早朝と呼ぶには聊か語弊のある時間帯。通勤や出張のビジネスマンが居並ぶ駅の窓口へ場違いな格好をした学生が二人並んでいた。
「おはようございます!」
そう元気に挨拶する駅員は香織の差し出した切符を見るなり、分厚いマニュアルのページをめくり始める。
「えぇっと、この切符は有効期限を過ぎていますが……」
そういってページを捲りながら何かを見つけた駅員は、小さな小箱を取り出すと中から海苔巻き状の機械を取り出して改札の機械へケーブルを接続した。
「川口さんですね、川口香織さん。識別番号をこの端末に打ち込んでください」
そういってテンキーを差し出され香織は番号を叩いた。
「204……」
「これでいいですか?」
「はい、結構です。あと、これで目をスキャンさせてください。ここを覗いて」
そういって海苔巻き状の機械を渡された香織は、言われるがままに機械の小さなレンズ部を右目で覗き込む。ややあってピッと電子音が鳴り認識中と端末に表
示が出た。
「はい、確認が取れました。間違いなくご本人様ですね」
「えぇ、そうですけど」
「こっちが新しい切符になります。お連れ様の分も一緒に出てます」
「あ、ホントだ」
「次の列車は34番線から出ますのでお急ぎください」
深い群青色のセーラー服に身を包んだ香織は手ぶらでホームへと歩いていく。その後ろをスポーツバック2つ担いだ勝人が続く。
香織の妊娠発覚から既に20週を経過し、二人は遅い夏休みで帰郷の途中だった。
「なぁ香織、大丈夫か?」
「なにが?」
「気持ち悪くないか?」
「うん、先週くらいからだいぶ良くなってるよ。平気平気!」
「それならいいけど」
「それよりさ、あっち行ってうどん食べようよ!」
そういって香織はスタスタと歩いて行ってしまう。自信に満ちた笑顔に勝人は先週までの不安定な香織を思い出して笑ってしまった。
つまらない事で怒鳴り声を上げて怒ったり、ヒステリックになって急に泣き出してみたり。そして、自信が無いと言ってベランダから飛び降りそうになってみた
り。
「香織! 列車まであと10分だぞ!」
「麺類なら3分で食べられるよ」
「無茶するなよ……」
そういってうどん屋の暖簾を潜る二人。湯気の向こう側には機械的な対応をするおばちゃんが立っていて無表情に注文を捌いている。
久しぶりに見る世間一般の人々、自分達をチヤホヤしない世界、懐かしくも疎ましくもある不思議な世界。
今、私はこの国の為に子供を抱えてるんだぞ、と叫びだしたくなるのだが……不思議と腹が立つ事はなかった。
きっと、いろんな意味で安定期に入っているんだろうと香織は思っていた。
小さなどんぶりに盛られたうどんを啜りながら二人は顔を見合わせる。不味い……そう顔に書いてある。
島の食堂で食べる食事のレベルがどれほど高いものだったのかをこんな形で実感するのだった。
大して美味くもないというのに値段だけは一人前を取られて、なんとなく損したと感じつつも二人は列車に吸い込まれる。ややあって出発を告げるベルが鳴り
列車は走り出した。
新幹線の後を受けたリニアラインの列車はグングンと加速して行く。加速のGを感じつつ香織は喉の渇きに耐え切れなくなりつつあった。
緊張感はピークに達している。
自宅へ帰ると言う事がこれほど緊張するものだとは。ふと、そんな事も考えてしまう。
「やっぱり、産んでからにすればよかったかも……」
香織は無意識かつ無防備な言葉をポロリとこぼす。勝人はどう返していいものか分からず相槌を軽く打つ程度だった。
「いきなり女の子のかっこをした息子が腹ボテで帰ってきたら卒倒するよね」
「そりゃ考えすぎだって」
「でも、最後に家を出た朝は男だったのよ」
「そのままだっけ?」
「そう、学校でくじ引きして、私が黒を引いて」
「一回も帰ってないのか?」
「うん……」
「でもまぁ、あれだな。担当が説明に行ってるだろ」
「そうだけどさぁ……普通に考えるとイメージわかないでしょ。男の子だったんだから」
「……う〜ん」
「男を産んだはずなのに女が家に来たら……お母さんひっくり返るかも」
「何でそう思う?」
「だって、もうすぐ私が母親になりそうだから、かな。男だった私がね」
「男でも女でも子供には変わりないだろ」
「そもそも……私を子供だって認識してくれるかな」
「え?」
「だってさ……」
「……」
「いきなり見ず知らずの人間が目の前に現れて」
「……あぁ」
「この人は貴方の子供です、とか言われたらおかしいって思わない?」
いわゆる不安定化は定期的にやってくる事が多い。医者の説明では妊娠によるホルモンバランスの変化に脳が付いて行けないのだという。
普通の女性の場合は出産後2週間程度の間にマタニティブルーズという形で出るのだけど、香織の場合は新たに作られた女性化人格が現状認識をきちんと出来
ず、
男性時の状態で物を考えてしまう現象なのだそうだ。
原因は良く分かっていないが、対応策は良く知られている。つまり『強くなるしかない』のだそうだ。
自分の現状を受け入れて、その上で強く生きて行くしかない。
無責任な話だがそれ以上の何を求めるというのか、という話になってしまうらしい。
疾走する列車の中、香織の心中に渦巻く不安の大渦は次々と禍々しいまでのイメージを吐き出し続けている。
自宅に帰っても自分を両親が認識してくれなかったらどうしよう……
誰も自分を分かってくれなかったらどうしよう……
そもそも、自宅がどうだったかですら余りよく覚えていない……
いったい……私は誰なの?
