ロンドンのタウンハウスと同じくらいのやや小振りな屋敷ではあるが、荒れた様子はなく綺麗に保たれている。
誰も住んでいないようなのに塵ひとつ落ちていない。
「ここは?」
「私の所有する屋敷です」
「お前の?」
「ええ」
無表情に必要最低限しか口を利かない執事をシエルは可笑しそうに見つめた。
「あの島もお前の所有だと思っていたが違ったじゃないか」
復讐を終え、魂を引き渡すために連れて行かれた孤島。
詳しい説明はなかったが、主人然としている様子からセバスチャンの所有だと思っていたが、結局あの島は『悪魔の聖地』と呼ばれる場所だったのだ。
「あの島を私の所有だと云った覚えはありませんよ」
「・・・確かにな」
シエルが勝手に思い込んでいただけだ。
内心、孤島の主とはなかなかやるじゃないかと感心していただけに違ったと知ったときは虚を突かれた気分だったのだが。
「ここは間違いなく貴様の所有なんだな?」
「私は嘘は云いません」
白々しいとシエルは鼻で笑ったが、セバスチャンは反応せずそのまま主寝室へシエルを連れて行った。
重厚な扉を開けて、奥に置かれている天蓋つきの寝台にセバスチャンは小さな躯をゆっくりと下ろした。
シエルの手に触れたリネンは清潔で触り心地がよく、まるでついさっき誰かが準備したような。
だが、此処には主であるシエルと執事であるセバスチャンのふたりしかいない。
悪魔として目覚めたばかりとはいえ、シエルもそのくらいの気配はよめる。
「坊ちゃんはこの部屋をお使いください」
セバスチャンは執事然として頭を垂れた。
「わかった」
そのまま後ろにシエルは倒れこむ。
ボスンと軽い音がして小さい躯が弾んだ。スプリングもちょうど良く効いていて寝心地が良さそうだ。
「もうお休みになりますか?それとも入浴をお望みですか?」
セバスチャンによると悪魔は眠らないものらしい。嗜好として嗜むことはあっても必要としないのだ。
だが、悪魔になったばかりの元人間のシエルには眠気というものが訪れていた。
いつまで続くのかわからないが、眠気が訪れる限りシエルは眠ろうと思っている。
「入浴はいい。このまま眠る」
セバスチャンは何処からともなくナイティを準備し、ベットの端に跪いた。
シエルが無言で躯を起こすと、いつもの手順で着替えさせていく。
まるでまだファントムハイヴ家にいるような気分になるが、結局今行なっていることは悪魔同士のおままごとみたいなものだ。
人間と執事であったころの影を悪魔と悪魔が辿っているような。
シエルはクスリと笑ったが、セバスチャンは表情ひとつ変えず黙々と己の仕事をまっとうした。
*
朝、シエルはいつものようにセバスチャンに起こされた。
用意された服は昨日と変らない。
人間のときは着せ替え人形のように色々な形や色の服を着せられていたものだが、この組み合わせがセバスチャンなりの悪魔仕様らしい。
執事服と同じく、替えない訳ではないが同じ型の服が複数用意されているのだろう。
シエルは何も云わず用意された服を身につけさせ、モーニングティーのおままごとをした。流れはすべて人間であった頃と同じだ。何も異なる所はない。ただ大きく違ったのは。
「本日のご予定は?」
セバスチャンがシエルに問うた。
スケジュール管理は執事の仕事だが、今のシエルはただの悪魔だ。
ファントム社の社長としての仕事も、ファントムハイヴ公爵としての勤めも、女王の番犬としての責務もなにもない。
伯爵邸最後の朝、シエルは云った。
「今日の予定は僕が決める」
あのときと今はまったく同じ状況だ。だから執事は問うたのだ。悪魔として貴方は本日何をなさいますか、と。
シエルは自分の執事を真正面から見据えたあと、小さく微笑んだ。
「僕は勉強をする」
「勉強?」
思わぬ答えにセバスチャンは瞠目した。いったいシエルは何を云い出したのか。
「お前が講師だ」
「私がですか?」
シエルが人間だった頃もセバスチャンは教師として幼い主人に色々と教えていた。
その続きを、悪魔としては必要と思えないあれらの続きを行えというのだろうか。
少し小首を傾げたセバスチャンを面白げに眺めながらシエルははっきりと云った。
「悪魔として何が出来るのかを教えろ」
「・・・と、申しますと?」
「僕は悪魔初心者だ」
「初心者・・・ですか」
なんとも聞きなれない言葉だ。というか初めて聞いた気がする。
悪魔初心者。
シエルらしいなんとも面白い表現だが、確かに間違ってはいない。
「悪魔とは何か、そして何が出来るのか、わからないし僕は知らない。これから悪魔として生きていくのなら知っておいた方がいいだろう?」
「成程。人間のときからそんなに勉強熱心なら良かったのですがね」
納得したと軽く頷きながらも小さい嫌味を忘れない。
「ふん。まあ、心臓を貫かれても死なない、ということは悪魔化してすぐに貴様に教わったからな。それ以外のことも知りたい」
嫌味には嫌味の応酬。
「教えろ、セバスチャン。命令だ」
シエルは嫌味ったらしく、だが深い笑みを浮かべながら、己の執事に命令した。
「イエス、マイ・ロード」
セバスチャンは腰を曲げ、己の主人へ頭を垂れた。
*
書斎の一角で悪魔の勉強が始まった。
「では、坊ちゃん。よろしいですか」
椅子に座ったシエルの前に立つのは、教鞭をピシリと音立たせ、メガネをかけた教師然とした男。どこから見ても執事ではない。だがシエルにとっては見慣れた姿だった。
「なんだ、その格好は」
形から入るのは変らない。シエルは内心そう思って少し呆れた。
わざわざこの衣類を用意したのか、それとも伯爵邸から取り寄せたのか、それはわからないが、いつもの教師スタイルだった。
「家庭教師ですので。教えるからには厳しくさせて頂きます」
眼鏡の端をクイッと持ち上げてセバスチャンは唇の端をほんの少しあげた。笑みに見えないこともない。
それなりに退屈しのぎになると思ったのか、悪魔の執事という肩書きから逃れたかったのか。
今まで無表情で死んだような目をしていたが、この格好になってから少し以前に戻ったような気がシエルはした。
まあどちらにせよ。セバスチャンが何を考えているか全然わからないが、教える気になっているのなら構わない。
「では始めろ」
シエルの言葉にあくまで教師は「御意」と答えた。
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