『ぼく』が軽い挨拶のつもりなのか右手を上げてみせた。
ぼくは買い物カゴを床に放り投げていた。『ぼく』だけを見たまま、走る。
巡ってきたチャンス。元に戻るための答えが手の届くところまできている。
距離はおよそ20メートル。
一心に『ぼく』捕まえることだけを思う。逃がさない。絶対に!
『ぼく』はまだエスカレーターの前に立って余裕げにこっちを見ていた。
(いける!)
聞き出す。何をしてでも。何があっても。

あと10メートル。
依然『ぼく』は動かない。

あと5メートル。
ぼくに向き直る。

あと1メートル。
笑った。

あと…………

その距離がゼロになることはなかった。
ぼくは手の届く直前で失速し、完全に止まってしまっていた。
(どうして!)
いくら動かそうと思っても足が前に進まない。それどころか足からは力が抜け、膝をついてしまう。
その姿を見てか『ぼく』がまた笑う。ぼく自身「こんな顔ができるんだ」と発見するほどの酷薄な笑みだった。
「あれ、そんなに走っちゃって。母さんから『はしたない』って言われなかった?」
揶揄が混じった声音。
(うるさい!)
けど、その声は声にならなかった。ただ肺から空気が吐き出されただけに終わる。
どんなに口を大きく開けて喉を振り絞っても咳の音ひとつでなかった。
「もう女の子なんだから、もっとそれらしくしないとね」
(そんなにしたのはどこのどいつだ)
声の代わりに思い切り睨みつける。
「そんな怖い顔しなくたっていいのに。せっかくの可愛い顔が台無しだよ?」
(同じ顔のクセに)
「ま、いいや。また近いうちに会うことになるし。話したいことがあったらそのときにね。じゃあ、また」
くるりと、膝をついて動けないぼくにあてつけるように軽やかに回れ右し、歩き出す。
(待て!)
手を精一杯伸ばす。けど、手はむなしく空を切るだけだった。
チャンスが逃げる。
追いかけて追いかけて追いかけて。口を割らせなければいけないのに。
手がかりが、答えが、逃げてしまう。
ほんのすぐそこにあるのに。背中はすぐそこなのに。
なんで足が動かないのだろう。
なんで声が出てくれないのだろう。

────ぐらり

何の前触れもなく、世界が揺れた。
座った状態なのに、その体勢も維持できそうにないくらいの激しい揺れ。
でも世界が揺れているのではなく、自分の『中』が揺れているのだとおぼろげながら理解する。

────ぐらり

また揺れた。
もう誰かを追いかけるとかそういうレベルの話ではなくなっていた。
とにかく気持ち悪い。乗り物に酔ったときのようなこみ上げる不快感が胸を圧迫する。
動くなんてとんでもない。口を真一文字に閉じて、目を固く瞑り、意識を強く持たないとすぐにでも吐いてしまいそうだった。
(いったい、どう、なって…)
こうなってしまった経緯を考えるなんて高度なことはいまのぼくにはできなかった。
気持ちが悪すぎて頭が巡らない。1+1しか計算できなくなった電卓のように『なんで』を繰り返すことしかできない。
いっそ吐いてしまおうか。吐いたら楽になれる。
胸の奥に存在する嫌なわだかまり。それを解消できるなら恥も外聞も捨てても構わない──
そういった甘い誘惑を断ち切るように、吐き気の波が遠ざかっているあいだに閉じていた口を薄く開く。
そして胃に冷たい空気を送り込むように軽く深呼吸。
すると、胃のものが押し戻されるような感覚があって、吐き気が少しおさまる。
繰り返し同じように深呼吸することで、ありがたいことに吐き気は改善へと向かっていた。
(吐き気はなんとかなりそうだけど)
依然として不快感は消えない──それどころか別の『症状』が出ていた。

