内されたのはハイネセンポリス郊外のとある邸宅だった。
もともとこの邸宅は自由惑星同盟最高評議会議長であった
ヨブ・トリューニヒトが別荘の1つとして所有していたもので、
トリューニヒト死亡時の遺産相続の際に遺族が相続税として現物納付したものらしい。
ミュラーの説明によれば現在はハイネセンポリスとその周辺に駐留する
帝国軍士官のためのクラブとして利用しているとのことだった。
ミュラーとフレデリカが屋敷内に入ると、先に室内にいた士官たち、
彼らに伴われて入店していた女性たちが驚きの表情を浮かべる。
ここに来るとはおよそ考えられない予想外の入店者2人の顔を見て
士官たちが慌てて立ち上がり、敬礼しながら一列に整列した。
「私とこちらのご婦人のことは気にしなくていい。
いつものように振舞ってくれ」
と言い置いてからミュラーは空いている席から
窓の外の眺めの良い席を選び、上席にフレデリカを座らせた。
「ここに私がいるのはとても場違いな上、いくらか危険な気がするのですが」
互いの近況を報告しあった後は話題が途切れてしまい、
辺りの雰囲気もあってフレデリカは沈黙に耐えかねて、
デザートが供された後にミュラーにそう言った。
「申し訳ありません。もっと他の場所へご案内したかったのですが、
あなたの服装が引き立つ場所で落ち着いて食事ができるところというと
ハイネセンポリスの近くではここしか思いつかなったのです。
なんというかその…女性を伴って食事をする機会は
今まであまりなかったものですから…」
少し口ごもりながら照れた表情を浮かべるミュラーに対し、
「いえ、そうではなくて…」
とフレデリカはその発言に首を振る。
「既に辞任したとはいえ私はイゼルローン共和政府の代表者でした。
その私がこうして帝国軍専用施設で他の士官の方に囲まれながら
帝国軍元帥である閣下と食事をしているのはどうしても悪目立ちしてしまいますし、
何かあったときに閣下のお立場を悪くしてしまうのではないでしょうか」
とフレデリカの表情は真剣そのものだった。
「大丈夫ですよ」
とミュラーは笑いながらフレデリカに告げる。
「条約締結前ならいざ知らず、
今はあなたのことを悪く言う者は帝国内に存在しません。
心配でしたら、ここにいる者には今日ここで見たことは明日には
各自の記憶から消去するように伝えておきます」
「でも…」
「今まであなたには黙っていましたが、
万が一のことを考えてシヴァ星域での戦争後からずっと
あなたの周りには常に警護役が配置されていますから、
あなたの身の安全は確実に保障されているんですよ」
「監視されていたということですか?」
「いいえ。極力あなたの生活に支障をきたさないように
警護を担当する者には言動を制限してありますからご安心ください。
それにあなたに危険が及ぶようなことがあれば
すぐに私のところに連絡が入るようになっています」
フレデリカは自分の心配が余計なものであることを知ると
「差し出がましいことを申し上げてすみません」
と詫びた。
「もしあなたに何かあったら、心配で仕事が手につかなくなる」
その声に重なるようにミュラーは小さな声で呟いた。
「え?」
と思わず聞き返すフレデリカ。
「あ、いえ。私の方こそあなたにいろいろお詫びしなければいけない」
と誤魔化した後、ミュラーは椅子から立ち上がった。
「少し踊っていただけませんか?」
屋敷内全体に音響設備が整えられているらしく、
天井に埋め込まれていたスピーカーから音楽が聞こえることには
フレデリカは屋敷に入ってすぐに気がついていた。
フレデリカはミュラーに手を取られて食事をしていたホールの中央にいざなわれる。
数人のカップルがその場で華麗なポーズを体現しつつ、
優雅なステップを踏んでいることに引け目を感じ、
「私、ダンスはあまり上手ではないのですが」
と言ってフレデリカはダンスの誘いを断ろうとした。
「私の動きにあわせて足を動かすだけで構いませんよ。
それに踊りながら話せば士官達に聞き耳を立てられることもないでしょうから」
とそのままミュラーは腰に手を回してポーズを整える。
フレデリカは仕方なくミュラーの肩にそっと手を置いた。
「いろいろ話しますが、特に返答していただかなくて結構です。
踊っているように見えるよう、動きにだけ集中してください」
身体が近づき、ミュラーの顔がフレデリカの耳に近づいた。
「もっと早くにお詫びしに来ようと思っていたのに、
あれから2年も経ってしまいましたね。本当に申し訳ありません」
「私は……あっ」
ミュラーの言葉に返答しようとして、ドレスの裾を踏んでしまい、
