窓の外に広がるシュテルンビルトの街並み。
すっきりと晴れ渡った空は雲ひとつなく真っ青で、暖かい室内にいると冬だと思えない程だ。
雲ひとつなく太陽が輝く空は彼を連想させる。明るくおおらかで温かく包み込むように優しい。
朝の喧騒が聞こえてきそうな人や車の流れ、走るモノレール、すべて見慣れた景色なのに、今朝はなんとなく寂しさを感じる。
理由はわかっている。
今日、彼がこの街を去るからだ。
10年以上に渡り街を守り続けたヒーロー・ワイルドタイガーは引退し、一個人に戻った鏑木・T・虎徹は故郷に帰る。
マーベリック事件の直後、引退の意を口にしたものの、即引退とはならなかった。
気を失うほどの痛みを与えていた火傷、アンドロイドとの戦いで負った打撲や骨折、そして仲間であるヒーロー達の追跡をかわし続けた極度の疲労。
すべてが終わって安心したのか、虎徹はトランスポーターに戻ろうと足を踏み出した途端ぐらりと揺らぎ、そのまま倒れ込んだ。
地面にぶつかるギリギリのところでバーナビーが抱きとめたものの、腕の中の虎徹はふたたび気を失っていた。
娘の楓もヒーロー仲間も真っ青になったが、バーナビーは脈を確認し、待機していた救急車に連絡を取った。焦らなかったといえば嘘になるが、同じ間違いを犯し相棒に失笑されるのは嫌だったからだ。もうバディーとして活動することはなくなるとはいえ、最後くらいは頼りになる相棒と思われたい。
病院に搬送された虎徹は即手術、長期入院となり、リハビリ込みで約1月間半も病院暮らしを強いられることになった。
ワイルドタイガーの引退はアポロンメディアや司法局に受諾され、虎徹は出社することなく、ロイズが持ち込む多々の書類にサインすることによって、引退と退職が決まった。
退院して半月、会社の私物の整理を行い、有給休暇を消化しつつ引越し準備を整えた。
そして昨日。何もないがらんどうな部屋を感慨深く見回してから、虎徹は大家に鍵を渡した。
「シュテルンビルトが寂しくなりますな」
契約と更新時にしか顔を合わせたことがなかったという大家は、例の冤罪報道で住人が誰だかを知ったのだろう。ポツリとそれだけを呟き、虎徹と握手を交わした。
その様子を玄関から眺めていたバーナビーは、ようやく本当に虎徹がこの街を去るのだということを実感したのだ。
勿論引越し作業も手伝ったし、最後の夜はホテルに宿泊すると言った虎徹を強引に自宅に誘ったのはバーナビー自身だ。だが、彼がいなくなるという事実を頭でわかっていても心ではわかっていなかったのだろう。途端に寂しさや悲しみが襲いかかってきた。
バーナビーにとって虎徹は『特別』だ。
真っ暗な世界を只管走っていたバーナビーに、出口は此処だと扉を開けて教えてくれた。興味がないと無視して振り切ろうとしても、腕を取って諦めずに根気よく導いてくれた。
信頼できる相棒で友人で、父のようで兄のようで、たまにみせる子供っぽさは弟のようで。
今まで誰も立ち入ったことのないバーナビーの心の奥に棲みついてしまったのだ。
たった一年半。共にあったのはそれだけなのに、まるで半身は引き裂かれるような気がする。離れるのが辛いと心が叫ぶが、生きがいだったヒーローを辞め家族の元に帰るという虎徹を止める術も権利もバーナビーにはない。
だから最期の晩は飲み明かし馬鹿騒ぎし笑いあって、初めて虎徹がバーナビーの自宅を訪れたときのように、酒瓶と一緒に床に転がって眠った。
「バニー」
虎徹が呼ぶ声に我に返る。
バーナビーが物思いにふけっている間に、既に玄関先まで行ってしまったらしい。
彼はバーナビーと離れがたく思わないのだろうか。ただ心にあるのは娘に会える、家族と共に暮らせるという喜びだけなのだろうか。
そう思うとかなり切ない。
「バニー?」
虎徹がつけたバーナビーの愛称。最初は腹が立って堪らなかったそれは、今では虎徹にそう呼ばれないと少し寂しい気分になるくらいだ。
バーナビーの記憶操作が解けたのは、虎徹のバニー呼びが切欠だったことから、虎徹は呼び名をバーナビーに変えようと頑張っていた。なかなか慣れない虎徹に『バニー』と『バーナビー』をごちゃ混ぜにして呼ばれるうちに『もうバニーで結構です』とつい言ってしまったのはバーナビーだが、そのときの驚いたあと嬉しそうな表情を浮かべた虎徹の顔が忘れられない。
