「少し顔が青いようだが、やっぱり恐いか?」
「そのような事はない。ただの光の加減でそう見えるだけであろう」
 目の前で自分を覗き込む男に対し、努めて平静を装って答える。
だが、装っているというのを意識している時点で、それは嘘という事になる。
 無様だ。これではその言葉を肯定したようなものだ。そして、自分が今だそのような感情を持ちえている事も。
 あの日を最後に心は捨てたはずだった。自分はモノであり、感情のない人形のようなもの。道具に心なんか必要ない。
 だが今更ながら心を完全に捨て切れていないのだ。
不安とか恐怖とか、そんな感情が僅かに心を刺激しているのが自分でもわかる。
 何故ならこれから行われるのは――――
 私の名はレスター・エルフォート、王国第一王子…………いや、これは捨てた名と地位だ。
 この大陸で人間族の住む我が王国と、その隣国であり、今現在私がいる魔族が住まうこの国は、
大規模な争いは無いまでも地域的な小競り合いが耐えない、事実上の敵対種族であり敵対国家とも言える関係を保っていた。
そんな状況に変化が訪れたのは3年前、海の向うよりの甲虫族の侵略によってである。
 話し合う事すらできぬ種族からの突然の不意打ち、それに壊滅的な打撃を受けた両国には、
もはや手を取り合う以外に助かる道は残されてはいなかった。
 必然が生んだ和睦による併合、しかしその中身には多くの複雑な感情を内包する。
国が妥協したからと言って、それまで敵対していたとも言える相手を簡単に信用できるわけがないのは当然だろう。
だが、両者がいつまでも争っていては、国だけではなく種の存亡の危機となる。
 だから我が父である人間族の国の国王は、その解決を急務と考えていた。
我が父王は、国政に一切私情を挟まぬ現実主義者である。 幼き頃に母は亡くなり、その顔すら知らぬ私にとって親は父のみ。
しかしその父に私は親の感情を、見出した事はない。父は何時も王であり、決して”父親”となる事はなかった。
 そしてそんな父王が行った今回の政策…………親の愛情など微塵も見せぬ父なればこそ、可能であったと言うべきか。
 それは両王家を統一し、新たな王家を作るというものだった。
 内容だけなら決して悪い手段ではない。
むしろ一つの国に二つの政治中枢たる王家が存在する事が、国家を本当の意味で統一できていない理由だったのだから、
理に適っていると言える。
 問題はその権力の行き先である。当然だが一方の種族に偏りがあれば、もう一方に禍根を残す。
そこで父王が考えたのは、両王の子を婚姻させて、その権力を託し新たな王家を作るという事実上の政略結婚による方法だった。
もはや種族の存亡をかけた状態なればこそ、魔族の王も時間を置かず同意した。そして国家の事情は国民だって理解している。
一部生粋の純潔主義組織の抗議が僅かにこそあれ、国民も概ねそれを必然的なものだと受け止めた。
ほぼ国の総意として婚姻の儀が行われたのが本日。
戦時ゆえに派手な催しこそ無かったが、新たな国家を祝い国中が久し振りに祭り気分に酔いしれた。
 そしてその夜が今。
つまり私が魔族の王子…………いや、今日をもって新たな国家の王となった男の寝室にいるのはそういう事なのだ。
「まあ率直に言わせてもらえば、正直安心したってとこなんだがな」
 ぶっきらぼうに答えるこちらの態度を気にもしない素振りで、新たな王となった魔族の男、そしてあまり考えたくはないが、
私の”夫”となった男であるヴァルター・ウェルハイゼムは勢いよく部屋の隅のソファーに腰掛けた。
「長年王子として育てられたお姫様なんて、今時じゃあ御伽噺にもならんような話だ。
そんなヤツが突然俺の嫁になるってんだから、どんなやつかと不安にもなるさ」
 大げさに肩をすくめ、彼は自分の心境を何か嬉しそうにアピールする。とはいえそれは彼の偽らざる本心だろう。
当然ながら国家の併合における政策という抗えぬ力に巻き込まれたのは私だけではない。
彼も解釈上当然”犠牲者”の立場にあるのだ。

しかし…………
「だが、あっさり一目惚れさせられちまった立場としちゃあ、経緯なんざクソくらえ。
とりあえず俺には反対する理由は現時点で存在しねぇ……ってな」
 白い歯を見せてヴァルターが笑う。少なくとも彼は自身の境遇に不満を抱いてはいない。
結果論だが、彼にとって私は一応伴侶として娶るに足る存在なのだろう。
 同じ経緯で同じ場に立たされた者でありながら、なんという境遇の差か。
対して私は、この婚姻を前に、人間としての終焉を考えたのだから。
「そうか。私のような政略の道具に愛情を抱くなど、貴方もつくづく見る目が無いものだな」
「そのひねくれっぷりが無ければ言う事ないんだが…………」
 私の皮肉にヴァルターは心底呆れたように溜息を付く。
内容は確かに彼への皮肉、しかし実際には自身の境遇にあてた自分自身への侮蔑の言葉だった。
