「では、坊ちゃん。参りましょうか」
その言葉と共に周りの風景が歪み、身に覚えのある、空間に捩じり込んでいくような感覚に襲われた。

 
 

Road to the end [6]



 
抱える腕。燕尾服越しに伝わってくる体の形。低い体温。
それはすべて慣れ親しんだものだ。
湧き上った怒りのままに身を捩り暴れれば、悪魔の腕の中から逃げられるかもしれない。
だが、今ふたりが通る道は時空の狭間である。
悪魔の力を持って移動するときに使う方法であり、シエルも何度か経験したことがある。
此処で逃げても、何処に流されるかわからない。
それならば時空を超えて目的地に着いた後に逃げ出す方が利口というものだ。
何処に連れて行かれようとしているのかはわからないが。
それに瞬間的に湧き上がったシエルの怒りは、セバスチャンの怒りを感じたことによって霧散していた。
理由は色々と思い当たるが、どれが当たっているのかはわからない。
とにかくセバスチャンが深い怒りに囚われ、シエルを連れ去ったことだけは確かだ。
この後、八つ裂きにされるのか、捕らわれ自由を奪われるのか、口汚く罵られ討ち捨てられるのか。
なににせよ、死んだ魚のような目で見詰められ無感情に世話をされていた頃と比べれば、伝わってくる感情があるだけマシである。
シエルは腕を組み、自らセバスチャンに指一本触れることはしなかったが、何も言わず素直に抱かれ運ばれていった。

サァっと空気が変わった。
寒いくらいにピンと張り詰めた空気と、噎せ返るような芳香。
青と白の薔薇に埋め尽くされた其処は嫌というほど見知った場所だ。
『悪魔の聖地』。
シエルの魂が蜘蛛に奪われ、シエルが悪魔と化し、セバスチャンに契約書を返した、分岐点とも言える場所である。

膝裏に回された腕がスルリと引かれ、下肢が拘束を逃れた。
シエルはようやく自分の足を大地に触れさせることが出来たが、同時に右足首の捻挫を思い出し、痛みの予感にバランスを崩した。
よろけつつも左足に力をいれ踏みとどまる。
未だ傍に在る悪魔に縋りつくことはしない。

どんな状況でも指一本触れて来ようとしないその姿に、セバスチャンは口角を吊り上げた。
身を纏っていた怒りも吹き飛ぶ愉快さだ。
小さく頼りなげな姿をしているのに、その内側に秘める力はなんと大きいことか。
魔力のことだけではない。悪魔と対等に渡り合える精神力は他に類を見ないほど見事さだ。
元人間だというのに。いや、人間であった頃からか。
だからこそ、シエルはセバスチャンを、悪魔を惹きつける。

頭の上で笑われたことが気に食わなかったのか、シエルが険のある目でセバスチャンを見上げた。
「何を笑う」
「もう痛みはないはずですよ」
云われて、シエルは確かめるように右足を引いた。体重をかけても痛みはない。
いくら悪魔と化した体とはいえこんなに早く治るとは思えない。時空の狭間を運ばれている最中にセバスチャンが治したのだ。

なんのために?

その問いは言葉にせず、シエルは一歩二歩と足を動かし、セバスチャンから距離をとる。
冷たい悪魔の体は追う事はせず、温かい子供の体が離れることを許した。
「どういうつもりだ?」
「なにがですか」
さっきと同じシエルの問いに、セバスチャンはにこりと笑って問い返す。
そんな悪魔の姿かたちは、シエルが去ったときと同じ、セバスチャン・ミカエリスのままである。
名も顔も姿も変えず、人間の真似事を続けている悪魔の真意を見極めようとシエルはじっとセバスチャンを見つめた。
紅い瞳には、さっき痛いほど感じた怒りはもう含まれていない。
「なぜここに連れてきた」
執事然としていることに対する応えはすぐに得られそうにないと、シエルは質問の内容を身近なものに切り替える。
「そろそろお食事が必要な頃かと思いましたので」

白い薔薇。

人間と契約を交わさぬシエルにとって、セバスチャンが咲かせる白薔薇だけが精気を得るただひとつの方法だ。
その理由はシエルも、セバスチャン本人も知らないし、わからない。
それでもセバスチャンは薔薇を咲かせ続け、だからシエルも精気を得るためにこの地を訪れていたのだが。