身体が、熱い。

揺れたときと同様に、唐突だった。
骨も肉も内臓も、皮膚以外の中身全てが炎と入れ替わってしまったように中から、
無数の太陽に囲まれて、その中心にいるように外から、燃え尽きてしまいそうなほどに熱くなっていた。
熱い。
吸う息にも吐く息にも、思考にも、感情にさえも熱が宿っていると感じる、どうしようもないくらいの熱量が際限なく湧き出てくる。
熱い。
湯煎にかけられたチョコレートのようにどろどろに融けてしまいそうだった。
いや、もう融けてしまったのかもしれない。自分が固体であるか液体であるか、そんなことさえわからなかった。
熱い。
もう息をすることさえも、苦しい。
意識が、思考が、どこまでも、拡散して、
まとま、らない、
どう、し、て、
死、んで、しまう、のか、な、ぼく、
死、?、
もと、にも、どる、って、きめ、たの、に、

……
…………
……………………

「──です─?」
どこからか声がする。
誰の? どこからの? そもそもぼくに言ってるのだろうか?
「──大丈夫ですか?」
今度ははっきり聞こえた。意識が深いところから浮上し、しだいに物を考えられるようになる。
そして思い出す。
ぱっと目を見開く。けど、あまりの眩しさにまた閉じてしまった。
ゆっくりと薄っすら目蓋を持ち上げる。今度は大丈夫だ。視界に景色がぼんやりとだけど結像する。
女の人だった。
「あの、大丈夫ですか? 急に倒れられたみたいですけど…」
倒れた? ああ──そうか。思い出し、意識がさらにクリアなものになる。
『ぼく』に会って、動けなくなって、酷い吐き気がして、身体が凄く熱くなって……
結局そのまま気を失ってしまったらしい。傍から見ていたらさぞかし危うく見えただろう。見ず知らずとはいえ、誰かが急に倒れたら驚く。
「大丈夫、です」
喉が渇いてか、いつもより低くかすれた声だった。
身体のほうは重いと感じるくらいで他はなんともなさそうだ。立つときにふらつきはしたものの、もう動ける。
「本当に救急車とか呼ばなくていいんですか?」
女の人の申し出を丁重に断り、丁寧にお礼を言うと、ぼくはトイレへ向かう。額に手のひらを拭うと、べっとりと脂汗がついてきた。顔でも洗わないと気持ち悪 い。
各関節にアンクレットでも入れられてしまったかのように重い身体を引きずるようにして歩く。
赤い人が描かれたほうの入り口から入り、洗面台の淵に手と体重を乗せ一息つく。
顔を洗えば少しはよくなると信じ、前かがみになって蛇口に手を伸ば────

──?

間違いがあった。
それもとんでもない規模で、クイズならすぐに見つけられるような難度の。
少し前まで、ぼくはストンとした体型だった。間違いはない。なにしろ測ってもらったばかりだ。数値だって言える。
でも、いまのぼくは──
「大きい…?」
見るからに違っていた。膨らみを手ですっぽり隠せる程度の大きさだったものが、手に収まりきらない。
見事な凹凸ができていた。ぶかぶかな服を着たところで絶対に隠し通せない『山』が二つ連なって胸の位置にある。
「…………」
何も言葉が出てこない。
(そうだ! 顔は!?)
ハッと思いついて顔を上げる。
鏡に自分の姿が映る。
「うそ…………」

別人が映っていた。

今朝見たのとはまるで違う『女』の容貌。
誰? と思ってよく見てみると『元の自分』の面影があった。でも面影だけ。
見る人が見ればぼくだとわかる。けど、それは間違っても『男のぼく』ではなかった。
他人のいうところの中性的、ぼくのいうところのどっちつかず──な顔は完全に『女』の側に傾いていた。
声も心なしか高い。

