カーテン越しの光が螺旋を描いて部屋に落ちる朝、香織は懐かしい我が家の懐かしい自室で目を覚ました。素っ裸のまま、勝人に抱きしめられて。

 ダブつき気味で寝にくいと脱いでしまったマタニティナイティもじきに慣れるだろう。張り出し始めたお腹もやがては抱えるようになるだろう。
 そして、いつかはウェディングドレスを着て、この人と──勝人とヴァージンロードを歩くのだろう。儚い夢のようなアヤフヤなイメージで香織は幸せを感じ ていた。

 ややあって目を覚ました勝人と共に居間へ降りていく。タワーでの生活では朝型の生活だった関係で、6時には既に通常活動モードになっている。
 香織の家族は7時から動き始めるのだろうか? いまだ寝息がドア越しに漏れ聞こえていた。

「散歩に行こうよ」

 そういって香織はジャージに着替えた。普段着を何も持ってきていない上に、自宅ではそのような物が一切無い関係でそれしか着る物が無かった。
勝人もジャージに着替えて二人で家を出る。早朝の空気を浴びながら二人はボチボチと散歩モードに入った。
 昔、よく二人でボールを追いかけた公園を横切り、小学校へ続く坂道を歩き、高台の中学校から町を見下ろし、下り坂沿いの商店街を抜け、
いつか二人のどちらかが……と話した協会の前へと到着した。

「勝人、覚えてる?」
「言わなくても分かるよ……高橋だろ」
「……うん」
「あいつはお前が好きだったはずなんだよなぁ」
「そうなんだ……」
「俺の勘違いでなければ」
「じゃぁ……」

 そこまで言って言葉に詰まった。
 二人の前にセーラー服の女子高生が姿を現したからだ。

「おはよう……」
「あぁ、おはよう」
「久しぶり、ね……」
「うん」

 ジャージ姿の二人を見るセーラー服姿の女子高生。
 泣きそうな笑い出しそうな、複雑な表情で立ち尽くしている。

「高橋……」
 勝人は精一杯の声を出した。
「川口、さん……よね、おめでとう……」
 高橋と呼ばれた女子高生はそれだけ言って走り去ってしまった。香織の悲痛な表情が勝人には痛いほどだった。

「勝人! 彼女を追いかけて! 最悪に嫌な予感がする」
「わかった!」

 そういって勝人は高橋と呼ばれた女子高生を追いかける。香織も走りたかったのだが、足が思うように前に出なかった。
 油断していたとはいえ俊足のスピードスターだ。風のように走っていく勝人は少し走って難なく高橋を捕らえた。

「ちょっと待ってくれ」
「私は邪魔でしょ、邪魔なんでしょ」
「なにがだよ」
「だって川口、さんは……」
「高橋……」
「彼は大変な役目を背負ったの」
「……」
「私達だけではまかないきれない事をやっているのよ!」
「だからなんだって言うんだ!」
「女の数が足りないんじゃなくて、女しか出来ない事を出来る人が足りないの」
「俺だけじゃない、みんなの問題なんだ!」
「だからお願い。あなたが彼を支えてあげて、お願い……」
「お前はどうするんだよ」
「私の事は忘れて」
「忘れられるか! バカな事言うなよ!」
「私がいると彼が傷つくのよ。私は役に立たない生まれながらの女だから」
「そんな事無いだろ……」
「だって子供なんか生みたくないもの!」
「え?」
「遊んでいたいし働きたいし広い世界を見たい! 子供に構ってる暇なんか無いのよ」
「高橋……」
「なんで女だけがそんな思いしなくちゃいけないのよ!」
「女しか生めないんだから仕方ないだろ!」
「だから彼はああなったの! 私が変わってあげられれば、彼は……彼は……」

 そこに香織が追いついた。息を切らせる事は無いものの、やや荒い息だ。

「ダメよ妊婦が走ったら」
「そんな事ないよ。それより……」
「良いの、私の事は忘れて! そして役目を果たして……」
「……高橋」
「私の好きだった人はもうどこにも居ないの! だから忘れて!」

 そう叫んで高橋は再び走り出した。勝人が精一杯伸ばした手を振り解いて走り出す。
 香織が何かに気が付いて、あっと叫んだが既に手遅れだった。高橋と呼ばれた女子高生が走り出した先には、たまたま通りかかった車がいい速度でやって来て いた──

 ドガン!

