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その間もチャットルームでの会話は続けていたが、彼はそのあとは一切そのことについて触れなかった。
あくまでも私に任せるつもりのようだった。
そうして、私は約束の時間の10分前にはラウンジで紅茶を飲んでいた。
見ないふりをしながら彼を探していた。
彼氏は幸いにも仕事だった・・。
11時少し廻ったころに男性が一人、入ってくる。
私は「彼だ!」と直感した。
彼は思っていた以上に、身なりのよい、男性であった。
もちろん表面上とも取れるが、観察していると立ち振る舞いも洗練されている。
おそらくきちんとした社会生活を行っている人のようだった。
一方私はといえば、仕事をはじめて5年目の、ただのしがないOL。
見た目のごく普通の細くも太くもない程度、顔は十人並み。
彼氏はいるものの、結婚とかそういう話はまだ、ない。
それどころか彼が忙しすぎて会うことすら少なくなってきていた。
行かなければ、彼は私を見限るだろう。そう思ってぎりぎりまでこのホテルへ足を運ぶのを迷った。
結局好奇心が勝ち、やってきてしまったが。
幸か不幸か、私は彼に自分の人相のすべてを話していなかったから、彼は私をわからない。
私は彼から身なりを聞いていたので、おそらくはそうだろうというめぼしがつけられたのだ。
・・・思っていたより素敵な人だな・・・・
私の第一印象はこれだった。
仮想空間での出会いなぞ、そんなにいいものではないと思っていた私の感覚を覆すもの。
たかが、コーヒーを飲む仕草ですら、周りの女性たちの目をちらちらと引いている。
大人の男性の雰囲気を持っていた。
直接話をしたい、という思いはありながらも、実行してはいけないと頭の中で警笛がなる。
彼氏を失いたくないのなら、このままレシートを持ってラウンジを出るほうがいい。
理性ではわかっている。
でも、まだ、もう少し彼を見ていたい。
彼が、あの世界での彼のせりふ。
私を夢中にさせたあの会話。
あらためて,見れば、彼とあの世界が重なる。
だめだ・・・・
これ以上見ていたら、彼のもとへ歩いていってしまいそう・・・。
私は、残った理性で、テーブルにある紙片に手を伸ばした。
・・帰ろう・・・帰る方がいい・・・
席を立ち、傍らのコートを抱える。
わからない、何か、熱が回った身体にコートは熱かったから。
最後の、未練で彼の横を通り過ぎる。
ほのかに香る、ブルガリの香り。
その香りだけで、私は十分だった・・・・。
もう、あの世界へ行くのはやめよう、私には彼氏がいるのだから・・・。
チェックを済ませていると、彼が同じようにやってきた。
・・もう、待たないのね・・・
それもそうだろう、もう時間は12時を過ぎた。
お昼でも、食べに行くのだろう。
心の中で詫びた。
ごめんなさい・・・。私には貴方に会うことは出来ない。
私は清算を済ませると、エレベーターホールへ向った。
ぽーんと到着を告げる音がした、私は開いたドアに吸い込まれる。
ロビーのボタンを押すと、後ろからもう一人乗ってきたのがわかった。
男性の腕が階層ボタンを押す。
そこからかすかに先ほどと同じものが香る・・・・・。
・・・・彼がいる・・・・・
私はもう顔を上げることが出来なかった。彼の押した階に着くまで、息が止まりそうなほど心臓を高鳴らせた。
ほんのわずかな時間が、永遠にも感じられた。
階層表示ボタンのランプが一つ消えた。ドアが開く。
彼がおりる瞬間、私の肩が抱かれ、気が付くと、エレベーターから降ろされていた・・・・。
「・・・・?・・・」
「君・・だね?」
初めて聞く彼の声は低めで、柔らかい。それでいて有無を言わせない声だった。
「あ・・あの・・・」
私はうろたえた。
なぜ・・・?疑問符だけが浮かび上がる。
私は彼に、すべて話していない、彼は私を見つけられないはず・・・・・。
「やっぱり・・・」
彼は安堵したように、言葉を発した。
「え・・?・・」
「貴方じゃないかと思ったけど、確証が取れなかった。・・・でも今の反応は・・・そうだね?」
もう、否定が出来なかった。
「・・・は・・・い・・・」
彼は、やさしく笑うと、
「おいで・・・・」
と誘った。 |