「そう、私は道具だ。幼少から病弱であり父にも国にも顧みられる事なく、国政安定のためにあっさりと見切られた道具なのだ。
それ以外の何者でもない」
 口調も変えず、ただ自分の立場を淡々と言葉にする。何故なら感情など、とうに捨てたから。
「あのなレスティアーナ王女、そりゃ悲観的すぎるってな……」
「その偽りの名を持つ道具を当てがわれて満足などとは滑稽だ。
貴方もご存知なのだろう? 私は一月ほど前まで、王位のため女の身でありながら男として育てられてきたのだ。
だがそんなものはこの婚姻のためにあっさりと捨てさせられた。
20年近い月日を男として過ごしておきながら、
今更女として生きろなどと過去の全てを否定された私が、道具でなくてなんだと言うのか!」
 自虐の言葉は止まらなかった。
私の中にある鬱屈した何かがそうさせたのか、毒のある言葉を吐くごとに自虐めいた笑みで顔が引きつる。
椅子から立ち上がって何かを言おうとするヴァルターの言葉をひたすら遮って、私はただ自分と彼を侮蔑し続けた。
 夜の寝室に響くヒステリックな声に導かれる澱んだ空気、そんな状態が何時続いただろう。
突然私は頬に衝撃を受け、そのまま床に倒れた。
 ヴァルターだった。先ほどの陽気な雰囲気は影を潜め、今の彼はただ無表情にこちらを見下ろしている。
彼が私に平手を放ったのだ。
 痛みはあった。だが随分前から感情を捨ててしまったが故か、苦痛で顔を歪めることも涙を流す事もなく、
私はその痛みを感じなかったかのように無言で立ち上がる。
――――何も感じない。まるでそう宣言するかのうように、同じような無表情で彼の前に立ち、そのまま視線を返した。
意図した訳ではないのだが、それは事実上の兆発行為だ。そんな私の態度に触発されたヴァルターは、再び手を振り上げる。
しかし彼の手が再び私の頬を打つ事はなかった。
ただその瞬間を覚悟していた私の前で、彼は静かに手を下げたかと思うと、再び先ほどまで座っていた椅子に静かに腰を下ろす。
 私には突然の彼の行動の意図が掴めなかった。
その不可思議な行為の意図を知ろうにも、彼は深々と椅子に腰掛け、無言で私を見上げているだけ。
 そして彼は、顔色も変えずに唐突に口を開いた。
「脱げ」
「な、何を!?」
「服を脱げと言った。いや、今お前が身につけているもの全部だ。裸になれと言ったんだ」
 突然の要求に、言葉を理解できず思わず口が詰る。いや、意図以上に要求行為の内容がこちらの理解を鈍らせている。
「いきなり何故そのような事を? だいたいそんな……」
「ほぅ、自分で人形だ道具だと言う割には、いっぱしに意思主張するんだな」
「…………!!」
 彼の言葉が私の胸に突き刺さる。私は思わず反論しようとして、そのまま言葉に詰り俯いてしまう。
だが、確かに彼の言う通りだ。”それ”はすでに捨てた私自身に相対するもの。
――――今更何を恥かしがる必要がある。
 そう自分に言い聞かせ、自身の中にわだかまる”それ”を押し殺し、私は着ているドレスに手をかける。
この日のために多大な金と職人の腕が注ぎ込まれた純白のドレス。しかしそんな事実は今の私に何の意味も成さない。
いささか乱暴に、そして躊躇なく私はそれを脱ぎ捨てた。
 だが、その手が下着にかかった途端、意識せず動きが止まってしまう。
「どうしたい姫様? やはり……」
「うるさい!」
 心を見透かしたかのようなヴァルターの言葉を怒鳴って無理矢理押し留め、私は覚悟を決めて胸着を脱ぐ。
今だ自身のものと思えぬ胸の脹らみが露わになるが、それがどうしたと言うのだ。
そのままの勢いですぐさまショーツに手を掛ける。が、またしても心の中に残っている何かが手を止めてしまう。
見るとヴァルターはふくみ笑いでこちらを見ていた。
「くッ!!」
 その人を見下したような笑みに怒りを覚え、私は掛かった手を一気に足先まで下げてそれを抜き取った。
そしてどうだと言わんばかりにヴァルターの方を見返す。しかし彼は、その笑みを止めはしなかった。
そして笑ったまま私の顔を見て口を開く。
「顔、赤いな」
「そ、そのような事はない! そんな感情など……」
「じゃあ何で胸と股を手で隠してんだ?」
 彼に指摘され、私は自分で無意識のうちに手で体を隠していた事に気が付く。
確かにこれでは羞恥に脅えていると自身で主張しているようなものだ。
私はその手を下げてそれを否定しようとした。しかし、何故か手が震えて動かない。
「ま、強がっても所詮はその程度か」
 再び兆発の言葉が浴びせられる。単に私を侮蔑したいのか、それとも他に意図があるのか。
だがそんな事よりも、純粋にそのような態度が我慢ならなかった。怒りを糧に私は手を動かし、彼の椅子の前で仁王立ちになる。
「だ、黙れ! こ、これで文句はなかろう!!」
 明かに顔が熱くなっている感覚があるのを黙殺し、私は彼を睨み付けた。
しかしそんな私に彼は何をするでもなく、ただこちらを無言で見つめるだけ。
――――脱がせたからといって何するわけでなく……愚弄する気か!
