午前10時、絶好のデート日和。  
玄関を出ようとした所で姉さんに見つかり、にやにやと居心地悪い笑みを浮かべられた。  
 
「正樹もお年頃って奴か? 隅に置けないね。まぁ頑張ってきなよ」  
 
 なんてとどめを刺されたら、嫌でも顔が熱くなる。  
あぁ、言われなくても頑張るよ。今日のために慣れないアイロンと格闘して、ハンカチを  
綺麗にプレスまでしたさ!  
 言葉にはせず精一杯の睨みで反撃すると、プハーっと笑いが炸裂する音が突き刺さった。  
弟のデートに対する意気込みが、そんなに面白いのかね。  
……面白いんだろうな、この人は。  
こっそり溜息を吐いてドアを開けると、うららかな陽光が身体に降り注ぐ。  
 
 正直に白状すると、あの日の別れ際が後を引いて電話をすることすら労力を必要とした。  
一体何を言えばいいのか。謝るのは違う気がするし、さりとてなかったことのように振舞うのも失礼だし。  
みっともない逡巡の末、指が彼女のナンバーを最後まで押し切るまでに一週間かかった。  
そんなびくびくした状態で、彼女の言葉を待った訳だが。  
 
「何かあったの?」  
「今度の土曜日? 特に予定はないわ」  
「判った。土曜日の11時にあの公園へ行けばいいのね」  
「……? まだ何かあるの?」  
 
……終始こんな調子だった。  
 僕、別に嫌われてはないよな? あの時のことを怒ってる、でもないんだよな!?  
更に思考の迷路を彷徨うはめになって。  
 それでも日常って奴は容赦なく襲ってくるし、やるべきことは山とある。  
お陰でここ数日どれ程やらかしたかは……まぁ、敢えて目をつむらせて欲しい。  
あの意地悪い姉にからかうネタを提供してしまったのか、唯一、本当に痛恨だ。  
 
 ポケットに手を突っ込んで足早に歩く。  
閑静な住宅街を抜けて駅に近づく程に、通り行く人が増えて活気に満ちてきた。  
 バスに乗って終点に着けば、あの公園だ。  
僕は小さく気合を入れ、まばらに並ぶ停留所へと向かった。  
 
 景色が流れる。  
窓からの日差しにうとうとしながら、ぼんやりと外を眺めていた。  
まだまだ風は冷たいが、こうしていると春が来たんだなぁと実感する。  
僕にもこの間から変てこな春が来てるけど、何となく手放しで喜べない。  
 
 彼女は、今まで会ったどんな人とも違う。  
素っ気ない物腰や時折見せる憂いを帯びた眼差し。かと思えば、些細なことで綻ぶ笑顔。  
女心と秋の空、なんて言葉があるけれど、春の空だって充分理解不能だ。  
そんな寒暖激しい彼女に参って、風邪を引いた僕はいわゆる"浮かれバカ"って奴か。  
 頭に浮かんだ喩えに苦笑して脱力する。目を閉じれば、思い出すのは彼女の言葉。  
物静かな、言葉少ない彼女だからこそ、ただの一言がとても重い。  
正樹と名を呼ぶ響きに、いろんな想いが見え隠れする――そう感じるのは、気のせいではない筈。  
 
「……だから、どうだって言うんだよ……」  
 
 彼女に会うのが、楽しみなのに怖い。嬉しいのに、逃げたい。  
普通デートって言ったら、もっとこう、はしゃぐ感じじゃないのか。  
 窓にごつんと額をぶつけると、車内アナウンスが終着の公園を告げた。  
 
 
 
 バスから吐き出されると、春風が一陣身体に纏い駆けていった。  
風が強いせいか、結構寒い。ビルと海に囲まれた場所だから仕方ないのか。  
首をすくめ腕時計を見ると、時刻は約束の10分前。  
これは待ち合わせをしたらすぐにショッピングモールなりへ暖まりに行った方がいいかな、と  
今日のデートプランを頭の中で修正する。  
ゲームセンターは……織機、そういうのに興味なさそうだなぁ。  
適当にお店でもはしごして、お腹が空いたら何処かへ入るなり買い込んだりして……  
   