「私は……川口……ま…」
「香織、俺がついてるから大丈夫だ」
「まさと……」
「俺はいつも一緒にいるから」
普段なら泣き出しかねない香織なのだが、不思議とこの頃になると泣くような事はなくなっていた。精神的な平衡を保つ事が上手くなっているのかも知れな
い。
母親としての機能を備えつつある自分の変化を香織自身が気が付いていない。
他愛もない会話のラリーを続けていた二人だが下車が近付いてくると会話のペースも落ち始める。なんとか間を埋めたい勝人だが、香織の緊張は傍目に見ても
痛々しいほどだ。
ガチガチに成りつつある二人の所へ意外な人物が姿を現した。
「川口香織さん、ですね?」
「……っあ!」
香織は呆然とその人物を見るしかできなかった。緊張などどこかへ忘れた状態だ。
「あの……どちら様ですか?」
勝人もそう言うのが精一杯だ。突然現れた人物は勝人へ名刺を差し出すと挨拶した。
「厚生省少子高齢化対策チームTS法管理セクションの橋本といいます」
「橋本さん……」
勝人はまだ意味が判らない。
「香織さん、つらいお勤めご苦労様です。大変ですが頑張って下さい」
「……はい」
「私も御自宅まで同行します。川口さんのご実家でその後の窓口になっていました」
「そうでしたか……あの、お母さんやお父さんは」
橋本はニコッと笑うと一枚の写真を取りだして香織に渡した。そこには懐かしい家族の姿が映っていた。
何度頑張っても思い出せなかった家族が、笑顔で写真に収まる姿に香織は不思議な安堵を覚える。
「あなたの帰りを皆さん待っていますよ。今日帰宅されることは私の方で前もって連絡しておきました。
ご両親とも今日はお仕事をお休みされて待機されています。あと、弟さんも今日は特別休校で待機中です」
勝人はここまで来て事情を飲み込めた。つまり、この橋本なる人物が香織の担当なのだろうという事だ。
「そして武田君、君のご両親も待機中だ」
「え?」
「川口さん宅で君の帰りを待っている」
「そうなんですか?」
「何せご近所さんだからね。川口さんのお相手が貴方の息子さんですよと言ったらご両親はテポドン級に驚いておられたよ」
「……そうですか」
二人の反応を見ながら橋本は続ける。
「婚姻法が改正されてね、両親の同意が有れば15歳から婚姻届を出せるんだ。武田君のお父さんが婚姻届を用意して待ってるよ。
覚悟して帰りなさいね。息子に責任を取らせるって言って一人で盛り上がっているよ」
ハッハッハと笑って武田の背中をドンと叩く橋本。『覚悟』の意味を考える香織。様々なコントラストを見せながら列車は駅に到着した。
駅前のロータリーで黒塗りの大型高級車に収まった二人は橋本と一緒に香織の自宅へ向かう。
懐かしい町並みが窓の外に広がる。見覚えのある街角に香織は帰宅を実感する。
既に随分と遠くなったような感覚のあの日、いつものように『行ってきます!』と自宅を出た朝を幾度も思い出す……
子供の頃から何度も歩いた曲がり角を折れ細い路地を走る。幼い日の記憶が残る公園で小さな子供がサッカーボールを蹴っていた。
思わず勝人を見る香織。勝人は香織の肩を抱いた。
「さぁ、到着だ」
