その瞬間。
躯中の血が煮えたぎるかと思った。

 
 

Road to the end [5]



 
シエル・ファントムハイブ。
いつも私に想像以上をみせつけて、私を楽しませ退屈させなかった魂。
それは悪魔に変質しても変わらなかった。

ゲームの達人の異名は伊達ではない。
人間の頃でさえ悪魔を使役して駒にしていた程だ。悪魔の力を手に入れた今は更にその上をいっている。
つまり。
未だ、私はシエル・ファントムハイブ、坊ちゃんを捜し出せていないのだ。

たったひとりの元人間の小悪魔に振り回される屈辱。なんと愉快なことか。
彼は稀に、悪魔の聖域に咲く私の薔薇の精気を喰らいに来ているから、そこで待てばきっと捕らえることはできるだろう。
だが待ち伏せなど、いつ来るともわからぬ者を延々と待つなど、私のプライドが許さない。
それにそのような方法では己を駒にしてまで行っているこのゲームが詰まらなくなる。
坊ちゃんは子供だけあって、隠れんぼも鬼ごっこもお得意らしい。
痕跡を見つけても、スルリとかわされ、すぐに見失う。なかなか手強い。

望んでいた退屈しない日々であったが、そろそろ坊ちゃんが傍にいない事に我慢ができなくなってきていた。
たかが数ヶ月。たかが数年。悪魔にとっては瞬きひとつの時間なのに、長く感じている自分を自覚して苦笑が漏れる。
この感情、この衝動、この苛立ち、すべてが愉快で仕方がない。

「もうそろそろ呼んでください、坊ちゃん」

重度の阿片中毒者のように依存して欲している、あの小さなシエル・ファントムハイブを。
私にこれだけの症状が発症しているのだ。彼が平気でいられるはずはない。
たった三年半、時間にしては短い刻。
だが、それは濃密で濃厚でいつの間にかお互いを縛りあってしまっていた。
離れてみてようやくわかった。契約など共に在ることへのただの言い訳だ。

「契約書などなくとも」

小さな硝子の小瓶を持ち上げて、契約書が浮かぶアメジストの瞳を見つめる。

「貴方が私の名前を呼べば」

一瞬でもいい。言いかけてすぐに止めてもいい。
彼が悪魔につけた名前を声として発すれば、それだけで居場所がわかるのだ。
契約書は獲物を見失わないためのもの。契約自体ではない。
悪魔が『セバスチャン・ミカエリス』の名を捨てない限り契約は続き、悪魔は契約者に縛られる。
勿論シエルは知らない。隠していたわけではない。聞かれなかったので云っていないだけだ。

「さぁ、私の名前を呼んで・・・マイロード」

甘く蕩けそうな声色で呟きながら、硝子の小瓶にそっと口付けた。


*


呼ばれた、と思った。
いや、確かに呼ばれた。
彼が私につけた名を発しなければ、此処が私にわかるはずはない。
気配を消して高木の枝で羽を休ませ伺うと、懐かしささえ感じる小さな背中が見えた。
少し離れた場所に教会が見える、そこから村へ続く小道の途中に彼はいた。
可憐ともいえるくらいの小さな野薔薇は群生することによって、その存在を圧巻としたものに変えていた。
その野薔薇を愛でている少年。

「薔薇好きは変らないですね」

くすりと笑いが漏れる。
だが、すぐに私は彼の隣にいる男から視線が離せなくなった。
見つけたという高揚感、呼ばれたという悦び、それらが少しづつどす黒く染まっていく。
まず体型が。私によく似ている。背丈もほぼ同じだろう。
彼らの会話を聴きとると、坊ちゃんは男を「先生」と呼び、なんと敬語まで使っている。
医師というだけあって頭は良さそうだ。それに性格も真っ直ぐで正直そうで・・・嗚呼、坊ちゃんが好意を持つタイプですね。
こんな森の中、穏やかな会話の途中で、なぜ坊ちゃんが私の名前を呼んだのか。
この男が危険そうに見えたから?
いや、違うだろう。男は坊ちゃんに見惚れたりしているが、変な所で鈍い子供はそんなことに気がついていない。
ならば、なぜ?
思考の中に落ちそうになった、そのとき。
目の前で起こった出来事を見て、すべてか吹き飛んだ。

怪我をした坊ちゃんを大事そうに抱き上げる男。
抵抗せずに大人しくその腕の中に納まる坊ちゃん。

それは私の物だ。
触れることは、いや彼の横に立つことすら許さない。
衝動のままに私は坊ちゃんを男から奪い返した。

*

目の前には呆然としている男。腕の中には呆然としている坊ちゃん。
ああ、やっと取り戻した。この軽さも感触もすっかりこの腕に馴染んだものだ。
隠れんぼも鬼ごっこもこれで終了。ゲームオーバーだ。
躯の奥底から悦びと満足感が湧き上がってくる。

「・・・・・・セバスチャン」
「はい」
「あっ、はい!」

久しぶりに呼ばれた名前。
しかし、呼ばれて返事をしたのは私だけではなかった。
その瞬間、私は悟った。
私をこの場所へ引き寄せたとき、坊ちゃんが呼んだのは私ではなく・・・この男だったのだ。
躯中の血が煮えたぎるかと思った。
凶暴で凶悪な感情が、底知れない怒りが人間の形をしたこの身を駆け巡る。
その感情は笑いとなって唇から毀れた。

「申し遅れました。私はこの方の執事。セバスチャン・ミカエリスと申します」

そう、私は『セバスチャン・ミカエリス』。この少年の執事だ。
この身は毛髪一本まで坊ちゃんのもの。言い換えれば、この腕の中の少年は体も魂もすべて私のものなのだ。
身を内側を焼き尽くしそうな激情を奥底に押し込んで、人間らしい振る舞いで男に接する。
本当なら、坊ちゃんに怪我をさせ、その躯を馴れ馴れしく抱き上げた男を引き裂いてやりたいくらいだ。
だが『人間らしく』という命令が残っている限り、契約破棄を受け付けなかった私はそれに従うしかない。

「・・・貴様、どういうつもりだ」
「と、おっしゃいますと?」

子供とは思えないほどの低い、地を這うような声。
穏やかな声色で応えるものの、どういうつもりだなんて私の方が聞きたいくらいだ。
私ではない、私に似た、私と同じ名前を持つ男を傍に置く、これはいったいどういうことなのだ、と。

「離せ」
「まさか。怪我をしている主人を離すことなどできませんよ」
「うるさい!お前はもう僕の執事なんかじゃっ」

怒鳴りながら坊ちゃんがようやく貌をあげて、私を見た。
久しぶりに見る貌だ。契約してから三年半。見飽きるほど毎日見ていた貌だ。
ようやく取り戻したというのに、その唇は別の男の名前を呼び、その身を任せる。なんと忌々しいことか。
私の不機嫌さを悟ったのだろう、坊ちゃんは怒鳴るのをやめて、驚いたように私を見つめた。
さすが坊ちゃん。奥底に隠そうとしている私の感情さえも簡単に見抜くのですね。
ほんの少し気分が晴れる。

「では、坊ちゃん。参りましょうか」

私は微笑みながらそう云って、坊ちゃんをその場から連れ去った。
 



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最後への道 -セバスチャン-

 








■なかがき

セバスチャン視点。

嫉妬メラメラで意外と余裕がありません。悪魔のくせに(笑)





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