虎徹だけが呼ぶ名前。虎徹だけに呼ぶことを許した愛称。ひどくむず痒く擽ったかった。
「おーい、バニー?バーナビーさーん?」
優しく自分を呼ぶ声。毎日呼んでくれた彼はもういなくなる。
ふいに涙が滲みそうになるが、目元を擦って玄関に向かった。
「なんですか、少しは待てないんですか、これだからおじさんは」
「おじさんってなんだよ、人を待たせておいてなんだ、その言い草は!」
「おじさんはおじさんでしょ」
まるで出会った当初のような掛け合いをして、顔を見合わせて笑った。
虎徹と出会ってバーナビーはよく笑うようになった。人と一緒にいることが不快ではなくなった。
仕事仲間やヒーロー相手なら自然と、本当の自分を本当の気持ちを表せられるようになった。
ある日ふと顔を上げると、青い空が広がっていて世界は美しく、自分はひとりきりでなく周りに人がいて、皆優しく微笑んでいることに気がつく。
そんな気分だった。
それを与えてくれたのは、目の前にいるワイルドタイガー、鏑木・T・虎徹だ。
「やっぱり駅まで送って行きますよ」
「いいって。もうタクシー来てるし、大体お前、昨日ちゃんと納得しただろう?」
「・・・無理矢理納得させたんじゃないですか」
拗ねたバーナビーをみて虎徹が笑った。ドキリとするような温かい笑顔。
『顔出しヒーローのバーナビーと連れ立って駅なんか行ってみろ、俺も顔バレしてるんだ、ワイルドタイガーが街を去るってのがばれちまうじゃないか』そう言う虎徹に『変装して行きますよ。ばれるようなヘマはしません、僕を誰だと思っているんですか』と説得しようとしたが『悪いけど俺は泣くお前に列車を見送られたりしたら、お前をこの街に置いていくような気分になって絶対に泣く。大泣きする、泣き喚く。そんなみっともない姿を公衆に晒させてくれるな、綺麗にこの街を去らせてくれよ、相棒』。
泣くと、置いていく気分になるという虎徹の言葉が嬉しく、何かとんでもないことを言い出しそうになった口を噤んでしまったら、承諾されたと受け取られたのだ。
だいたい、そこまで言われたら引き下がるしかない。
「バニー」
虎徹が今まで見たことのない瞳でバーナビーを見ていた。優しく愛に満ちた琥珀色の瞳。
思わず息が止まる。
「ここでお別れだ。バニー、幸せになれよ。お前ならどんなに苦しもうと前に進んで行ける。そして行き着く先は幸せに満ちているよ」
何をいきなりこの場を仕切って別れの言葉なんか。
そう言いたかったが声が出ない。
立ちすくむバーナビーの白い頬に、褐色の手が伸びて柔らかく包み込む。
「好きだよ、バニー。愛しているよ」
虎徹の言葉の意味が脳内に届く前に、見慣れた相棒の顔が未だかつてないほど間近にあった。
一瞬唇に柔らかく温かいものが掠める。
「一応言っとくけど、ライクじゃねぇぞ?ラブだぞ?」
「・・・え?」
「お前頭働いてる?いつもの賢いお前はどこに行った?」
短い接触のあと、数歩下がって楽しげに笑う虎徹をみて、バーナビーはようやく何をされたのかを自覚した。
「えぇぇぇぇ!?」
「そんなに驚くなよ、傷つくじゃねぇか」
そう言いながらも虎徹は楽しそうだ。
「ラブ?」
「ああ」
「誰が?」
「俺が」
「誰を?」
「バニーちゃん、お前を」
「えぇぇぇぇ!?」
驚きのあまりよろけたバーナビーはそのまま尻もちをついた。
その体を伝う衝撃と痛みでクリアになった脳は、虎徹の言葉の意味を完全に理解した。
「・・・僕は貴方のことをそんな目で見たことは」
「ぷっ、わかってるって!気にすんなよ、バニー」
「・・・本当に、その・・・ぼ、僕のことを・・・好き、なんですか?」
「うん。お前のモテモテ人生の一端を飾った相棒ってのもオツだろ?」
「オツって貴方・・・」
「最後だから言っておこうと思っただけだ・・・ごめんな?」
「・・・・・・謝らないでください」
虎徹に好かれているのは嬉しい。例えそれがライクではなくラブだったとしても、自分が虎徹にそういう感情を向けていないとしても、『特別』だと言われて純粋に嬉しかった。
異性愛者のバーナビーだが、その外見から女だけでなく男に迫られることも多々ある。はっきり言って不快だった。
好かれて嬉しいなんて思ったことなど一度もなかったのに、ずっと一緒にいた虎徹にそういう目で見られていたと知っても、気持ち悪いなんて欠片も思わない。