ドアを開けて降り立った香織は自宅を見るなり固まってしまう。
ピンポ〜ン
「あ! どうも! 橋本です!」
インターホン越しに橋本は呼び掛けた。ガチャリとドアが開いて、中年女性が姿を現す。
「かおり……なんだね?」
女性はそう言って裸足のまま玄関を飛び出しギュッと香織を抱きしめる。涙をボロボロと流し頭を撫でる母親──香織は妙に冷静な自分がなんともおかしかっ
た。
なんというか……安い映画のワンシーンに自分が紛れ込んだかのような錯覚……
抱きしめて泣きじゃくる母親、それを見て涙ぐむ父親の姿。香織はまだ整理が付いていない。
弟も出てきて自分を見るなり呟く。
「ホントに兄貴なのか…?」
「何から話をすればいいのか分からないけど……私は私だから……ただいま!」
そう言って香織は微笑むしかなかった。花のような優しい笑顔は女性化した証なのだけど、それですらも自らの存在を証明するには至らない。なんとももどか
しいのだが……
「とりあえず中でお話しされては?」と、橋本が提案し皆で川口邸へ入った。
玄関をくぐった香織は靴を脱ぐと、何も言わずに階段を上がり自室へと向かう。その仕草に両親が目を細めているのだが香織は気が付かない。
ドアを開け部屋に入ると、見事なまでのガランとした部屋があった。自分の使っていた家財道具全てが片づけられている部屋。所在なげに立ち竦む香織。
「あなたの机もベットも本棚も、全部橋本さんの指示で片づけたのよ……」
そう言って母親は入ってきた。戻ってきたときに記憶がフラッシュオーバーして発作を起こすことがあるという説明だったそうだ。
しかし、香織は事も無げに話を切り出す。それを聞いている橋本も家族全員も段々青ざめてくる。
「ここに机があって、こっちがベット、本棚はココとココ」
「こっち側にはマリノスのポスターを貼っておいたはず……選手のサイン入りだったけど捨てちゃったの? 勿体無いなぁ……」
「こっちには衣装箪笥があったよね。で、えぇっと聞き難いんだけど……ベットの下のエッチな本とかどうしたの? 捨てちゃった? 今の私には要らないから
佳介にあげようと思っていたのに……」
「そう言えば鍵付きの小箱もなかった? ダイヤルキーの付いた小さな箱──」
楽しそうに記憶を辿る香織。橋本は今にもひっくり返りそうな程に青ざめている。
「あの……一応、僕から説明するけど……」
そう言って勝人は切り出した。
あの日、サッカーの練習をしていた勝人の所に香織が来て、話をしながらゆっくりと思い出して──そして、全部承知した上で香織は第2の人生を受け入れて
女性として歩みだした事。
そして、香織の処女も勝人が貰って双方同意で事に及んで……そして今、香織のお腹には新しい命が芽生えていることも。
一切の淀みなく躊躇無く、勝人は真っ直ぐに香織の母親の目を見つめて全部話をした。
香織は勝人の手を握って呟く。
「……ありがとう」
「……そうなの」
それしか母親の言葉が出てこなかったのは意外な感じだった。
父親はうつむいて何かを考え込んでいる。記憶の整合性が取れずおかしくなっていくTS被験者が多い中で、我が子はどうなってしまうのか?