 ぶつぶつと呟きながら目的の時計塔へと歩いていく。  
煉瓦と青銅をあしらったクラシカルなそれが見えてくると同時に、麓で佇む春色のワンピースがひとつ。  
 
「――――――っ」  
 
 僕は、不覚にも、言葉を失った。  
 
 淡いクリーム色の裾が、時折はためいては彼女の眉根を寄せさせる。  
そんなスカートを押さえ髪を掻き上げる仕草に、僕はぽかんと見惚れていた。  
 
「ん…………。あ、正樹?」  
 
 彼女が気付いて僕の方へと駆けてくる。  
間近に迫る彼女の眼差しが不審に曇るまで、僕は全く身動き出来なかった。  
 
「……どうかした?」  
「う……あっ、ああ、何でもないよっ。織機早いな。結構待った?」  
「別に。一時間位だから」  
「そっか……ってええ!? 何でそんな、ごめん時間間違えてた!?」  
「土曜日の、11時に、この公園、よね」  
「あ、うん……言ってくれたら良かったのに。もっと早く来たよ」  
「私が来たかっただけだし、気にしないで」  
 
 何だか早くも、ぎくしゃくして変な汗が流れる。  
いや、だって、反則だろ。そんな長いこと待たせてたなんて思いもよらなかったし、  
何より彼女の姿が、その、ねえ?  
 横目でちらりと窺うと、風で髪が舞い上がり透けるようなうなじが視界に飛び込んだ。  
彼女が可愛いのは、もう充分に解ってるから! 頼むからこれ以上煽んないでくれよ!  
思わず釘付けになりそうな視線を引き剥がして、溜息をひとつ空に放る。  
   
 あぁ空は高く澄み切って、辺りはのどかな空気が緩やかに流れてるのに。  
どうして僕は、真っ昼間からはしたなく盛ってんのかなあ、もう!  
 
「まぁいいや。……織機、ワンピース……その、可愛いね」  
「っ…………ありがとう」  
「前のもほら、ふわふわしてて良かったけど、今日のはすごく、似合ってる」  
「………………」  
 
 本音を厳重にオブラートに包んで告げると、彼女は一気に頬を染めた。  
そんなに照れられるとこっちも恥ずかしいっていうか、うわ――っ助けてくれ!!  
 
 先行き不安なデートは、こうして兎にも角にも賽は投げられた。  
 
 芝生と花壇を眺めながら、ふたりで歩く。  
やたらと広くて海も望めるここを選んだのは、悩みきった末の定番頼りだ。  
何でもTVやら雑誌やらに頻繁に紹介される程の"デートスポット"って奴らしい。  
確かに周りは家族連れやカップルが溢れ、お弁当を食べたり語らっていたり。  
そこを人懐こい鳩がご相伴に預かろうと襲撃してきたりと、本当にいかにもな光景だ。  
 
 ゆっくりと歩を進めながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす。  
風が強いね、と呟けばでも気持ちいいわ、と答えが返った。  
あんなに鳩がたかって、あの人達お弁当大丈夫かな?  
さあ? でもだからここの鳩、妙に色艶がいいのかしら。  
 他愛ない会話が、心に染み入っていった。  
 
 どうなることかと心配だったけど、どうにか形になってる、気がする。  
海風をはらむジャケットを抑えるついでに、意を決して彼女の手を握る。  
振り向きざまに、彼女の髪が頬を打つ。驚く顔が、僕の脈拍を冗談のように押し上げた。  
 
「えっと……駄目、かな」  
「…………ううん」  
「……あっ、そうだっ! お腹空いてない? あっちに色々お店が出てるから見てみようよ」  
「……うん」  
 
 ごまかすように駆け出すと、彼女もはにかんだ笑みを浮かべて手を握り返した。  
思ったより小さな手が、僕の指と絡んでしっかりと繋がってる。  
声が震えそうになるのはご愛嬌だ。だってこんな細やかなことが、やっぱりとっても嬉しいんだから。  
 僕らが向かう先に、幾つかの屋台が賑わいを見せていた。  
遠くまで漂ってくるバターとソースの香りが、空腹感を力一杯連れてくる。  
息せき切って辿り着くと、お互いに顔を見合わせた。  
 
「あはは……走ったら、余計にお腹空いたね」  
「そうかしら? ……うん、そうかもね」  
 
 繋いだ手はそのままに、僕らはくすぐったい気持ちを笑みに変えた。  
 
 焼きそば、サンドウィッチ、お弁当。ポップコーンに、何故かアイスクリーム。  
物色していると美味しそうな物があり、うわっとなる物もあり、なかなかに楽しい。  
 
「ん――、どうしようか? 何か嫌いな物とかある?」  
「大丈夫。正樹は何にするの?」  
「そうだなぁ……さっきからあのソースの匂いが僕を呼んでる気がするんだよな」  
「じゃ、焼きそばは決定ね」  
「あとは無難にサンドウィッチあたりどうだろ。あ、寒いからアイスはなしの方向でひとつ」  
「……ポップコーンも、追加いい?」  
「うん、じゃ買ってくるよ」  
 
