地面に這いつくばっている女は瀕死に近い状態だった。
栗色の長い髪はほつれ血と汗と涙に濡れた頬に張り付き、着ている服も汚れボロボロに破れている。
血の気の失せた顔が証明するように、大量の血が床に広がっていた。
それでも女の瞳は死んではおらず、ギラギラと強い意志と憎しみを湛え、突然現れた悪魔を見つめている。
「悪・・・魔?」
問いかける声は震えている。
「貴女が呼び出したのでしょう?このように拙い魔法陣を補う程の憎しみと怒りを持って」
女の瞳は信じられないとでもいうように大きく見開かれ、唇がふるふると震え出した。
「悪魔、なのね?私が呼び出した、悪魔!!私の願いを、聞き届けて!!」
歓喜に身を震わせ女は悪魔に両手を伸ばした。
その細やかな指も掌もべったりとした血に塗れている。
「悪魔と契約する意味がおわかりですか?そしてその報酬も?」
「もちろん!!私の持っているすべてをあげるわ!!この体も血も魂もすべて!!」
叫んだ直後に女はゴフッと大量に吐血した。
此の侭では契約を果たすどころか、その内容を聞く前に死んでしまいかねない。
悪魔は一歩近づくと女の上に手を翳した。
「致命傷は治しました。もう立ち上がれるでしょう?」
体の痛みが引いていくのを感じた直後、頭上からかけられた内容を聞いて、女は驚きながら起き上った。苦しくすぐにも止まりそうだった息は整い、全身を包んでいた激しい痛みはほとんど消えている。女は顔をあげて目の前の悪魔をあらためて見つめた。今度は観察の意味を込めて。
黒い髪。
紅い瞳。
丹精な顔立ち。
すらりとした体躯。
悪魔とは醜いものかと思っていたが、かなり美形の男である。そのうえなぜか燕尾服を着ている。
「私はアンヌ。貴方は?」
女の問いかけに悪魔はクスリと哂った。
「悪魔に名前を聞くのですか?」
「契約するんですもの。名前くらい知りたいわ。なんと呼べばいいの?」
物怖じせず悪魔を正面から見据えて問いかける女を、悪魔は楽しげに眺める。
なかなか胆の据わった女だ。この怨念のような感情を持って悪魔を呼び出しただけある。
「私の名前は」
口端をあげて悪魔はにっこりと哂った。
「セバスチャン・ミカエリスです」
*
シエルの魂を喰い損ね、その後契約印を一方的に返却されてから、セバスチャンは再び人間と契約するようになった。空腹であったこともあるが別の目的のためにも、食糧である人間の魂が必要だったからだ。
大事故などの大量死の現場に赴いて魂を掠め取ることも出来るには出来るが、それはやはりセバスチャンの悪魔としての美学が許さなかった。
ギブ・アンド・テーク。
契約を結び、それを果たし、報酬として魂を受け取る。
死神が云う『魂を横取りする』こととは違う、自分の物であるという主張が堂々と出来る方法である。
今までのように契約を結んで魂を手にするが、今までと違う所はシエルとの契約のように長期スパンに渡る契約は一切行わないことだ。的確でスピーディーに。時間をかけずあっという間に目的を果たさせ契約を終了する。
そういう方針に方向転換したのだ。
もう退屈凌ぎを契約には求めたりしていない。現在進行形で楽しく面白くスリルのあるゲームの最中である。退屈なんて言葉は今のセバスチャンにはない。
ただ、食料調達のためだけに人間と契約する必要があるだけだ。
*
アンヌは憎いと云った。憎んでも憎み切れないと云った。
下町から女達を攫い、監禁し弄び、殺す。
そんな男達の、貴族の下賤で最悪な遊びに巻き込まれたのだ。
一緒に連れ去られた友人も妹も皆アンヌの前で弄ばれ殺されていったのだと。
「では貴女の望みはその男達を殺すことなのですね?」
セバスチャンが問いかけるとアンヌは激しい憎悪を瞳に乗せて大きく頷いた。
「私は逃げ出したけど・・・もうあの状態じゃすぐに死ぬだろうとあいつらは飽きて途中で私を追うのをやめた。だいたい、逃げた私を追ったのは逃げられて困るからではなくて、ただのお遊びだったの。あれは獲物を追うゲーム。楽しむための狩りだったのよ!!」
ふるふるとアンヌは肩を震わせて、血を吐くように叫んだ。
友達には恋人がいた、再来月には結婚するはずだった。
それに妹!!妹のジュリアはまだ15才だったの。たった一人の私の家族だった。
どんなに辛くても苦しくても妹がいたから頑張れた。ふたりで肩を寄せ合って生きてきたのに。私たちが何をしたっていうの!?
