智明が三毅を堕とそうと色々する話(8)

 7日目は、いつも以上に遅くに起きた。
 今日はもう何もしないと決めていたので、智明は特に何を思案するでもなく、しばらくぼんやりとした寝起きの頭のままでいた。
 そんなだらだら時間を過ごした後、智明は溝口を呼んでいくつか用事を言いつけてから、腰を上げて物置へ向かった。
「よう。三毅」
 久しぶりに三毅という名前で呼んだ気がした。それは三毅にとっても同じことだろうと智明は思う。
 少し不思議そうな、安堵したような、まだ疑っているような……何とも言えない表情で智明を見る。
「一週間経ったな。今日で終わりって約束だったろ。解放してやるよ」
 そう告げると、控えさせていた溝口に三毅の拘束を解かせる。ついでに持ってこさせておいた三毅が元々着ていた服を放り投げる。
「着替えたら帰っていい。必要なら車で送らせてやるけど」
「……いらねぇ」
「あ、そう。ならいいや」
 何となく気まずい、しっくりしない空気が流れる。
「俺はちゃんと、言ったことは守るぞ。もう、藤堂に女装させて二人で渋谷に出かけたりはしない。渋谷だけじゃなくて外出自体しないって約束してやるよ」
「……そうかよ」
 三毅の返事は気のない感じだった。もうそんなことはどうだっていい、といった雰囲気だった。
 それも当然か、と智明は思う。現に智明自身も、この当初の約束のことを思い出したのはつい先刻だった。
 三毅が着替え終えたようなので、智明は溝口に声を掛けた。
「門まで送ってやって。俺は行かないから」
「かしこまりました」
 これだけでその日は、あっさりと終わった。


 何事もなかったかのように数か月の月日が経過していった。
 ある日、智明は部屋で一人で新聞を読んでいた。
 この習慣はまだ辛うじて続いていたが、政治や経済や社会面は斜め読みであることは相変わらずだった。
 そして、割とじっくり読んでいるスポーツ面の見出しに、再び藤堂三毅の名前を発見する。
「引退……?」
 それはプロボクサー藤堂三毅が現役引退を表明したことを伝える記事だった。
 何やらごちゃごちゃと文が綴ってあり、智明はその記事全文を三往復ほどしてみたが、要するに引退の理由はよくわからない、としか書いていなかった。わかったのは、近頃ずっと調子が悪かったのは確かだが大きな怪我や病気ではないらしいということくらいだった。
 まさか自分のやったことが原因なんだろうか、と智明は思う。
 この数か月間、無論藤堂や他の執事達も含めて、本当に今まで通りに過ごしてきたので、三毅のいた一週間の記憶は薄れつつあったのだが、確かボクシングやめろとかそんな暴言を吐いたような覚えはある。
「いや、まさかな……関係ないよなぁ」
 でも、何か居心地の悪いようなすっきりしない気持ちになる。
 それから数日、新聞だけではなくインターネット等でも続報がないかと探してみたりしたのだが、これといって有力な理由がわかることのないまま、三毅の引退のニュースは世間から忘れ去られていった。
 智明は、藤堂にその話を振ってみることにした。触れないでおこうかとも思ったのだが、どうしてもモヤモヤして、言ってみずにはいられなかった。
「藤堂、知ってるか? 引退したんだってな。藤堂三毅」
「えっ? へぇ、そうなんすか」
 藤堂の反応は、智明が予想した以上に淡白で、むしろ本当はもっと冷たい反応をしたいところを「ご主人様がわざわざ話題を振ってくださったのだからきちんと答えておこう」と明るく返した、というような雰囲気でさえあった。
「あ、うん、何かそうらしいぞ」
 智明はやや面食らったが、そういえばこれが自分の望んでいたことではなかったかと思い返して、自分から三毅の話をしたことを少し後悔したのだった。