「サンキュ」
虎徹は嬉しそうに目を細め、倒れたままのバーナビーに手を差し出した。拒絶することも躊躇うこともなく、その手を取る。
ぐいとバーナビーを引き起こしながら、虎徹はもう一度「サンキュ」と呟いた。
「じゃあな、機会があればオリエンタルタウンに遊びに来てくれよ」
小さいボストンバックを持ち、帽子を被った虎徹がニカリと笑う。
「お気をつけて」
「おう!お前もな」
玄関から出て行った虎徹は、軽く振り向きブンと大きく手を振った。
ふたりの間にあるドアがゆっくり閉じていき、お互いの姿を徐々に隠していく。
「またな」
「また」
同じ言葉を同時に発したあと、扉は完全に閉まった。
虎徹の気配が去っていく。分厚い遮音の扉の向こうだというのに、壁に透けて彼の姿が見えるようだ。
エレベーターに乗り込んで、エントランスに到着し、マンションを出た虎徹がタクシーに乗り込む。そして、バーナビーの大事で大切なバディーを乗せたタクシーが駅に向かって走り出す。
その頃になって、ようやくバーナビーの体から力が抜けた。ふたたびふらりとよろめいた。
「さすが・・・壊し屋!」
バーナビーのすべてをぶち壊し、虎徹は去っていったのだ。
性質が悪くって、可笑しくって、バーナビーは腹を抱えて笑った。
*
ふと時計を見ると針は正午近くを指している。虎徹がこの部屋を去ってから随分と時間が経っていた。
バーナビーは慌ててリビングに駆け込みTVのスイッチを入れた。
今日の正午からヒーローTVでワイルドタイガー自身による引退表明メッセージが流れるのだ。
通常ヒーローの引退はひっそりと行われる。大々的にセレモニーを行ったり、引退表明の映像をTVで流したりはしない。
ネクスト能力を駆使して犯罪者を追い、災害現場で救出活動を行うヒーローという職業は、ショービジネス化の裏に隠れてしまいがちだが相当過酷な職業である。
後遺症が残るほどの大怪我を負うこともあるし、ヒーロー制度当初は死者を出したこともあるくらいだ。
また、あまりもの過酷な状況や人の死を何度も目の当たりにして、精神を病んだりヒーローを続ける意思を失ったりする者もいる。
そんなヒーロー達は引退を余儀なくされるが『ヒーローは強く、街や人々を守る者』という立場上、その理由を公にすることは出来ない。
五体満足で引退するヒーローも勿論沢山いるが、だからといって華やかに引退すれば、ではあのヒーローはなぜ引退セレモニーもせずに消えたのかという疑問を市民に与えてしまう。
シーズン終了同時に引退する者、シーズン途中に引退する者と様々だが、一往にして所属会社から引退声明が発せられるだけだ。バーナビーの引退も同じ方法を取る。高視聴率のチャンスなのにとアニエスが歯軋りして悔しがったが仕方がないことだ。
ならばなぜワイルドタイガーだけは特別なのか。
その理由はマーベリック事件のあとに引退することになったから、だ。
マーベリックに嵌められ、殺人者の冤罪を受け、個人情報を公開され、ヒーロー仲間に追い掛け回された映像はシュテルンビルト中に流された。
自分の無実を証明するために正体を明かした虎徹だが、ヒーローがヒーローを追うという異常な事態をすべての市民が知ることになった。
ヒーローと警察、そのうえ市民にまで犯罪者として追われ、全身傷つき、黒幕のマーベリックを捕らえたものの、戦いで受けた大怪我で入院を余儀なくされた。そして引退。
一連の流れを見ればワイルドタイガーがヒーローやシュテルンビルトという街に嫌気が差し見限ったという風に捉えられても仕方がない。
ヒーローが街を捨てて去っていく。
そんなイメージが残れば、残ったヒーロー達や追い回したマスコミ、下手すれば司法局や公の機関まで巻き込んで市民の非難を浴びかねない。それどころか市民の心に『ヒーローに見捨てられた』というマイナス感情が棲みついてしまう。
それほどの衝撃をマーベリック事件はシュテルンビルトに与えたのだ。
だからこそ、本当の引退理由をワイルドタイガーが、ワイルドタイガー自身の姿と声で語らなくてはならない。
そう判断した司法局が特例として引退表明を行うことを虎徹に依頼した。マーベリックの手は司法局にも及んでいた手前、被害者の虎徹にそれを強制することは出来ないが、説明されるまでもなく事態を正しく把握していた虎徹は、ライブではなく録画で、という条件をつけたがその依頼を受けた。彼は最後まで『シュテルンビルトのヒーロー』だったのだ。