父親の恐怖はその一点に尽きるのかも知れない。
そこに香織の弟──佳介が入ってきた。
「えぇっと、兄貴……じゃなくて、ねえちゃん……で、良いのかな」
香織は笑顔で頷く。
「うん、それで良いよ。佳介は少し背が伸びたね」
佳介は小箱を持っていた。ダイヤルキーの付いた小箱だ。
「何度か開けようと思ったんだけど怖くて開けなかった……」
「これの鍵は437よ。開けてみて」
佳介は番号を回して鍵を開ける。カチャリと音がして小箱の蓋は開いた。
「うわ……」
佳介はそれしか言葉が出てこなかった。
15歳の少年が大事に持っていたはずの宝物、些細な物なのだがそれの意味する所を、佳介は子供ながらに理解した。
「全部佳介にあげるよ、私には要らない物だから…」
小さなサッカーボールの付いたキーホルダー、サッカー選手のブロマイド、そして、家族で見に行ったサッカー試合の入場券の半割れ。
感動的な家族の再開というには些かあっけなさ過ぎたのだが……
「お取り込み中失礼します」
と、そう言ってそこに入って来たのは勝人の父親だった。
「お話は全部伺いました。いやいや、なんて言ってよいやら困るんですが、ウチの勝人のしでかした事ですから当然責任を取らせようと思います……って堅苦し
い話をしたい訳じゃないんですがね」
遂に川口と親戚に成っちゃったなぁ……そう言って勝人の父親は香織の父親と握手した。この二人もまた幼なじみだった。
「なぁ、今更だけど、お嬢さん……で良いんだよね? ウチに嫁にくれるかい?」
「俺は良いが……女房と、あとは──」
そう言って二人の父親は香織を見る。香織はカラカラと笑って勝人を見る。勝人は周りを見回して覚悟を決めたようだ。
「宜しくお願いします」
そう言って頭を下げた。
「下に行きましょう」
香織の母親は笑ってそう言うしかなかった。
二つの家族と担当の橋本が居間でそれぞれの居場所を造って腰を下ろす。ここから重要な話が始まる。
香織の身分上の問題、戸籍管理の問題、TS法における義務の問題。そして、さらに婚姻届けとそれにまつわる補償の問題である。
「一般的な話ですが──」
そう言って橋本は切り出した。女性化による補償金と慰謝料の提示額は、都心部でもそれなりの家が一括で買えるだけの数字だった。
そして出産した子供の処遇とその褒章料もまた家が買えるほどの金額だ。
よく問題になるのはお金の行き先なんだとか。婚姻届を出せば香織の戸籍上その権利を持つのは、川口家ではなく武田家へ行く。
しかし、あくまで苦労を被るのは川口家の香織なのだから、そのお金が川口へ来ないのはおかしい。
しかし、一番の揉めた内容は香織の身分上の問題だった。
川口香織として子供を生むのか? それとも武田香織になるのか? これはある意味でお金ではどうにもならない問題なのかもしれない。
「補償金も慰謝料も要らない! ただし、未婚女性の出産は認めない!」
そう言って勝人の父親は強行に反対する。
ウチのバカ息子と一緒になってから子供を産んで欲しい。その子がどこへ行くのかを今の時点で与り知る事は出来ないが、いつか必ず
俺が草の根分けても探し出すから。
ウチのバカ息子の仕込んだ子種で未婚の女性が出産したなどと言われれば世間体が悪すぎるし、それ以前にそもそも筋が通らない!
一人勝手に熱くなっているのだが、その問題の核心に潜んでいるのは厳然と存在するTSレディに対する差別・蔑視の問題だったのだろう。
『男だったのに女になって股を開いて、男を取っ替え引っ替えヤリまくって子供を作る奴隷だそうだ』
そんな目で見られる香織が可哀想だし、自分の息子がその片棒を担いでいるというのは父親として情けない限りだ。
親の愛情という物の価値を香織は初めて実感した。こればかりは自分が親になってみないと解らないことなのだろう。
「あの……すいません……ちょっと外に出て良いですか?」
そう言って香織は立ち上がった。勝人がスクッと立ち上がって傍らを固める。
「ちょっと外の風に当たってきます」
そう言って二人は部屋を出た。なぜだか香織は涙が止まらない。両家の両親は黙ってそれを見ている。
もはや言葉はこれ以上要らないじゃないか。十分に夫婦としてやっていける。この場にいた『大人達』はそう思った。
「なんか、凄い話になってきたね」
「あぁ、俺もなんかちょっと引きまくってる」
「結婚するって大変なことなんだね」
「そうだな……」
勝人は真顔で香織を見る。香織は目を背けたくてもそれが出来ない。
「俺が必ず幸せにするから。だから俺と結婚しよう」