 それから更に何日か後の、朝早くのことである。
 智明が自室で熟睡していると、ゆっくり二回、ドアがノックされた。
「ん……? 何、誰ー?」
 不機嫌な声でノックに応えると、小さな返事が聞こえてくる。
「ご主人様……。いちのせ、です……」
「一ノ瀬……? どうした? まあいいや、入れよ」
 一ノ瀬が早朝に起きていることそのものは普通のことだが、朝から智明を訪ねてくること等今までになかったので驚いた。
「何かあったのか?」
「あの……たまたま、気が付いたんです、けど……亜毅がいます……」
 智明の中で一ノ瀬の言う「あき」が「亜毅」と即座に変換されず、何を言っているのかわからなかった。
「え? 秋がなんだって?」
「亜毅です……あの、門のところに…いました……」
「あき…あぁ、藤堂のことか? え、今は夜警はしてないはずだろ? 何してんだ、あいつ」
 一ノ瀬の要領を得ない話を何とか噛み砕こうとしていると、一ノ瀬は静かにかぶりを振った。
「違う……藤堂じゃ、ない……門にいるのは…亜毅です……」
 そこで智明はようやく、一ノ瀬が何を言わんとしているのか、亜毅とは誰のことを指しているのか、理解した。
 この屋敷の正門のところに藤堂三毅がいる。一ノ瀬はそう言っている。
「一ノ瀬、それ、本当か? あいつと何か話したのか?」
「少しだけ……あの、ご主人様を、呼んでくれと……言われ、ました……」
「わかった。ご苦労さん、一ノ瀬。戻っていいぞ」
 誰かを連れて行こうかとも頭の片隅で思ったのだが、智明の足は勝手に一人で門に向かって動き出していた。
 屋敷から出るまでは、早足で。外に出てからは、半ば駆け足で。
「……マジでいるし」
 藤堂三毅は、神代邸の正門の前に一人で立っていた。


 数十分後。
「藤堂、いるか?」
「はい、いるっすよ! ご主人様、何かご用っすか?」
 智明は藤堂に明るく部屋に迎え入れられると、単刀直入に「ご用」について語り始める。
「お前にプレゼントがあるんだけどさ……受け取ってもらえるかな」
「ええっ!? ほんとっすか? それはもちろん、ご主人様からいただけるものなら、何だって喜んで受け取るっすよ!」
 一気に嬉しそうな顔になる藤堂を見ると、智明もつられて笑いそうになった。
「本当にそうか? ちょっとデカいからさ。置いておくには邪魔かもしれないぜ」
「本当に本当っす! 自分の部屋ならいくらでも片付けたり、家具を隅によけたりとか出来るっす!」
「そっか。まあ部屋は余ってるし、何も藤堂の部屋に置く必要もないんだけどな!」
 智明は一旦藤堂の部屋から出ると、廊下で待機していた「プレゼント」を部屋の中に引っ張り込んだ。
「へっ!?」
 その全形を目にした藤堂は、素っ頓狂な声を上げる。
「いらないなら受け取らなくてもいいんだけどさ、お前にプレゼント。藤堂三毅だ」
 三毅はむずむずと照れているような様子で、俯き加減だった。
 藤堂はただただ驚いて、智明と三毅を交互に見ている。
「言っとくけど、無理やり連れてきたとかじゃないぞ? 三毅は自分から来たんだ。ここに置いてほしいんだと。でも、俺には藤堂がいるからさ。藤堂がいたら充分だから、こんなの要らないんだよ。だから藤堂にあげようと思ったんだ」
「ご主人様……」
「まあ例えばさ、俺がもし、お前のあのトレーニングマシン使いたいって言ったら、いつでもすぐ貸してくれるだろ? それと同じようなことだよ。藤堂は俺の物で、三毅はお前の物にする」
 そう言い切ると、藤堂が考え込み始めたので、黙って待つことにした。
 長いようで短い沈黙の後、藤堂は胸に手を当てて呼吸を整えるような息を一つ吐き、智明に向かって答えた。
「わかったっす。自分、最初に言ったことに嘘はないっす。ご主人様からの贈り物なら、何だって嬉しいです」
 その返答に、智明はとても満足した。
 その時の気持ちは、靄がかかっていたのが晴れたと言おうか、それともバラバラにしたブロックを自分の好きな形に出来たとでも言おうか。
「そうか。じゃあ、はいこれ。どうぞ」
 三毅の両肩を持って、押し出すように藤堂に差し出してやる。
 手を離すと、三毅は自ら半歩前へ行く。
 藤堂は穏やかな微笑みを浮かべていた。それが、智明からプレゼントをもらうことへの喜びのみによるものなのかどうか、智明には判断しかねたが、多分何パーセントかは違うのだろうなと思う。
 それを嫌だとは全く思わない。
 智明は、藤堂が毎日使っているトレーニングマシンには別段嫉妬していない。そういうことだ。
「素敵なプレゼント、ありがとうございます。ご主人様」
「あぁ。大事に使ってくれ」
 藤堂はそれは嬉しそうに、愛おしそうに三毅を見つめていた。そして限りなく優しい声で、こう言った。
「よろしく。三毅」


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