虎徹の列車は正午発。ヒーローTVで引退表明が流れるのもちょうど正午。
偶然だと言っていたがたぶん嘘だろう。バーナビーが放送を観ようとすれば駅まで見送りには行けない。録画という手もあるがリアルタイムで観たいというのが本音だ。
バディーであるバーナビーが知らない虎徹の言葉を、他の人間が知っているというのはなんだか癪に障る。
チェアーに腰掛けた途端、ヒーローTVが始まった。
事件後は少々自粛傾向にあるため、マリオの騒がしいアナウンスも派手な音楽も流れない。
『ワイルドタイガーによる引退声明を放送します』
落ち着いた女性の声が淡々と語り、画面がワイルドタイガーを映し出した。
部屋の真ん中に置かれた椅子に座っているのはアイパッチを装着しただけの『鏑木・T・虎徹』だ。
彼の右背後にはアポロンメディアのライムグリーンのワイルドタイガーの等身大のパネル。左背後はバーナビーではなく、トップマグ時代のブルーのヒーロースーツのワイルドタイガーのパネルだ。
『どうも。シュテルンビルトの皆さん、ワイルドタイガーです』
落ち着いた声で虎徹が、ワイルドタイガーが話し出す。
『この度、私、ワイルドタイガーが引退することをお知らせ致します』
いつもの彼と違った丁寧なしゃべり方は小さな違和感を覚える。どう続くのかと画面を見続けていると、黙り込んだ虎徹は口をパクパクしたあとに表情を歪め、おもむろに頭をガシガシとかいた。そして。
『タイガー&バーナビーのワイルドな方、ワイルドタイガーです!シーズン途中ですが引退することになりました。つうか、引退は今シーズンが始まってすぐに考えるようになったことで、はっきり言って例の事件は関係ありません。皆に誤解されるのは嫌だからさ、言っちゃうけど引退理由はなんてーの、能力の減退です。俺のハンドレットパワーは数ヶ月前からどんどん発動時間が短くなって、今じゃもう2分くらいだ。マーベリックの事件のときも4分持ってなかった。もしあのときいつも通り5分あれば、あんな火傷を負ったりしなかったと思う。あの状況でベストだと判断したけど一歩間違えれば死んでた。死ぬのはまあ仕方ないけど、いや駄目だな、生きてなんぼだ。だけどもし死んでたらバニーに・・・バーナビーに一生後悔させることになっちまった。大事なバディーなのに苦しませることになった。そんなの駄目だろ?絶対駄目だ。あれから2ヶ月経ったけど能力減退はとまらねぇし、たぶんもうすぐ消えてなくなるんだと思う。子供の頃はいらないって泣いた能力だけどさ、数十年も一緒にいて俺の一部になっちまってた。このネクスト能力のおかげでヒーローになれた。ハンドレットパワーがなくなるのは寂しい。この喪失感は半端ないよ、自分でも驚くくらいだ。それと同じくらいこの街を守れなくなるのが寂しい。
・・・だけどさ、この街には他のヒーローがいる。ワイルドタイガーがいなくなってもこの街はヒーローに守り続けられる!って、お前何様だって感じだけど、だからこそ俺は安心して引退できるんだ。この街を愛してるよ。この街で10年以上ヒーローをやってこられたことは俺の一生の誇りだ。だから・・・みんなありがとう、そして、さよならだ!!』
いつも通りコミカルに動きながら満面の笑み。誰もが知っているワイルドタイガーの姿だ。飾らない言葉で引退を表明したあと虎徹は右手を振った。
最後の最後で『お前はどこのヒーローだ!』と全シュテルンビルト市民に突っ込みを入れさせて、映像は終わった。
そして、『正義の壊し屋ワイルドタイガー』は10年以上にも及ぶヒーロー活動を引退した。
*
虎徹が故郷に帰ってから、バーナビーは引退の理由に挙げた『自分のために生きる』ことを模索した。
ワイルドタイガーが引退すると言ったとき無意識に出た言葉だったが、その気持ちに偽りはなかった。
元々ヒーローになりたくってヒーローになった訳ではない。仇を見つけるためにヒーローになればいいと助言したマーベリックがすべての元凶だった。
それなのにこれからもヒーローを続けていくことが出来るのか?バディー・ワイルドタイガーがいるのなら兎も角、自分ひとりで?