「いらない」
「偏食な貴方のために美味しく調理して差し上げたというのに」

いつの頃からだったろうか。
取り込まれる精気の質が変ったのは。
白薔薇が宿しているものは微かな甘みと微量なエネルギー。そのことに変化はない。
だが、何も与えてくることはなかった青薔薇から、蕩けるような味と強烈なパワーが得られるようになった。
最初取り込んだときの衝撃は忘れられない。
空腹をあっという間に満たした精気と味わいは経験したことがないものだった。
強烈なエネルギーに満たされた衝撃によろめきながらも、聡いシエルはその正体をすぐに悟った。

「そんなことは頼んでいない」
知らぬままに取り込んだ精気は人間のもの。正しくはその魂だ。
そのときの事を思い出しながら、シエルは忌々しげに云った。
「でも美味しそうに召し上がっていたと聞いてますよ」
契約し得た魂を粉々に砕き、青薔薇に宿らせた。
いくら元人間で理性的なシエルとはいえ、その身は既に悪魔である。
魂を喰わなければ、悪魔と化したばかりの小さな体は弱っていくだけだ。
「勝手にやっておいて、恩をきせるのか」
「まさか。これが私の仕事ですから」
「仕事?」
「ええ、執事としての」
再会してから執事と云い続ける悪魔の真意はなんなのか。
薄っすらと浮かぶ笑みからは判断しようがない。
「ふん。契約書は返しただろう」
悪魔の執事であることが不本意であると全身で表していたのはセバスチャン本人である。
抑揚のない口調、生気のない目。
鬱陶しいことこのうえなかった。
だからシエルは契約を破棄した。悪魔を解放してやったのだ、自らの眼を抉ってまで。

「ああ、そういえば、気になっていたのですが。・・・やはり」
シエルの眼帯をスルリと外したセバスチャンは苦笑を浮かべた。
悪魔の体は欠損しても普通なら元に戻るものだ。
いくらシエルが目を抉っても、本人の意思に関係なく再生する。
再生すれば刻まれた契約印も戻り、その存在を契約者であるセバスチャンに伝えるはずだったのに。
眼帯の下から現れた右目には眼球はなく、代わりに埋め込まれているのは大きなガーネット。
「悪魔が魔よけですか」
「役には立ったぞ」
お前は僕を見つけられなかっただろう。
シエルが言外に云い、うっそりと笑って見せた。
人間である頃からたまに浮かべることがあったそれは、人間なのに子供なのになんという笑みを浮かべるのだろうとセバスチャンが密かに思っていた、見覚えのある、そして悪魔が好む微笑だった。
変質しないシエルの魂を感じて、セバスチャンの背筋に快感ともいえぬ感覚が駆け抜ける。

悪魔を執事にする悪魔。
共生なのか、囚われたのか。
そして、それはどちらが?

セバスチャンが優雅に手を伸ばし指先で軽く触れると、ガーネットは簡単に消滅した。
残るのはぽっかりと空いた空洞。
再生を阻んでいた宝石がなければ、シエルの瞳は再生する。
だが。
「わざわざ再生せずとも此処に」
新しいものは必要ない。ずっとふたりを繋いでいた契約の印はちゃんと残っている。
懐から取り出したガラスの瓶は、シエルがこの悪魔の聖地に置いていったものだ。
美しいが意思のないドロリとした眼球をセバスチャンは取り出し、ぽっかりと空いた眼孔に埋め込んだ。
シエルは抵抗することも抗議することもなく、悪魔の動きを左の眼でずっと見つめていた。
一瞬ぼやけた視界がクリアになったとき、狭かった視界が180度まで一気に広がった。

「なによりも美しい宝石ですね」

瓶の中ではただの眼球だったのが、シエルの一部になった途端、生気を漲らせた何にも換えがたい宝石にかわる。
美しい左目に契約印が浮かび上がった。
「これで貴方は私のご主人様だ。そしてすべて私のもの」
それを満足げにみつめる悪魔を見て、シエルは愉快そうに笑った。
「ふ、元のおまえに戻ったな」
人間界でシエルの執事をしていた頃と同じ、セバスチャン・ミカエリスだ。
同時に頑なだったシエルの拒絶は消え、以前と変らぬ悪魔を執事に従えさせる存在に戻った。
「僕はどちらでも構わなかったんだ。お前と縁が切れても、今まで通りでも」
「・・・私と離れても構わなかったと?」
「辛気臭い悪魔に身の回りの世話をされるのは鬱陶しい。一人の方がマシだ」
セバスチャンの眼を真正面から見据えてシエルは続けた。

