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夏彦はぼんやりとゆりの背中を眺めていた。
バスルームに入る彼女の姿を。
その後に聞こえてきた水音。
心地よいそれに眠りに連れて行かれる。
次に眼を開けたのは、外から淡く陽の光が差し込み始めた頃だった−
「ゆり?」
昨夜腕に抱いて寝たはずの彼女を探す。
それほど広くない部屋を見渡すが、その姿はどこにも無かった。
やわらかく身体を覆っていたリネンをはがすとバスルームのドアを小さくノックする。
「いる?」
返事は−無かった。
そっとドアを開けてみるも、姿は無い。
そして良く見ると部屋に彼女の痕跡も無かった。
否−
メモ。
たった一言書かれた、言葉。
「さようなら」
名前も、なにもない。
ただその一言だけ。
そこに込められた想い。
夏彦はそのメモをじっと見つめ、手に取り窓辺へと向かう。
眼下には昨夜彼女を見つめた街が、朝の気配を作り始めている。
その景色と、手の中のメモを交互に見つめる。
ふと手の中のその文字を瞳に焼き付ける。
四つ折にたたむとその端にマッチで火をつけると灰皿の上で燃え尽きるのを眺めた。
小さな紙切れは灰となり、その中に溜まる。
−これが結果だ。
開きそこなった鍵は無理やりに一度こじ開けても、その後二度とは開かない。
そんなことは今までの経験で分かってきたはず。
それでも一縷の望みをかけて、その手に持っていた鍵で開けた箱。
中に入っていたのは追憶という名前の、過去。
思い出という名前の形のない、もの。
開かない鍵。
壊れた箱。
巻き戻らない時間。
全ては自分が彼女のためにと望んだ結果の結末。
傷つくのが怖くて。
彼女の全てを負うことは出来たのかもしれないけれど。
それは彼女の為ではないと、自分で決めたことだから。
こうなったとしても−
もしあの時に戻れたならば−
そう考えれば考えるほど、そのときはそれが精一杯だったと知っているから。
煙はこのまま彼女の住むこの街に溶けて、消えて。
そうして自分も、彼女の中から消えていくことを望む。
であった過去は間違いではなかったから。
だから−
本当は知っていたのだ。
彼女の何かが変わっていくことを。
それでも、あの頃の彼女にもう一度逢いたかったから−
一度きりと決めていたならば、その気持ちに寄り添おう。
忘れない−でも
思い出すことは、ない。
壊れた箱も使えない鍵も、全てここにおいていく。
二人が出会ったことが、互いのためだったから。
別な道を選んだ、結末、そして終わり。 |