 名残惜しく指を解くと、彼女の顔が一瞬残念そうに拗ねて見えた。  
いや、気のせいかも知れないけどね! でも僕を舞い上げるには充分なことで。  
思わずにやける頬を叩きつつ列に並ぶ。傍から見たら怪しいくらい浮かれてんだろうな、僕。  
   
 焼きそばにサンドウィッチは順調に購入出来たが、ポップコーンは在庫切れで暫く待たされた。  
様子を見に来た織機にあと10分くらいと告げると、持つから貸してと戦果品を取り上げられた。  
 ふたりでぽんぽん弾けるポップコーンを眺めていたら、横から近付く緑のピエロ。  
妙に友好的な態度でほらほら、と隣の屋台を指差している。  
 
「…………何ですか?」  
「そんな何処でも食べられる物よりもほら! ここのアイスは絶品逸品、食べればたちまち  
 幸せになれる素敵な魔法だよ!」  
「………………」  
「……あの、悪いんですが、今日は寒いんで遠慮します」  
「残念だなー。ま、しょうがないか。今度来た時は絶対食べてね!」  
 
 心底残念そうに肩を落として屋台に引っ込んでくピエロ。  
この温度じゃいくら晴れてても、買ってく人なんていないんだろうなぁ。  
そんなピエロに何か思う所があるのか、彼女はじっと物言わず見つめていた。  
 
 ようやく出来上がったポップコーンを手に、元来た道を戻っていく。  
あ、と彼女が駆け寄って僕の手を躊躇いがちに取り、またしっかりと繋ぎ直した。  
 
 大きな樫の木の下のベンチへ腰を下ろす。  
彼女から割り箸を受け取って焼きそばのパックを開くと、足元に忍び寄るグレイの伏兵達。  
 こいつら何時の間に! だんっと足を踏み鳴らして牽制しても、すぐにまたにじり寄ってくる。  
痺れを切らした特攻隊長が、あろうことか織機の靴に頭突きをかましてるのを見て焦った。  
 
「何だこいつら! さっきあんだけ他の人にたかってたくせに!」  
「正樹……何か、足がくすぐったい」  
「くっ……鳩の分際で生意気な!」  
「…………正樹?」  
 
 我が物顔でのさばる奴らに再度牽制の蹴りを入れ、素早く掴み取ったのはポップコーン。  
うりゃ、と遠くへ放ると素晴らしいスピードで退却(正しくは攻撃目標を変更)していった。  
改めて焼きそばに向き合うと、引き気味の彼女の視線とぶつかる。  
 
「ねえ……正樹」  
「ん? ほら今のうちに食べよう!」  
「それ、あまり効果がないというか、逆効果じゃない?」  
「? 何で?」  
「だってほら……」  
 
 彼女の指差す先は、何処か殺気立った灰色の鳥山。  
それが心なしか徐々に小さくなっているような……そしてはぐれた山の行く先は。  
 
「っ……嘘だろ……!?」  
「さっきよりも、増えてるわね」  
「うわっ、寄るな来るなあっち行け――っ!」  
 
 僕は身を挺して食糧を守った。そりゃあもう必死に。  
お陰で被害は大したことにならなかったけど、彼女の視線が更に冷えたような、気がした。  
 くそっ、鳩なんか嫌いだ。ピースメーカーなんてご立派な二つ名の癖に、どうしてああも獰猛なんだよ!?  
僕の心の叫びは、彼女のクールな一瞥で華麗に流されていった。  
 
 満身創痍で食事を終えて。  
静かになったベンチで僕はぐったりと背もたれに倒れた。  
風が髪を撫で、気だるいまどろみを運んでくる。相変わらず手は繋いだまま、時間が優しく過ぎていった。  
 
 今なら言えるだろうか。あの時のこと、そして自分の気持ちを。  
ぐっと手に力を入れると、彼女がゆっくりと振り向いた。  
 
「あのさ……織機」  
「何?」  
「その、今更なんだけど、言わなきゃって思うことがあって」  
「………………」  
「織機……僕は……」  
 
 情けないけど緊張する。ふう、と意識的に深呼吸をして彼女を真っ直ぐに見つめた。  
 
 
――ずしゃっ。  
「ふぇっ、…………ぅぁああああああああん!」  
 
 突如耳をつんざく泣き声に、男の一大決心はぽっきりと折れた。  
何事かと見れば、5歳くらいの女の子が顔面から盛大に転んでいる。  
その横をふわりと過ぎていくのはピンク色の風船。  
 ここは――――  
 
 
 
   1. 風船を追いかける  
 
   2. 子供に手を差し伸べる  
 
 

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