俺は諦めない。
 諦めない……
 諦める……

 なんで?

 香織は昼間から同じ事を何百回も考えている。
 夕食時のタワー、沙織のいないテーブル、5人になったメンバー。
 皆は沙織の事で盛り上がっている。
 ただ一人、香織を除いて。

「香織……分かるけど、落ち込んじゃダメよ」
「そうよ! 沙織が人一倍元気なだけにね、香織は日影にいる美人よね」
「ほんま真美は上手いこと言うなあ。沙織はひまわりやな。香織は……なんやろ?」
「そうね、日影で美しく咲く朝顔って感じ?」
「その心は……なんや?」

「誰が見てなくても綺麗に咲いてる花」

 香織はジッと真美を見た。真美は静かに笑っている。

「私が同じ立場だったら……香織と同じ事をしたよ。きっとね」

「……見てたの?」

 真美は目を閉じて静かに頷いた。香織は全部理解した。
「辛いよね……」
 真美の一言で香織は涙が止めどなく溢れた。

「でも……その後も色々あったから」

 色々の意味を4人は理解できないでいる。当たり前の話だし、香織は誰にも話をしていなかった。
 何となく同じ境遇にいる大切な友人としての4人には、話しておいても良いかな?と考えてはいるのだったが、
24時間監視されているここでは不用意に声に出すと後で問題が大きくなる事は容易に想像が付いた。
 どうやって伝えるかを考えて思案投首の香織なのであった。

「実はね、昼間汗を掻いてマズイな〜って思ってシャワー室行ったの」
「え゛? あの危険な3号棟の?」
「うん……って、そうなの?!」
「良く平気やったなぁ〜。あそこでもう3人やられてんのやで…」
「やられてるって?」
「強姦や、強姦! 無理にされて3人おかしくなってるやさかいに……」
「じゃぁ、私は危うく4人目だったわけね」
「え゛!」

 4人が同時に声を出した。

 香織はカラカラと笑うしかなかった。話の流れとはいえ口に出して言ってしまった。
 どこかでこれを聞いている宮里がすっ飛んでくるのは時間の問題だと思った。

 もう、彼はダメかな……諦めないって言ってたのに……
 なんで彼のことが気になるんだろう。

「香織……平気やったん?」
「うん、乗っかられちゃったけど……どいてって言ったら素直に」
「で、その男はどうしたの? 人を呼ばなかったの?」
「うん……なんか……動転しちゃって」
「あっぶないなぁ、もぉ〜。ウチらは入れられたら終わりやで」

 香織はうつむいてしばらく考えた。なんで彼を逃がしたんだろう?
 あの時に人を呼ばなかった意味を何となく整理出来ていなかった。

「多分だけど……告白されちゃったからかも……しれない」

 4人の目は香織へ集中する。4人は香織の次の一言が、香織の運命大きく変えるだろうと予感したのかもしれない。
 そして、香織もそう思っていた。

「私の事をずっと見ていたって……でも、私が見ているのは彼じゃないから拒絶して……」

 香織はちょっとだけ涙目だった。4人の目は相変わらず炯々と香織を見ている。

「香織の思い人って……だれなん?」

 光子は直球勝負を選んだ。光子は何かを感じ取ったのだろう。女の勘という物かも知れない。
 しかし、元男が女の勘を持つのかどうか、それを考えている余裕はなかった。
 次に口を開いたのはほぼ沈黙を通していた恵美だった。恵美は不思議な胸騒ぎを感じていた。

「私も知りたい……香織の好きな人って、だれ?」

 カードゲームなら相手の札の読み合いなのだろうけど、ここでは自分の将来が掛かった
大一番の勝負でもある。段々と真剣な声色に変わっていった。香織の口から誰の名前が飛
び出すのか…不思議な緊張感が溢れた。

「あの……名前が分からなかったんだけど、サッカー部の……」

 以外にも最初の反応をしたのはのぞみだった。

「遠藤君? それとも、山田君?」

「いや……武田っていうんだって」

 その一言で食堂が騒然となる。

「えぇぇぇぇぇ!」

 その理由が香織には理解できなかった。
 まさか、誰かの部屋に既に……
 香織の表情は曇った。
 しかし、その時に真美が口にした言葉は意外な言葉だった。

「通称、地蔵の武田、でしょ? 決して動かないっていうそうよ」

 なんでも真美が最近仲良くしているサッカー部の少年曰わく、武田はまるで地蔵のようなんだそうだ。
練習から帰ってきても女の話はしない。ピッチサイドでキャーキャー言ってるアパート組の女子生徒に向かって堂々と"うるさい!"と言い放つ。
それだけでなく、今まで何度も女子生徒が彼に秋波を送ったけど、意に返えさぬどころか無視しきって練習を続けるのだという。
禁欲主義者とも場違いとも言われる不思議な存在……それが武田らしい。ちなみに武田の下の名前は誰も分からなかった。

