『堕天の恋』



「オレさぁ、温泉行きたいんだよね」
「あぁ、いいねぇ、温泉」


 浅倉にしてみれば、他愛の無い会話のうちのひとつだっ
た。まさか本当に黒田が誘ってくるとは思いもしなかったの
である。そしてその誘いに対して、目まぐるしいスケジュー
ルをいそいそと変更している自分がいることも、あの時は
思ってもいなかったのだった。
「本気だって思わなかった」
 車の中でそう言うと、黒田は少し首を傾げた。
「温泉。行きたいなーって言うだけかと思った」
「最初は言ってみただけだったけどね。なんか本当に行き
 たくなったんだよ、大ちゃんと」
「……ボクと?」
「そう。だってプライベートで旅行とかって、今までなかった
 じゃん?」
 確かに、一緒にいろんなとこに行った。国内から海外まで
様々だ。しかしそれらはどれもが仕事絡みで、傍には必ず
女王様がいたのだ。
「そういえばアベちゃんが、近いうちに黒田くんに電話して
 みようかしらー?とか云ってたよ」
「………」
 安部と同じ仕事をしなくなって数年。それでもやはり未だ
に怖い存在なのは変わらない。彼女は浅倉の小姑のよう
なものだから。……なんて考えているとバレたら、きっともっ
と怖い目に遭うだろうが。
「でも、どこまで行くの?」
 車はもう随分都内から離れた。まだ陽の高いうちに出か
けたのに、すでに空は赤みを増している。家屋も減り、木々
が辺りを包み始めていた。
「もうすぐ着くはず……あ、見えた見えた」
 そう言って黒田が指差した先には、山の中にひっそりと、
しかし荘厳に佇む広い旅館だった。車を駐車場に入れると
品の良さそうな女将が2人を出迎えてくれる。まるで現実か
ら遠ざかったかのような錯覚。
「大ちゃん?どうしたの?」
 呆然としたような表情の浅倉をひょいとのぞきこむ。
「いや……テレビか何かに出てきそうだなあと思って」
「確かにね。でも、忙しい毎日を送ってるとさ、こういう場所
 がいいよね。ゆっくり時間が流れてて」
 そう言って黒田はにっこりと笑った。世間的にメジャーな
温泉郷ではなくこういった1軒屋を選んだのは、もしかした
ら彼なりの思いやりだったのかもしれない。
 2人の部屋は本館から細い渡り廊下で繋がれた広い離
れだった。部屋には小さいながら専用の露天風呂までつ
いている。
「すごいね、ここ」
「ね。オレもこんなすごいとは思わなかった」
「よくこんなとこ見つけたよね」
 浅倉の言葉に黒田は少し苦笑のような笑顔を浮かべた。
それを見て浅倉は少し眉をひそめる。
「誰に教えてもらったの?」
「え?友達」
「男?女?」
「えっ?ただの友達だよ」
「ふーん……」
 じとーと見つめられて黒田は視線を逸らせる。
「まぁいいけど。こういう情報に詳しい人っているよね」
「そうなんだよね。オレもいつも感心してる」
「きっと旅慣れしてるんだろうね、その女の人」
「そうだね。……あ」
 話の流れに乗せられた黒田は口を押さえたが、もう遅い。
浅倉の眉はますます顰められていく。
「ちが、違うよ!本当に友達だって!」
「……別に言い訳してほしくないもん」
「言い訳じゃないよ!ちゃんとダンナも子供もいるんだか
 ら!」
 ぱたぱたと忙しなく手を振りながら言う黒田に浅倉は視
線を落とした。
「仕方ないよね、ボクたち、頻繁に会えないんだし。浮気
 のひとつやふたつ、仕方ないよ……」
「浮気じゃないって!」
 黒田は悲鳴のようにそう言って、浅倉の体をぎゅうっと
抱き締めた。
「オレには大ちゃんだけだよ。大ちゃんしか好きじゃない」
 訴えるように言う黒田の腕の中で浅倉はゆっくりと目を
閉じた。そしてくすっと笑いを漏らす。
「なに焦ってんの?ばーか」
「だ、大ちゃん?」
「ちゃんと信じてるよ。からかってみただけ」
 くすくすと笑い続ける浅倉に、黒田はがっくりと肩を落と
した。
「もー、カンベンしてよ……」
「焦ってる黒田、けっこー可愛かった」
 本当にこの人には敵わない。黒田は深々とため息をつ
いたのだった。