 そんなヴァルターの態度が気に食わぬものの、口に出すわけにはいかなかった。それはモノたる自分のすべきことではない。
 部屋に差し込む月明かりが私の体を照らしている。そしてそれを椅子に座ったまま無言で見つめるヴァルター。
そんな異様な光景の中で、しばし互いに無言のまま時が過ぎる。
 そしてその沈黙を、ヴァルターの一言が破った。
「……綺麗……だな」
「何と?」
「綺麗だと言ったんだよ。俺の目の前に立つ、お姫様をさ」
 間抜けな事だが、私は少しの間を置いてから、ようやく彼の言った言葉の意味を理解した。
何故か途端に動悸が高くなり、顔が熱くなる。予想もせぬ言葉と身体状態の急変を、私は慌てて否定しようとする。
「な、なにを唐突に! 私のような者がそのような事を言われる理由は……」
「お前、すげぇ良いオンナだぜ。理由なんざいくらでもある」
 私の言葉を遮り、ヴァルターは語り続ける。
「その整った顔立ち、水が流れるように腰まで伸びたブロンドの髪、水晶のような青い瞳に薄い桃色の唇」
「そ、そんなものは……」
「その白い肌に、熟れた果実のようにバランスの良い胸、細い腕にくびれた腰」
「やめっ……言うなっ!」
 何かえもいわれぬ感情に押され、私は彼の言葉を止めようとする。
そして無意識のうちに再び体を両手で隠そうとするが、彼の言葉は止まらない。
「腰から尻、太腿に続く流れるようなラインに、すらりと伸びた足、きゅっと締まった足首」
「やめろと言ってる! それ以上言うなぁっ!!」
 言葉で自身の体の事を言われるたびに、いくら拒否しても否応なく意識させられる。
そしてその事が、私の中にあってはいけない感情を脹らませるのだ。
思わず私はヴァルターを怒鳴り、そのまま胸と股を手で隠し、屈み込んでしまう。
 体が熱かった。そして何よりも動悸が激しくなったまま収まらない。認めたくないが、もはや否定が不可能な状況。
そう、私は自身の女を意識させられ、そしてそれに羞恥を感じているのだ。
物である人形が絶対に持ちえてはならない”感情”だ。その情けなさと悔しさが、余計に私の中の羞恥を掻き立てる。
 そんな私に対しヴァルターは、椅子から立ち上がって目の前に屈み、私の肩に手を置いた。
「とても、禁呪で女になった元・男には思えねぇ」
「なッ…………!!」
 彼の言葉を聞いた途端、私は絶句する。
そのまま顔を上げ言葉を発しようとしたが、突然彼に抱き抱え上げられ、そのまますぐ横のベットに投げ出された。
 いきなりの乱暴な扱いに思わず手が出そうになったが、すぐに思い止まる。
ゆっくりと体を彼の方に向け、ベットの脇に立つ彼を見上げた。
「知って…………いたのか?」
「逆に聞きたいね。
魔術に対し人とは比較にならぬ深き知識を持つ我等種族、
そして我が……いや、元・我が王国の情報収集能力がその程度だと本気で思っていたのか? とね」
 ヴァルターは先ほどまでと違い、悪戯の種明かしをする子どものような屈託の無い笑みでこちらを見ていた。
状況的な優越感がそうさせているのだろう。
「王族が継承権なんかのために、娘を息子として育てるなんてのは確かにある事だよな。
だけど、お前さんがそれを演じるには、レスター王子ってのはあまりに知られすぎてた。
そうじゃなくとも我等が盟約で禁止されてる禁呪が発動されたなんて場合は、
たとえその場にいなくとも王宮の呪術監査官ならわかっちまうもんなんだよ」
 ヴァルターは嬉しそうに話しているが、こちらは完全に血の気が引いていた。
それは、絶対に知られてはいけないはずの秘密が完全に知られているから。
そして何より、彼の言っている事が紛れも無い事実だからだ。
 そう、彼の言っている事は正しい。
私は男として育てられた女などではなく、少なくとも一月ほど前まで、私は身体的にも確実に男だった。
 当然これは、国家併合に際しての父が目的としたものを導くための手段がもたらしたものだ。
双方の国民に不満なく両王家が一つになるとするならば、婚姻は最上の手段・理由となりうる。
しかし両王家の後継者が男子であった場合、当たり前だが婚姻による統合などできるわけがない。