「僕は悪魔になって一番最初に選んだ。お前を僕の執事にすると。」
「だから次はお前に選ばせてやったんだ。悪魔の執事を続けるか、続けないか」
「そしてお前は選んだ」

契約書を置いていったシエルと縁を切ることは出来たはずだ。
解放されたと嬉々として本性を現し本来の姿に戻ればいい。
悪魔を従えさせ、報酬を与えることが出来なかったシエルが気に入らないというのなら、見つけ出して殺すなりなんなりすることも出来た。
だが、セバスチャンは見つけ出したシエルに契約印を返し、契約の継続を選んだ。
悪魔の執事であることを自ら選択した。

「これは貴方にとってゲームだったと?」
「さあ、どうかな」

言葉では認めはしないが、愉しげに煌く紅い瞳がすべてを物語っている。
悪魔化したとはいえ、元人間が悪魔相手に引けをとらないどころが、チェックメイトをコールしたのだ。

「だが、お前が選んだ答えはお前自身が選んだものだ。僕が誘導したものじゃない。
だいたい辛気臭い顔をしながら、心の中で現状を愉しんでいたお前にとやかく云われる筋合いはないしな」

すべてお見通しだったということか。
セバスチャンは驚き、そして苦笑した。
さすが悪魔を執事にするだけのことはある。

「だがまだ選択しなおすチャンスはあるぞ。どうする?セバスチャン?」

名を呼ばれ、身も心も満たされたような感覚がセバスチャンを包み込んだ。
そして「嗚呼」と思う。
シエルに名前を呼ばれたのは幾年ぶりか。
言葉として声に出すのではなく、セバスチャンという呼び名で悪魔自身を呼ばれたのは。
気まぐれの退屈しのぎに契約を交わした、小さな人間の子供につけられた名前はいつの間にか、悪魔にとってもっとも重要なものになっていたのだ。
そして悪魔化したとはいえ、その名を他の誰でもない、シエルに呼ばれることに最高の悦びを感じる。
なんとも愚かしく悪魔らしからぬ感情だ。

「私はあくまでも悪魔の執事ですよ」
「そうか」

永い刻を過ごしてきて、ただの退屈しのぎの契約だったのに、引いたのは大当たりだった。
苛立たしさ、憤り、怒り、呆れ、喜び、所有欲。
過去に感じたことがない洪水のような感情の迸り、なんとも愉快で堪らない。
シエルと出会ってから退屈という文字はセバスチャンの日常から消えてしまった。
何時まで続くとも知れない永劫の中で、この小さい存在はセバスチャンの世界を揺るがし刺激を与えてくる。
セバスチャンはなんともいえない感情を覚えながら、シエルを抱き上げ、己の腕に座らせた。
今度は拒絶はなく、まるでそれが当たり前だというように、小さい腕がセバスチャンの首に回される。


強い風が吹き抜ける。


白と蒼の薔薇の花弁が舞いあがるのは、悪魔化したシエルを抱き彼の地へ赴いたあのときと同じ。
違うのは主人を抱き上げる執事の表情くらいか。
「では、いくぞ。セバスチャン・ミカエリス」
「イエス、マイロード」
これからの飽きぬ時間を思い、高揚する心を露にしながら、セバスチャンは応えた。
 





最後への道 -チェックメイト-

 








■あとがき

この話を書き始めるとき一番最初に思い浮かんだシーンは「嫉妬メラメラセバスがシエルを強奪するくだり」でした(笑)
そのシーンまで書いたら満足しちゃって書くのが止まっちゃったんですが、沢山の方に続き所望コメントを頂いて、それを原動力に細々と書き進めたものの、前回UPより一年以上経ってしまいました・・・すみません。
時間が空いてしまったので、ちゃんと繋がっているか少々不安です(^^;)
 
悪魔の上をいく坊ちゃんが大好物ですv
そしてそんなシエルに振り回されることを腹立たしく思ったり苛々したりしながらも、それが反対に楽しくって仕方がない悪魔のセバスチャンも大好物ですv
ということで、こんな終わり方になりました。
小悪魔と悪魔の執事には退屈なく末永く共に過ごして欲しいものですv


最後までおつきあいくださりありがとうございました!






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