誰がこんなことをした?
疑問が自然と頭の中に浮かぶ。

決まっている──『ぼく』だ。

3日前、『ぼく』に会って、ぼくは変わらされてしまった。
そして今回、やはり『ぼく』に会って……この様。
確信するには十分すぎた。

すべての元凶は『ぼく』だ。

まだ心のどこかで、この一連の出来事は偶然の産物ではないだろうかと思っていた。
けど、ここまできてまだそんな痩せた考えを押し通そうとすることは、生ぬるく甘いと言わざるをえない。
ぼくという状況証拠がある以上、推定無罪はもうありえない。
と、ひとつの可能性に思い当たる。
(『ぼく』に会わなかったらこんなことにはならなかったのかな)
避け続ければ、あるいはこの事態からは逃れられたのかもしれない。
──でも、会わなければ元に戻る手立てはわからないままになる。
どの道、こうなることは避けられないようだった。
そう考えれば少しは諦めがつく………………
(わけないよなあ……)
思い直して、改めて全身を確認する。
いまのぼくは、顔や胸どころか全身変わってしまっているようだった。
まず髪の毛は襟足が伸びて肩にかかっていた。お尻は余裕で入っていたはずなのにキツキツだ。腿のあたりも窮屈感がある。
何より一番大きかったのは、ぱっと見『丸みをおびた』感じになっていることだった。
保健の授業で習ったことがある……たしか二次性徴後の女性の体つきだ。
「女が、『進行』した……?」
本来長い時間の流れで起きるはずのことが、こんな短時間に劇的に変わるのはありえないことだ。でも2度目で、最初に男から女になるという大きな変化を済ま せてしまったということもあってか、ショックは前ほどは大きくなかった。
慣れというのは恐ろしい。
(それにしても『進行』させる『ぼく』はいったい何者なんだろう?)
超能力者? お化け? 宇宙人?
思いつく、実行可能な特殊な職種(?)の人たちは、どれもがそれらしいようで嘘っぽかった。

顔を洗ってトイレを出る。落ち着いたのか身体の重さはそれほど気にならなかった。
「ちょっと重いかな…」
それとは別に胸が気になる。明らかに重いのだ。バランスが崩れるほどではないけど、重心が少しだけ違う。
そして、大きくなったということは。
「すみません、もう1回サイズ測ってもらえますか?」
成人式くらいまでないと思っていた次の採寸は、驚くほど早くにあった。
それどころじゃない事態だとは思うけど、それが採寸しない理由にはならない──母さんならきっとそう言う。そのつもりで母さんも来てるし、目的を果たさな いまま帰るなんてたぶん……いやきっとできない。
「そんな場合じゃないと思うけどね……」
一、士道に背きまじきこと、ではないけど、敵前逃亡はいつの時代でもできないようだった。