本来ならその段階で次を考える事にし、不可能な手段に執着する理由などない。
だが数年前まで戦乱にあった両国を納得の上で併合させるには、これしかないと父は考えていた。
本来ならば取れるはずのない手段、それを父はイレギュラーな方法で実行する方法を思い付く。
それは禁呪に分類される魔術を使用し、私の性の反転させる事だった。
 平時ならば狂気の沙汰と言われ、決して実行できなかっただろう。しかし切迫した状況がそれを可能にした。
私はその事を知らされもせずに、あくる日王宮の魔術儀式祭壇に束縛された。
淡々とすすむ儀式の最中、私は何度制止を求めただろうか。だが、それは聞き入れられなかった。
そして何よりも皮肉なのは、その禁呪を施した者が、幼馴染で4つ年上の宮廷魔道士エリシアであった事だ。
母がなく、父があのような国政にしか耳を傾けぬ存在であった私にとって、
彼女は姉のような存在であり、なにより王宮で一番心を許していたのが彼女だった。
その彼女ですら信用にたらぬというのであるならば、私にとって世の中は、
信用がおける他人というものが一切存在していなかったに等しい。
 国に捨てられ、信じていた人に裏切られる。それは私という個が壊れるに十分な理由だった。
あの日から私は”姫”としての生き方を強要された。
そして何もかもが信用できなくなった私には、もはやそれに抗うだけの気力や心理的執着など既に無かったのである。
 あの時から私は、“人”を捨て、国の存亡のための道具である“人形”となった。
「知っていたのなら、何故貴方は私を受け入れたのだ?
このような婚姻、貴公の立場であれ納得行くものではないのではないか?」
 こちらを見下ろすヴァルターに、私は一番の疑問を率直にぶつけてみる。
すると彼は、困ったように頭を掻いて視線を反らした。
「まぁ、最初にお前と会った時には、そんな裏事情は知らなかったワケだ。
その後で知った時には確かにふざけんなって……思ったわな」
「ならば…………」
「だがな、俺は男のお前なんてのは知らなかったワケだ。
俺にとっては会った時からお前は女だったし、ましてや初見で惚れちまった身としては、
後でいくらお前の過去の記録やら何やらを見聞きしようと、俺には“レスティアーナ姫”の姿しか浮かばなかったんだよ」
「それは事実ではない。その事は貴方も理解しているのだろう?」
「会って惚れる前に知ってりゃあ、結果は違ったのかもしれんがね。だが、幸運なのか残念なのかわからんが、順序は逆だった」
 何かバツが悪いように再び彼がこちらを見下ろす。極めて複雑な気分ではあるが、彼の言う理由は確かに納得できなくもない。
彼は“女”の私しか知らぬから、彼にとっては私は初めから女以外の何者でもないという事。
男であった私が事実として存在しないのだ。
「ま、そういう事だ。納得できたか?」
 軽い口調は多少の照れ隠しの部分があっての事なのだろう。しかし私はその言葉に、彼の主張とは別の意味を見出した。
「そういう事ならば何も言わない。
私という存在は中身のない人形、初見で惚れたというのはこの肉体の器に好意を抱いたという事なのだろう?
ならば良い。中身にも期待していたのなら、貴方を絶望させるだけだったろうからな。所詮は……」
 どこか攻撃的な口調で私は再び自棄の言葉を呪詛のように吐く。
いや、自棄とは言うが半分は彼をも皮肉ったものである事を頭のどこかで理解していた。だが、言葉は止まらない。
どこか甘くなりかけた空気を再び凍り付かせた私に、彼は目を細める。
 そして彼の言葉が私の語りを遮った。
「だがそいつは理由の一つでしかない。本命は別だ」
 先ほどの多少はぐらかすような口調と違い、今度は明かに真剣な口調でこちらを見る。
「それは、何だ?」
「そいつを今から……教えてやる!」
 私の問いに答えるが早いか、突然ヴァルターはベットに横たわる私の上に覆い被さった。


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