 鈍い音と共にセーラー服の女子高生が空を舞う。ポカンと口を開けて見るしか出来なかった香織。勝人もワナワナしていたが直ぐに駆け寄って体を抱きかかえ る。

「高橋! しっかりしろ! 誰か! 誰か救急車呼んでください!」
「嘘でしょ……美夏……嘘でしょ」
 駆け寄った香織も青ざめて立ちすくんでいる。

 うっすらと目を開けた美夏……香織から美夏と呼ばれた女子高生は、何かを言おうとして口を開いたが出てくるのは真っ赤な鮮血だった。内臓へのダメージが 相当大きいようだ。

「勝人! 上半身起こしちゃダメ、内臓がやられてる。口に指を入れて気道を確保!」

 そういって香織は何かを思い出したようにポケットをまさぐった。出てきたのは小さなポケットティッシュだった。

「これで口の中の血を吸い出して!」
 そういってティッシュを数枚抜き去り勝人に渡すのだが……
「香織……ダメみたいだよ……」
 そういって勝人は首を横に振った。
「嘘…美夏…嘘って言って…」
 香織は泣き出してしまう。女子高生をはねた若いドライバーは茫然自失で立ち尽くしていたのだが……ややあって各方面へ電話を入れ始めた。
曰く、女子高生をはねてしまった。多分死んでる……俺も、ダメだと思う……今までお世話になりました……と。

 この時代、女性の存在がどれほど貴重であるかは言うまでもない事なのだろう。新たな生命の誕生を導けるのは女性だけなのだから。
 未婚のしかも未出産の女性をいかなる理由が有るにしろ殺してしまった場合、加害者側に降りかかる容赦の無い社会的制裁は恐ろしいほどのものがある。
 この場合、ドライバーの被る責任は……かつて香織や沙織が暮らした施設の内部に居た、女性化男性達を思い出せば分かるかと思う。

 10分ほど待たされて救急車が到着した時、既に美夏は自立呼吸が止まり心停止状態だった。
救急隊員の懸命な心臓マッサージと強心剤の投与により、心臓の活動は再開したが自立呼吸は行えず、そのまま救急救命センターへと運ばれていった。
警察官が到着し現場検証を始めるのだが、そこへ橋本も駆けつけた。

 警察官の尋問が香織に及びそうになり橋本がそれを遮る。TS法における母体保護最優先の原則条項第3項により、TSインスペクターによる黙秘権の代行発 動を宣言します。
そういって香織を車に押し込んでしまった。ねちっこく嫌がる警察官に対し橋本は言う。
「母体不良となって出産に障害が及んだ場合、あなた達の両方ともが出産を代行する義務を負いますが、それでもよければドアを開けます。どうしますか?」 と。

 調書作成のため簡単な尋問を受けたあと勝人も車に押し込まれた。二人は押し黙ったまま言葉を発する余力すらないようだ。

「早朝の散歩がとんだ事態になってしまったが……彼女は助かるよ、大丈夫だ」

 橋本はそういって笑った。その笑顔から嘘にしか聞こえないのだけど、頷くしかなかった。
ふと何かを思い出したように携帯を取り出した橋本はどこかに電話をかけている。
 話が繋がらないようで、何度も同じフレーズを繰り返しながら各方面へ事実確認を繰り返していたのだが──