答えは否だ。
だからワイルドタイガーが引退するなら『タイガー&バーナビー』のバーナビーも引退するべきだと思ったのだ。
引退してからはシュテルンビルトから出て旅をしたり、ロボット工学の短期講座に出席したり、ブルックス家のルーツを辿ってみたり、自分がなんなのかこれからどうしたいのか試行錯誤を繰り返した。
答えはなかなか出ないものの、新しいものに触れ、色々な人々に出会うのは新鮮で楽しかった。
集約すればウロボロスとヒーローの2点しかなかった20余年の人生だ、街から出たことも色々な経験をすることもなかったから、なんの枷もなく自由になれた気がしたのだが。
新しい人と触れ合う度に、笑い方が違う、話し方が違う、髪質が違う、肌の色が違うと、ふと脳裏にそんな言葉が浮かぶ。いったい誰と違うというのか?
こんなときならあの人はこう言うだろう、きっと自分のことのように怒るだろう、あんな段差があれば絶対躓く、これじゃ裾を引っ掛けて破きかねない。
何かを見ては表情や仕草を思い出す。必ず比較し彼の台詞や行動を予想する。
半年も経つと、慣れたはずの虎徹の不在の違和感がぶり返し、その姿を思い浮かべては会いたくて堪らなくなった。
依存なのだろうか。明るい世界に引っ張りあげてくれた虎徹を世界の中心だと脳が勘違いしているのではないだろうか。
メールの遣り取りはたまにしていた。バーナビーから送ることもあれば虎徹から来ることもある。
他愛もない話、日々の出来事、写真が添付されただけのメール。虎徹からメールが届く度に縁が切れてないことを確認できて安心していたのに、もうそれだけじゃ満足出来ない。
会いたい、顔が見たい、肩を寄せ合いたい、ハグしたい。
筋肉がついているものの全体的に細い体を抱きしめて、頬を摺りあわせて、一度だけ触れたことがある唇にもう一度触れたい。白い歯の向こう側に隠れている舌は熱いのだろうか、交ざった唾液は甘いような気がする。色が濃い肌は鞣革のような手触りだろう、綺麗に浮いた鎖骨は歯の立てがいがありそうだし、小振りな尻は両手の中に収まってしまいそうだ。
ワインを片手にシュテルンビルトの夜景を眺めながら、ぼんやりと夢想した自分の思考にバーナビーは驚き、焦った。
これではまるで虎徹を性的対象として見ているようではないか。
相棒であり友であり父であり兄であり弟である。そんな風に考えたことはあっても恋人のようだなんて思ったことはない。それなのに。
混乱する頭を抱えたバーナビーが選んだのは大量の酒を摂取して眠ることだったが、体は心より正直だった。
虎徹の夢を見て兆した股間を、翌朝ベッドの上で確認して。
バーナビーは自覚したのだ、自分が虎徹を好きだということを。それもライクではなくラブの意味で。
いつからなのかわからない。元々下地があるところに虎徹に告白されてキスされて目覚めてしまったのだろうか。そして虎徹の不在が恋心を刺激した?