フレデリカの身体が大きく傾く。
「おっと…大丈夫ですか?」
そのままバランスを取るようにミュラーは腰を支え、
フレデリカの身体を後ろに反らした。
「おお!」
踊り始めてすぐ大胆なポーズを決めているかのように見える
2人の様子に周りから歓声が上がった。
「すみません、お話に気を取られてしまって」
歓声に驚いて恥ずかしそうにうつむくフレデリカ。
「たとえお身体がぐらついてもなんとか致しますから、
どうぞ気になさらず私にお任せださい」
とフレデリカを諭しミュラーは踊りながら話を続ける。
「…あなたを脅迫して自分の意のままにしようだなどとは、
私はこれまで一度たりとも考えたことがありません。
あの日は本当に皇太后陛下からお預かりしたイヤリングを
お返ししたらすぐに退去するつもりでした」
手を高く上げられ、その場で一回転させられた。
「日ごろの体調管理が不十分だったせいで
心ならずもあなたのご自宅に一晩滞在することになってしまい、
そのことが近隣住民の方のあなたに対する印象を
悪くさせてしまったのであれば謝ります…」
徐々にステップに慣れてきたフレデリカの動きがミュラーのそれに呼応し始める。
「お返事は首を動かすだけでいいですから、質問に答えていただけますか?」
ミュラーの言葉に従い、フレデリカは首を縦に振る。
「ドレスはお手元に届きましたか?」
縦に動かす。
「では、花は?」
分かっているはずなのになぜそんなことを聞くのか不思議に思ったが、
再びフレデリカは首を縦に振った。
「…よかった、手違いで届いていなかったらどうしようかと思っていたのです」
安堵したかのようなミュラーのため息が聞こえた。
「あの後すぐにお詫びに伺おうとしていたのですが、
憲法草案の一部が出来上がったとの報告があり、
自分が調査した資料と比較するために
すぐにフェザーンに戻らなければならなくて。
だから再びあなたにお会いできる機会が来るまでの間に、
なんとかお気持ちを静めていただこうと思って
花を届けてもらったのですが、ご迷惑でしたか?」
フレデリカは少し迷う。
確かに最初は迷惑だと思った。
しかし、今も毎日届けられる花を見ているうちに、
当初ミュラーに対して感じていた怒りや苛立ちといった感情は
もはやフレデリカの心に存在していなかった。
ドレスと共に箱に入っていたあの便箋を見て以来、
だんだんとミュラーのことを考えることが多くなってきていて、
今日の予定について連絡してきた手紙を読んでからは
「閣下は今頃フェザーンを発たれたはずね…」
「手紙に何も書いてなかったけど服は何を着ていけばいいのかしら…」
と届けられた花を見ながら今日がくるのをずっと待っていたのだ。
ミュラーの質問に「はい」か「いいえ」かで答えなければならないとすれば、
そこから導き出される答えはおのずと1つしかなかった。
フレデリカは首を横に振った。
「あのことも…いえ、あれは完全に私に否があります。
自分の理性で衝動を抑えることができなくて、
あなたにつらい思いをさせてしまった…」
ミュラーは勢いをつけて密着していた身体を離し、手を繋いだままポーズを取った。
少し汗をかいてきたのだろう、再び近づけられたミュラーの身体から
懐かしい香りが立ち上ってきたのを感じ、フレデリカの意識は混乱しそうになるが、
今自分と踊っているのはミュラーなのだと心に言い聞かせた。
「あの時はあなたにそんなことを伝えてしまっていいのか
自分でもいくらか悩みながら申し上げました。
しかし、あの日から今日までお会いできなかった間に
あなたのことを考えているうちに、あの時申し上げた気持ちは
偽りではなかったことが自分でもよく分かりました。
ですから、今ならはっきりと申し上げることができます。
フラウ・ヤン、私は…」
そのとき、ちょうど天井のスピーカーから流れていた曲が終わった。
互いに一礼して次の曲がかかるのをしばし待つ。
前奏が聞こえ、踊る前の挨拶をしてポーズを取る。
ステップを踏み出そうとしたミュラーは、
フレデリカの身体がその場から動かないことに気づいた。
「フラウ・ヤン?」
「…………」
「踊るのが疲れましたか、フラウ・ヤン?」
「……………」
「どうかなさいましたか?」
声を掛けても返事がないことを不審に思ったミュラーは、
少し身体を離してフレデリカの顔を覗き込む。
「………!」
次の瞬間フレデリカの様子に慌てだした。
「人目につかない場所で少し休みましょう」
そう言ってフレデリカの顔を身体で隠すように寄り添い、
ホールから連れ出した。
フレデリカはその場に立ち尽くしたまま、泣いていたのだ。