「予想通りだ、彼女は一命を取りとめたよ。内臓全損で全治1年だが心配ない」

「内臓全損で生きてるモンなんですか?」
 勝人の質問は至極真っ当なものなのだろうけども、橋本の回答は実に単純なものだ。曰く、隣を見たまえ、と。

 TSレディを作り出す人工子宮の中に収めて遺伝子情報から体を再構築すれば、最悪の場合、脳さえ大丈夫ならその人は死なないよ、だそうだ。
 脳さえ無事なら……その言葉の意味する所が何となく不気味な現実を漂わせていた。
 橋本の車に乗せられて自宅へ帰ってきた香織達。どこからどう連絡が行ったのか家族が心配そうに待っていた。父親はうろたえているが母親は平然としてい る。
血を見てギャーギャー言うようじゃ母親業は務まりません、だそうだ。その姿に香織は少しだけ救われた気がした。

 朝食を済ませ弟が行って来ますと元気良く家を出て行った。その後姿を香織は複雑な表情で見ている。肩をポンポンと叩かれて香織は我に帰った。
 今更思い返しても仕方がない事なんだし……と、そんなところだろうか。
 食後は母親と並んで台所を片付ける。その仕草を眺める父親と勝人の二人。見事な連携で次々と皿が片づけられていく。

「あの片づけの苦手だった子がねぇ…」そう言って母親は笑った。その笑顔で家族みんながまた癒される。母親とは家族にとってそういう存在なのだろう。
 単に性転換して女性化しただけではない何かを、香織が身につけ始めていた。

 午前中の煩事が一段落すると総出で買い出しへ出掛けることになった。着の身着のままで出ていって人生が大きく変わった香織の身の回りの品を買い揃える。
下着類、普段着、よそ行き。女性用に設えられた可愛いハンケチや小さなトートバッグ、女性として生きていくのに必要な物が揃った。
母親は心から楽しそうな笑顔だ。
 そして最後に向かったのは衣装レンタルのお店。香織と勝人二人分の晴れ着を用意して近所の神社へと向かう。

「香織、あなたの安産祈願もここだったのよ」
「そうなんだ……」

 犬のお産は軽いからと、それにあやかる安産祈願。何時の時代も変わらない光景なのだろう。後から勝人の一家もやってきて皆で並んで香織の安産を祈る。
橋本の説明したTSチルドレン達の将来を二つの家族が知らないわけがないが、しかし、それとこれは違う事であってお産をする香織の身の安全を願うことでも あるからだ。
 ウチの嫁が丈夫で有りますように……皆に聞こえる声で勝人の父親は玉串を奉じる。

 その声が香織にも届いてまた癒されている。順調過ぎて困る事はないだろうが、それでも一波乱有りそうな気配を何となく感じている……

 家族総出の安産祈願が終わり自宅へ帰る道すがら、香織の父親が運転する車の後ろの席で勝人と詰まらない話をしていた時、入りの悪いラジオのニュースから 気になる声が聞こえてきた。

『今朝早く……ザザザザ……市の路上で通学……ザザザザ……女子高……ザザザザ……に跳ねられ重体となって……ザザザザ……
緊急搬送先の病院で再生処理に……ザザザザ……急変し死亡しま……ザザザザ……』

「うそでしょ……」
 香織は息を呑む。勝人も顔が引きつっている。車内の雰囲気が一気に重苦しい物に変わった。
母親が顔色一つ変えずに携帯を取りだしどこかに電話している。どうやら相手は橋本の様だ。

「橋本さんの話ではどうやら高橋さんじゃないみたいね」
「緊急措置室からそのまま再生処理室へ移行したそうよ、順調なんだって」

 その言葉が嘘か真実かを確かめる術は無い。ただ、ここまで全幅の信頼を置いてきた橋本の言葉を信じるしか方法が無いのも事実だった。
 彼女が──美夏がどうなってしまうのか……それを案じている香織は小さく震えている。
 1年経って体を再生しあのカプセルから出てきたらTSレディの学校だったりして……ふと、そんな事を想像し怖くなる。