「うん、よろしく……よろしくお願いします」
昼下がりの町並み、人通りの少ない公園の木陰で二人は誓いのキスをした。
それを遠くから眺めている視線に気が付くこともなく……
二人が自宅へ戻ると川口家だけが待っていた。ブラブラと2時間近くも歩いたようだが不思議と疲れはなかった。
「香織、大丈夫なの? 妊娠中なんでしょ?」
すでに母親は香織と呼ぶことに慣れたようだ。父親は微妙な距離感を保ったまま、如何ともし難いといった感じでおどおどしている。
弟──佳介は時々ジッと見つめるそぶりするものの、現状の受け入れしか無いと悟ったのか、それを納得させる努力を続けているようだ。
近所の寿司屋から特上寿司が人数分届けられ皆でそれを囲む夕食、久しぶりな家族との団らん。食後の一時を過ごしていたら玄関の呼び鈴が鳴った。
母親が出ていくと家具屋がでかいベッドを届けに来たのだった。
「香織、あなたの部屋に入れるわね。床で寝るわけには行かないでしょ」
そう言ってガランとした部屋にダブルサイズのベットが収められた。香織は手慣れた手つきでベットメイクしていく。
母親が洗ってくれたカーテンをカーテンレールに引っかけて、掃除機で部屋を清掃する。佳介がどこからともなく大きな姿見の鏡を持ってきた。
それを部屋に運び込むと少しずつ生活の臭いがし始める。
テキパキと家事をこなしていく香織のその仕草が完全に女性化している事に、なによりも父親は驚いて眺めている。
その後ろにそっと立ち事情を説明する勝人。
「完全な同棲生活で家事一切を引き受ける香織は、すっかり俺の嫁さん状態なんですよ」
振り返り勝人の襟倉を両手で掴む父親。勝人はグッと奥歯を噛み締めて目をつぶる。
「まーくん……娘を……かおりを、頼むよ……よろしく頼むよ」
そう言って父親は泣き崩れた。どこかで拒否していた息子の女性化を納得したのかもしれない。それを見て香織は微笑んだ。
これで良いんだ……これで良いんだ、と。
「香織、お風呂を沸かすから入りなさいね。体を冷やしちゃダメよ、明日は犬の日だから安産祈願の願掛けに行きましょう。まーくんも一緒にね」
母親のウキウキするような表情の理由を、香織は少しずつ実感し始めている。
「母さんは女の子が欲しかったんだよ。男二人に成っちゃったからガッカリしていたけど」
と、父親は真相を語り始める。
「所で香織……」
そう言って母親は真顔になったが、その直後に振り返って言う。
「ハイハイ、男は出ていって、女の話だから! シッシッ!」
そう言って父親と勝人を部屋から叩き出す。母と娘だけの部屋で母親は香織のお腹に手を当てた。
「20週目だっけ?」
「……うん」
「そろそろ胎動してる?」
「時々だけど何かが当たる気がする」
「そうなの」
「まだなんか良く分からなくて……」
「そんな物よ」
「怖くて仕方がなくて、私……」
そう言って香織は涙目になる。母親は大きく香織を抱きしめると、幼子をあやすようにゆっくりと語りかける。
「女はね、みんな同じ事を思うのよ。あなただけじゃないの、みんな怖いの。でもね、これだけは男には解らないことだからね。
自分で立ち向かうしかないのよ……彼が好きなんでしょ? じゃぁ大丈夫だよ、きっと大丈夫! 後はね、気合いと度胸よ! そして愛情!」
そういえばタワーの食堂でおばちゃんにも同じ事を言われたよなぁ……と香織は思い出した。
やっぱりそれが真実なのだろうか? 何となく釈然としないのだけど、出産経験のある女性達が皆そう言うのならそれは真実なんだろうと納得するしかなかっ
た。
部屋の扉をコンコンと誰かがノックする。誰?と香織が聞けばガチャリとドアが開いて勝人が入ってきた。
「これを俺の母さんが持ってきた。香織にって」
そう言って袋を差し出す。なんだろうと香織が袋を開けると、犬印の妊娠帯だった。そして妊婦用のマタニティナイティと産褥ショーツ、いわゆる妊婦セッ
ト。
「さすがねぇ、気が付くのが早いわ」
そう言って香織の母親は中身を取り出すとアレコレ説明し始める。そそくさと退散しかけた勝人を呼びつけ座らせ香織と一緒に教えだす。
旦那の協力無しには妊婦は大変なんだと勝人は嫌でも理解した。女は弱い生き物だが母は強し。
「今夜はウチに泊まっていってね」
そう言って母親は部屋を出ていった。香織は勝人と見つめ合ったまま微笑んでいる。風呂に入ってさっぱりして、そのまま二人して眠ってしまったようだ。
父親は居間で一人、手酌酒で飲んでいる。きっと今夜の酒は苦いだろう……
母親ではないもう一人の親の辛さを父親は味わっていた。