わからないことだらけだが、虎徹を恋愛的な意味で好きだということだけは理解できた。
だからといってどうなるわけではない。
虎徹はオリエンタルタウンで家族と共に平和に暮らしている。突然押しかけて虎徹の傍に住みつく?環境も生活習慣も違うオリエンタルタウンで生きていくのはバーナビーには無理な気がする。
ならば、虎徹を家族から引き離してこの街に連れ戻す?もっと無理だ。そんなことは在り得ないし、絶対に出来ない。
バーナビーは小さく溜息をついた。
自覚した途端に成就不可能な恋なんて、ままならない人生を送って来た自分になんて合っているのだろうか。
少し落ち込みはしたが、この数ヶ月で鍛えたメンタルはその事実を柔軟に受け入れた。
家族以外に人を愛したことはない。仄かな初恋のようなものはあったが、肉体を欲する程恋しいと思ったことは初めてだ。
虎徹はいつもバーナビーの常識を簡単に壊してしまうのだから、こんなことになったとしても仕方ないのだ。
二度と会うことはなくても恋が成就しなくても、この感情が小さくなって消えるまで大事に胸に仕舞いこむ。
恋することを知ったバーナビーはいつか虎徹を忘れて、新しい恋に落ちるかもしれない。もっと愛しく思える人に出会えるかもしれない。そんな日が本当に来るのかわからないが。
それまでは初めての気持ちを大事にして生きていこうとバーナビーは思った。
恋を自覚して数ヶ月。
バーナビーはアポロンメディアヒーロー事業部の一室にいた。
一年にも満たない期間とはいえバーナビーは色々なことにチャレンジし体験した。様々な人々と出会い深くも浅くも交流をした。両親の研究に関してはまだわだかまりはあるものの、こればかりは心の整理に時間がかかることだと自覚している。
虎徹が恋しいという気持ちは変らないが、だからといってこのシュテルンビルトを離れたいとは思わなかった。
彼の愛したこの街をバーナビーも愛していたのだ。ワイルドタイガーが守りたいという街をバーナビーも守りたい。
KOHになったばかりで大事件のあとに引退して、勝手なことをしたことは自覚しているが、もう一度ヒーローになりたいという気持ちになった。
隣にワイルドタイガーがいなくても、ひとりでもヒーローで在りたいと、許されるならもう一度この街を守りたいと決意して、ロイズにアポイントを取った。
「君達、連絡取り合っているの?」
「君達?」
「君と虎徹くん」
ビシッと指差されて、バーナビーは小首を傾げた。
「たまに近況メールを送ったり、虎徹さんからも来たりしますが」
「近況って?」
「夏祭りで太鼓を叩いたとか、大学の特別講座に通っているとか、夏野菜が取れすぎて食事が野菜中心だからたまには肉がたっぷり食べたいとか、ワイン試飲会に行ったら僕達のファンだという方とヒーロー談義に盛り上がったとか」
この数週間で遣り取りしたメールの内容である。
「復帰のこと虎徹くんに話してないの?」
「ああ、それはしていませんね。きっと虎徹さん、羨ましがって悔しがるでしょうから」
その姿を想像してクスリと笑うとロイズは呆れたように「似たもの同士だね」と呟いた。
聞き取れずにバーナビーは聞き返したがロイズは応えず、ふうと溜息を吐いた。
「ヒーロー・バーナビー復帰に向けて動きましょう」
「本当ですか?!」
「嘘ついてどうするの。ヒーローがいない七大企業はうちだけなんだよ。本音を言えばヒーローが戻ってきてくれるのは有難いよ。未だに君たちの人気は衰えていないからね」
「ありがとうございます」
「スーツは斉藤さんがちゃんとメンテナンスしてくれているからすぐにでも使えるだろうけど、上層部にかけあったりスポンサーに話を通したりする必要があるから、まあ復帰は最短でも一ヵ月後、クリスマスくらいだね」
ヒーロー活動にはスポンサーが必要だ。被害者ではあるが、マーベリックの養子だったバーナビーは加害者側でもある。すんなり以前のスポンサーが戻って来てくれるとは限らない。
「司法局にもかけあうけど、たぶん二部スタートになると思うよ、それでもいい?」
「はい!」
引退して復帰したヒーローなどという前例はない。二部リーグも出来て日が浅く、一部リーグとの関連性もまだしっかりとは確立されていない。それなのに二部スタートと言い切るロイズに普通なら疑問を感じるところだが、ヒーローに復帰出来る可能性が高いことを喜んだバーナビーは気がつかなかった。
その数日後。
ヒーローTVを観ていたバーナビーは画面の端に映ったライムグリーンのヒーロースーツを目撃し「抜け駆けだ!!」と叫んだのである。驚きと喜びに胸を躍らせて。
そして仕返しとばかりにロイズや斉藤に口止めし、ヒーロー・バーナビーの復活を当日まで虎徹に内緒にしたことは言うまでもない。
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