 安産祈願の帰り道、まだ晴れ着姿の二人と両家族は皆で写真館に入った。
 両家族が揃った状態で記念の一枚を撮影する。さすがプロと唸るだけの一枚が仕上がってきて2組額装してもらうと両家が持ち帰る事になった。
未成年の子供が二人揃って安産祈願なら間違いなくTSだろう。写真館の親父も分かっている筈だが追求はしない。

 にこやかに笑う顔が印象的なのだけど香織の後ろの影だけが不自然に薄いのを勝人は気が付いた。多分ライティングの関係だろうと最初は思ったのだけど、段 々とそれが気になり始める。
写真をじっと見ている勝人に香織が声をかける。

「どうしたの?」
「え、あ、いや……う〜ん」
「ねぇ、気になるじゃん」
「いや……改めて見ると、綺麗だなぁって」
「……ばか」

 そう言って香織は赤くなって恥ずかしがっている。その仕草をみて勝人は笑いながら考えるのをやめる事にした。
 考えても結果が出るものじゃないし……そんな風に思っていたのかもしれない。

「遅くなったけどお昼にしましょうよ」
 勝人の母親がそう提案し、写真館を出て国道沿いのファミレスに皆で入った。
 この時期になると妊婦も食欲が回復し大体なんでも食べられるようになる。ただ、生臭い物と無駄に甘い物は避ける傾向にあるようだ。
 肉類魚類は無意識に避けてしまう香織の事も皆が配慮して、ヘルシーなメニューがテーブルに並んでいる。その事実ですらも香織には嬉しい配慮なのだが……

「二人はこれからどうするの?」
 誰ともなくそんな言葉が出てくる。
 香織は勝人を見つめる。勝人は何かを思い出したように答える。

「まずはヨーロッパに行こうと思います。それまでに実績を積んで実力を磨きます。そして向こうでプロ契約して香織と暮らそうと思います。
日本じゃ色々と変な目で見られるし……それに、そういう部分での多様性は向こうの方が寛容だと思うんですよ」

 皆は黙って聞いている。

「そして……今のこの子も次の子もTS学校に取られますけど、最終的には取り返して、3人目4人目も香織に頑張ってもらって、そして向こうで子供が一段落 したらこっちに帰ってきます。
その頃には僕も引退してるだろうし、指導者になってるかもしれないし……先の長い話ですけど、いまはそんなイメージで居ます」

 香織の父親が吹っ切れたような表情でそれを聞いていたのだけど、何かを思いついて言葉を選び、話し出した。

「まーくんもいつの間にか、男になったようだねぇ……なぁタケ、俺が思うに、香織の分の補償金やら何やらは全部手を付けずに置いといて、この子達の支度金 にしようと思うんだ。どうだろうね?」
「あぁ、グチがそう言うなら俺も賛成だ。母さんもそれでいいだろ」
「そうね、川口さんはどう思います?」
「私も香織やまーくんが良いと言うなら異論は無いですよ。ただ……」

 香織はちょっとだけ不安そうに言う。
「ただ、なに?」

「ただね、凄い金額だからね。財布の紐はしっかり絞めておきなさいね」

 そういって笑った。皆もつられて笑う。
 子供が出来たり夫婦ごっこしたりと、少しずつ大人へのステップを踏む二人だけど、お金の管理だけは場数でしかないのだろうから。
 母親らしい視点での忠告が香織には耳の痛いほどだった。
 そんな話をダバダバと3時間近くもファミレスでおしゃべりして解散となった安産祈願の日、香織と勝人は衣装を返却して楽な格好に戻ると今度は勝人の実家 へと歩いていった。

 ある意味で香織の嫁としてのデビューでもあるのだが……

「香織さんなら第2の我が家みたいなものよね」

 そういって勝人の母親は笑った。父親もつられて笑う。子供の頃から遊びに来ていた武田の実家。それ故にどこがどうなっているのか知らない訳がない。

「まだまだ女性らしい挨拶とかを学んでませんから」
 そういって香織はどうして良いものか迷ってしまうものの、紋切り型の挨拶だけはドラマの1シーンなどで見てるし、
そういう挨拶でいいんだろうと思って座敷に正座すると三つ指付いて挨拶する。