 テーブルいっぱいに並べられた料理を食べ、少しだけお
酒を飲んで、そんなゆっくりとした時間が心地良い。そして
夜も更けた頃。
「大ちゃん、露天風呂行こうよ」
 その言葉に浅倉はきょとんと首を傾げた。
「ここにあるんでしょ?」
「じゃなくて、ちょっと歩けば大きいのがあるらしいよ」
 せっかくだし、という黒田に浅倉も頷いて立ち上がった。
 離れとは本館と挟んだ対角にその露天風呂はあった。時
間が遅いからか、どうやら貸切状態で入れそうだった。脱衣
所で嬉々として服を脱ぎ捨てた黒田は中に入って歓声をあ
げている。
「恥ずかしい奴……」
 きちんと服をたたみながら、浅倉は今貸切なことを感謝し
た。連れだとは思われたくない。
「大ちゃん、ここすげーよ」
 黒田が顔だけ脱衣所にのぞかせて笑うと、またすぐに中
に戻っていく。その子供のような姿に浅倉は呆れたような
笑みを浮かべた。そして黒田の後を追って中に入り、思わ
ず絶句する。組んだ竹で覆われたそこは予想以上の広さ
で、湯気立つ湯船にはぽっかり月が浮かんでいた。
「すごいね」
「ね、広いし綺麗だし。サイコウだよ」
 湯温はぬるめだった。そのおかげで、いつもはシャワーで
すませることが多い浅倉もゆっくりと浸かる。日頃の疲れを
体の中から追い出すように、湯船の中で大きく手足を伸ば
す。ごつごつした岩に背中を預けて空を見上げると、東京で
は絶対に見れないような満天の星と大きな月。周りには虫
と風の音しか存在しない。秒刻みで動く日常から切り離され
た空間がすみずみまで染み渡るようだった。
「気持ちいーね……」
 ぽつりと囁かれた言葉に黒田は頷いて浅倉を振り返り、そ
して思わずドキリとした。目を閉じて幸せそうに天を仰ぐ姿が
湯気に煙り、匂い立つような色香に包まれていたからだ。し
ばらくその表情に見惚れ、そして誘うかのように曝け出され
た白い喉元にそっと唇を寄せる。
「もぉ、なに?」
 その行為をふざけているのだと思った浅倉は笑いながら身
を捩った。そんな浅倉に黒田は軽いキスを落とす。
「くすぐったいよ」
 戯れのようなキスを繰り返す黒田を浅倉は受け入れていた
が、それが本気のものに変わっていくことに気づいて慌てて
その肩を押さえる。
「ちょっと、なにやってんの、こんなとこでっ」
「大ちゃんが色っぽいからさ」
「バカ言ってないで離れてよっ。誰か入ってきたら……」
 言葉の抗議は唇に飲まれる。先を予感させるようなキスに
体が震える。このまま流されたい気持ちと、こんなとこでは嫌
だという気持ちの狭間で弱々しく首を振る。
「大ちゃん……」
 耳朶を噛んで囁けば、快楽に肩が揺れる。天使が地に堕ち
るまで、あと少し。
「好きだよ……」
「あ……」
 甘く可愛い声が耳に届いた次の瞬間。
「……っ?」
 黒田は一瞬我が身に起きたことが理解できなかった。突然
ものすごい力が頭上からかかったのだ。浅倉に湯の中へと沈
められたのだと気づいたのは数秒後。
「何すんだよっ」
 したたかに湯を飲んで、むせながら抗議すると浅倉は真っ赤
な顔で立ち上がった。
「ボク、上がるっ」
「ちょっ、大ちゃんっ?」
 慌てる黒田を残して浅倉はそそくさと湯船から出ていった。そ
の姿が脱衣所へ消えるのと、2人の親子が入ってくるのが同時
だった。浅倉は誰かが来る気配を感じたのだ。
「だからって沈めるか、フツー」
 ぶつぶつと文句を言いながら黒田は浅倉の後を追った。しか
しよっぽど恥ずかしかったのか、浅倉は電光石火の早業で浴
衣に着替えると、黒田を待つことなくその場からいなくなってい
たのである。








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