日々の生活の心配などしなくていい、ただ遊んで暮らしているだけの貴族が悪いお遊びで私たちの命を奪う。なんの権利があって!?頑張って生きてきた私たちを踏みにじる権利があいつらにあるの!?
ただ金持ちの家に、貴族の家に生れたというだけで!!
神様は不公平だわ!!
ジュリアを私から奪うことを許した神なんていらない、私は神を許さない!!
激しい慟哭。激しい憎悪。神を呪う言葉。
それらは悪魔にとって心地よい旋律だ。
愚かしくも弱い人間は簡単に心を真っ黒に染める。
そんな人間の憎しみに固く握られた手を掬いあげ、契約を結ぶのが悪魔だ。
セバスチャンは血の涙を流す女に向かって、残酷で優しい笑みを浮かべて問うた。
「私の魔力を持ってすれば今すぐにでも男達の元に行けますよ。私が殺してくるのを此処で待ちますか?それとも共に来て男達が殺される様を鑑賞しますか?それとも・・・」
「一緒に行くわ」
セバスチャンの言葉を遮ってアンヌは真正面からセバスチャンを見据えた。
「あいつらを殺すのは・・・私」
復讐への歓喜でアンヌの涙で濡れた顔に壮絶な微笑が浮かび上がった。
「貴方はあいつらの自由を奪うだけでいい。妹がされたことと同じことを私があいつらにしてやるわ」
ギラギラした瞳はもう目の前の悪魔すら見ていない。そんなアンヌの腰に片手を添えて抱き込むと、セバスチャンは「では貴女と男達のフィナーレの舞台へ参りましょう」と囁いた。
その瞬間。その場所からふたりの姿はかき消すように消滅した。
あとに残ったのは夥しい血が流れた床と、子供の落書きのような魔法陣だけだった。
*
魂を手にしたセバスチャンは可笑しそうに微笑んだ。
「ほんの短い時間ですが、貴女は私を少しは楽しませてくれました。魂もなかなかのもの」
アンヌがセバスチャンを呼び出した場所とはまったく違う、煌びやかで高そうな調度品で飾られた室内だが、部屋に漂う香りはまったく同じものだ。
大量の血液の匂い。
足元には苦悶の表情で息絶えた三人の男と、満足気に微笑んだ一人の女の屍が転がっている。
復讐したからといって失ったものが戻ってくる訳ではない。
殺された者は死神に魂を刈られ、憎しみも怨念も残さずこの世を去っている。ただあるのは生者の恨みつらみのみ。そして復讐はただの自己満足に過ぎないのだ。
それでも。アンヌは死ぬ間際に悪魔に礼を云った。
まさに悪魔の所業と云えるべき殺戮を犯した女だったのだが。
「嗚呼。此れも契約のついで、駄賃に貰っていきましょう」
食糧調達のための契約だ。これくらいおまけを貰っても構わないだろう。
そんな死神が聞いたらデスサイズで攻撃してくるであること間違いないことを呟いて、セバスチャンは残ったみっつの魂も引き寄せた。
魂を手にした瞬間、その場からセバスチャンの姿は消えた。
入れ替わりに到着した死神が地団太を踏んで悔しがるのはこの数秒後。
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