「まだまだ修行中の身故に不束者ですが、よろしくお願いいたします」

「ウチのバカ息子をよろしくね」
 母親は笑顔でそう答える。
「だれだって最初はレベル1なんだからな、よろしく頼むよ」
 父親もそう答える。

 16歳の少女が悲壮なまでの覚悟を極めて帰宅した故郷の地、ここで香織は第2の人生を歩みだした。

  ◇◆◇

「さて、夕食は何にしましょうかね。主婦はこれが大問題なのよ!」
 一人っ子で育った勝人の母親は、急に娘が出来たみたいで楽しくて仕方がない。
 それを分からない訳ではない香織だからこそ、うまく相槌を打って楽しそうに振舞う事も重要なのだと理解している。

「妊婦が食べられるものって限られるのよねぇ」
「かあちゃん、俺トンカツ食いてぇ」
「……香織さん、ウチのバカ息子許してね」
「なんだよいきな…り…」

 クルっと振り返った母親が悪魔も裸足で逃げ出すような鬼の形相になっている。

「このバカ! 妊婦は脂っこいものダメなの! あんたは本当にデリカシーってもんが……」

 母親は今にも俎板で息子の頭をぶっ飛ばしそうな勢いだ。父親も相槌を打つ。

「このドラ息子! とーちゃん情けなくて涙出てくら!」

 ポカーンとするしかない香織だが──

「ほら、食べたいもの言ってもらったほうが楽だし、それに……」

 勝人の両親が香織を見る。香織は一瞬怯んだけど気を取り直して言う。

「学校では試合の前日はゲンを担いでトンカツでしたから」

 明日は大安吉日の良日と言う事で婚姻届を出す予定になっている。それを勝負と香織は見立てたのかもしれない。
 さすがに小さい頃から頭の回転が素晴らしく早い子だったからねぇ……両親はそう思った。
 旦那の顔を立てる理想的な女房じゃないか……ウチのバカ息子にはもったいないなぁ。

「じゃぁ香織さんもそう言ってるし、今夜は揚げましょうかね」

 そういって母親は父親に財布を渡して買い物を頼んでいる。
「勝人! あんたも行ってきなさい」
とそういってたたき出した。

「じゃぁ、今のうちに今夜の寝床を支度しますね」

 香織は笑顔で母親に断わるが母親は間髪入れず切り返す。

「あの子の部屋は妊婦が寝る環境じゃないわね。実家に行って寝なさい」
「じゃぁ彼は今夜はこっちで……」
「あ、いやいや、妊婦は大変だからつれてって夜中でも何でもこき使って良いわよ」

「でも……」
「平気よ! ドラ息子はいつか家を出る運命なんだし」

 そういう母親の笑顔が香織には眩しかった。母親の強さとはこういう所なんだろうなぁと思うのだった。
そして、そういう部分を見てそう感じるかどうかも現実的に女性化の尺度なのかもしれない。

 勝人が父親と買い物から帰ってきたとき、勝人の母親が香織と味噌汁の味でアレコレ相談しているところだった。勝人がふらりとやってきて味見する。
「お! 我が家の味!」
 何時の世も変わらないおふくろの味を伝承する大切な儀式かもしれない。

「パリっとトンカツを上げるコツは薄力粉を薄くし衣のパン粉は柔らかめ。つなぎの卵は白身を半分捨ててから良く溶いてやる。
そして油は何と言っても紅花油100%じゃないとダメね。そうしないと口の中をパン粉で切るから……」
 母親のレシピは愛情の味。熱を持った油の熱気に負けず香織は衣をまぶした肉を油に滑らせる。
 じゅわぁ〜と音を立てて狐色に染まっていくトンカツを見ながら、香織は自分の子供に食べさせる夕食をイメージしていた。

 テーブルの上に載ってる漬物をポリポリかじりながらビールを飲んで子供の話を聞く勝人が後ろに居て、香織はエプロンを掛けてガス台の前に立っている…… そんな幸せな家庭のイメージ。