------------

「はい、もう着られて結構ですよ」
店員さんの鉄壁のはずの営業スマイルは崩れかけ、そんな馬鹿なことがあってたまるか、みたいな心情が見え隠れしていた。
「すぐに成長しますよ」と言っておきながら、まさか1時間も経たないうちに成長されるとは思いもしなかっただろう。コントかギャグの域だ。
「さきほど来られたのは妹さんですか?」と聞かれたのも無理からぬことだった。
それでも仕事はきちんとこなす、プロフェッショナル精神。
今回、そのプロから告げられたサイズは、
「B、ですか?」
「はい、お客様のカップサイズはBとなります。といいましても、BとCのちょうど中間ですが。お客様がお望みでしたらCでも結構ですよ」
「い、いえ……Cでいいです」
バストのサイズはいきなりの1段階アップ。逆にウェストは細くなって、ヒップはやはり増。
着ているTシャツは胸で持ち上がっていたしデニムも締め付けられる感じがしているので、かなりの変化があったとは思っていたけど、さすがにこれはいきすぎ だ。
それに店員さんに指摘されて気づいたことがあった。
背が低くなっているのだ。
さっきまで同じか、ぼくが少し低いくらいだったのに、いまは目線が明らかに違う。
男女で平均身長に差があるとはいえ、身長まで下げる必要があるのかどうかは謎としかいいようがない。……ただでさえ低いというのに。
「こちらがそうです」
当然ながらさっきとは違う並びに案内された。
でもやっぱり選択肢は無限と思えるほどにあるわけで。
「あの……いくつか見繕ってもらえませんか?」
勇気を振り絞って助けを求める以外に、この広大な下着の海から目的のものを見つけ出すことは、火ネズミの毛皮を探してくるのと同じくらい無理なことだっ た。
「これなんかどうです?」
こうなると店員さんは完全にペースを取り戻し、次々に薦めてきた。
新作です。いま人気の。可愛いデザインが注目されて。
営業トークは冴え渡る一方で、女性用下着について何も知らないぼくは素直に頷くしかなく、どれもが良いものに思えてくる。
結局。
上下揃いのを4着買うことになった。
白色のシンプルなデザインのと、水色と白のシマシマ(ストライプ?)のと、レースというのだろうか、ヒラヒラのついたのと、
「なんでこんなの買っちゃったんだろ……」
黒。
無駄とさえ思えるほど精密な刺繍が施された真っ黒の下着。
もちろんぼくが希望したわけではない。絶対にない。
店員さんのセールストークにわけもわからず頷いていたら、そのなかに紛れ込んでいたのだ。紛れ込まされた、といったほうが適当かもしれない。
でも、買ったからといって絶対に絶対に着けることはない。あってたまるか!
「それにしても……もっとシンプルなのはなかったのかな。リボンとか花の刺繍なんての要らないのに……」
デザイナーに文句をいうつもりはないけど、オーソドックスなタイプの下着にはワンポイントとしてリボンがついているのが多く花柄の刺繍もよく見かけた。
下のほう──専門用語でショーツと言うらしい──も上のほうも。
ぼくとしてはなるべく何もないのがいいのに、そういうのはないようだった。
「若い方は可愛いのをよく買われていきますよ」と店員さんに言われた通り、何もついてないとスルーの対象になるのだろう。価値観の違い。
「ありがとうございました。またお越しください」
店員としての本懐を遂げ、物凄い笑顔になった店員さんに送られ、下着売り場を出る。
警備員のかわりにアマゾネスが弓を構えて守っていたとしても驚かない女性の絶対的領域を抜け、なんか達観した気分になっていた。
手には紙袋。中にはさっき買ったばかりの3着と、来るとき着けていたけどサイズが合わなくなってはずした旧・下着が入っている。
(…それにしても)
夢の中で行動しているかのように現実味のない買い物だった。目が覚めたらそんなものは買ってなかったとしても、ああそうかで済ませられるような。 
ともあれ、最大の用事は済んだ。
足早に売り場から離れる。中年男性とすれ違ったけど、ぼくを見るなり慌ててどこかへ行ってしまった。やっぱりここは『よそ者』は排斥される場所だ。
(もう二度と来たくない…)
ぼくの中での、ジェットコースターと観覧車に並んで近づきたくないリストの上位にランクインしたのは間違いなかった。

エスカレーター横に設置されている椅子のところに母さんがいるのを発見する。
用事が終わったことを言いにいこうとして…………足が止まった。
「どう説明すればいいんだろ…」
ここまで変わってしまっては隠し通すのは100%無理だ。かといって正面きって話すのも気が引ける。
母さんの視界に入らないよう遠回りしつつ、声のかけ方と話の切り出し方を考える。
もしかしたら卒倒してしまうかもしれないので、いまのうちに救急車も呼んでおいたほうがいいかもしれない。
エスカレーターをぐるっと迂回して背後に立つ。
相手が13の名のつく殺し屋なら殴られても文句のいえない立ち位置だけど、いきなり目の前に現れるよりはぼくも母さんもショックが少なくて済むぶんマシ だ。
「か、母さん…?」
紙袋で胸を隠しながら声をかける。顔は俯かせたまま。
「あら、陽ちゃん。もう終わったの?」
「うん。一応ね……」
二の句が継げない。
勇気を奮い立たせる。虹の彼方の魔法使いに頼らなくても勇気なんかどうにでもなる。
ただ一言口にすることなんて大したことでもない。そう、大したことでは全然ない。別に愛の告白をするわけでもないのだし。
「ねえ、母さん…」
「どうしたの?」
顔を上げ紙袋をゆっくり下ろす。現れる二つの山。

「成長…………しちゃった……」

何故か乾いた笑いがこみ上げてきた。この不幸な境遇についてなのかギャグみたいな展開についてなのかはわからない。どちらにしても所在なさげな笑いという のは事態を好転させることなんてできないのは確かだった。
「陽ちゃん…………ちょっと見ないうちに可愛くなっちゃって! これならどんなお洋服でも似合うわね」
……どうやら母さんにとってはまったく問題にならないどころか、むしろ嬉しい出来事だったようで。
下着売り場には及ばないものの、男払いの陣が敷いてある婦人服売り場への扉は、母さんという案内人を得て大きく開け放たれ、ぼくを待ち受けていた。


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