「香織さん、そろそろお肉上げて」
「はい」
「こら! バカ息子! キャベツくらい刻みなさい! 嫁は身重なのよ!」
「んだよぉ……」
「男がガタガタ言わないの! 少しは手伝え!」
「マジかよ」
「あ、香織さんお肉あと2枚入れてね」
「はい、じゃぁ入れますね」
「油の温度に注意して!」
「え〜っと170度くらいです」
「うん、ばっちり……って、こら! バカ息子! キャベツはもっと細く!」
「……息子は損だ」
「お〜い母さん、ビールまだあったっけ」
「おとうさん、ビールはあと!」
「……はい」

 狭いテーブルに夕食が並び皆が揃って箸を持つ。日本社会伝統の夕食スタイルがここにはあった。皆で囲む食卓の長辺方向にはまだ余裕がある。
そこにまだ見ぬ小さな我が子が必死に茶碗を持って夕食を頬張る可愛い姿を香織はイメージする。

「香織さん、大変だけど……頑張ってね」
「はい 頑張ります」
「おし! じゃぁ食うぞ! いただきま〜す!」
「このバカ息子! 少しは嫁に感謝しろ! とーちゃん情けねーぞ」
「私はお父さんに感謝してもらった事ってあまり思い出せませんけどねぇ〜」
「かあさんそれは言わないでくれよ……」

 笑いながら食卓を囲む幸せ。
 こんな時が何時までも続くなら、それはとても幸せな事なのだろうけど……

 油臭さのまったく無いカツを食べ終わって食後のお茶を飲んで居る頃、香織の両親が訪ねてきた。勝人の母親が前もって電話して迎えを頼んでおいたのだっ た。
 香織が何かに気が付いて全員分のお茶を淹れて配る。その立ち振る舞いはすっかり武田家の嫁になっていた。それを見て目を細める母親二人。
 何となくそれで良いと思っていた香織だったけど、急に動きを止めてお腹に手を当てて何かを探している。

「……あ!」

 みなの視線が一斉に香織へと注がれる。香織はそれを気にせずお腹を触っている。

「また……」

 母親二人はそれがなんだか既に分かっている。勝人の母親が香織の手を取ってソファーに座らせた。香織の母親も優しい眼差しを送る。

「香織……」
 勝人もなんだか分かったようだ。

「いま、蹴ったよ! 間違いなく! うわぁ〜」

 幸せそうな表情の香織はお腹をさすって何かの感触を確かめているようだ。

「20週ならそろそろありそうよね」
「そうね、しかもウチのドラ息子のだからねぇ」
「まーくんがどうかはともかくウチは上も下も18週位から蹴ってたわ」
「あらそう。香織さんは元がアレだから……って関係ないかな?」
「う〜ん、どうでしょうねぇ〜」
「あ、私、軽く問題発言しましたね……香織さん、ごめんなさいね」
「あ、平気です、慣れましたから」

 『3人の』父親が顔を見合わせて言う。

「こればかりは男には出来ない事だな」と。

 お茶を飲みながら香織はついに話し始めた。学校でくじを引いたときの事、橋本に説明されて薬を飲んだ事、目を覚ましたら施設に居て女性化していた事。
 そしてさらに……沙織や光子や多くの出会いと別れを経験した事も。

 ここまで僅かな間にとても多くの事を経験したジェットコースターの様な日々の事。
 全部話をして何となく楽になっているのに香織は気が付いた。何となく心の中に溜まっていた滓の様な感情の残骸を全部整理して、新しい人生のスタートライ ンに立った気がしている。

 輝く未来をイメージ出来ている限り、人生とは素晴らしいものなのだろう。
 香織の胎内で芽生えた新しい命の為にも……と、勝人は自らの未来に奮い立っている。
 しかし、香織の心中に輝く未来のイメージが沸いて来ない事を誰も知る由も無かった。


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