「……で、なんでみんなそんなに詳しいの?」

 香織の疑問は素直な物だった。逆説的に自分が鈍いことを理解する……筈がなかった。
 天然系の本領を発揮している香織だったけど、誰も言葉を発しなかった。
 重苦しい空気が一瞬流れたが、その空気を破ったのは意外な人物だった。

「突然ですが!」

 いきなりドアが開いて沙織が入ってきた。後ろには志賀英才その人が立っている。
 食堂の中にいた5人の視線が痛いほど英才を貫いた。

「おいおい……ホントかよ」

 英才は言葉を失った。

 男子生徒が未だに残っている4号棟だけでなく、アパート組の女子生徒達とも次元の違う場が目の前にあった。
大きな食堂でたった5人が食事をしている光景。それはこの学校の中の上流階級そのものなのだろう。

「知ってると思うけど、私の交配相手です!」
 そう言って沙織は笑った。
 隣に立った英才は照れながら言葉を繋げる。

「交配相手ってなんだよ」

 沙織は幸せそうな笑顔で英才を見る。その表情があまりにコケティッシュだったので英才は二の句をつけ損ねてしまった。

「でもまぁ……うん、そんな訳で……志賀英才です。よろしく」

 パチパチパチ。

 拍手に迎えられて二人は席に着く。食事は沙織の部屋で食べるかここで皆と食べるかのどちらかなのだという。
今宵はお披露目なので降りてきたけど、勝負の前は集中したいから部屋に行くと英才は言った。

 香織の笑顔は寂しさに溢れていたが、それを気がつくものは無かった。
 次は私が……暗黙のうちに始まった女同士の達引きだ。

 食後の談笑に香織は参加しなかった。沙織が英才の手を引いて談話室にやってきたのを見て、ライバル心に火が付いたのかもしれない。

 自室に戻って外を見るとピッチを照らすライトの下、武田は黙々と練習に励んでいた。
 遠目に見ても肩で息をしているのが見える。ピッチサイドの水をがぶ飲みしたあとでまた走り始めた。走って走って走り続けていた。

 次は私が……香織はふとそう思った。そして談笑し続ける談話室の4人も同じ事を思った。

 翌朝、香織が身支度を整えてタワーを降りると出口で真田が待っていた。
 どこか思いつめたような表情で真田は立っている。何となく気まずい空気がそこに流れた。昨日の今日でこの熱意、香織の心を動かすには十分な熱意だろう。

「川口……昨日はすまなかった。どうしても一言謝りたくて待っていたんだ」

 香織は下を向いて何かを考えている。はにかんだ笑みを浮かべて考えている。

「謝って済む問題じゃないのは良くわかっているつもりなんだ……ただ、どうしても謝りたかったんだ。自分にけじめを入れたかったんだ……本当にすまなかっ た!」

 そういって頭を下げた真田はクルッと振り返ると全速力で走っていった。香織はその後姿に見とれた。
きっとゲーム中の真田はボールを受けると、こうやって風のように駆けていくんだろう。襲い掛かる相手ディフェンダーのタックルをフェイントで交わしなが ら。

「か〜お〜り〜、め〜っちゃええ〜おとこや〜ん!」
「まさかラグビー部の真田君とはねぇ」
「私だったらうんって言っちゃうかもなぁ〜」
「香織はいったいどこが不満なんや?」
「そうよそうよ。アレだけの男をそでにしたらもったいないよね」
「どうせ生むのが義務なんだし搾り取っちゃえば?」

 気がつくと香織の背後に強力なオフェンス陣が構えていた。みな惚れ惚れするような真田の後姿に見とれている。
口さがないタワー組の熱い視線が真田に注がれるなか、唐突にタワーのドアが開いて沙織と英才のペアが顔を出した。
 その場の空気を読めない二人じゃないが、沙織のラブラブモードはとどまる所を知らないようだ。

「はい、これ持って行って」
「おい! これないと沙織はタワーに入れないだろ?」
「いいよ、帰ってくるの待ってるから……今日負けたらたたき出すからね!」
「おいおい、マジかよ……」

 英才は沙織からペンダントを受け取った。純金に輝くペンダントはタワーの鍵でもあるのだが。

「じゃぁ気をつけてね!」

 そういって沙織は英才を送り出した。
 タワー住人が皆それを見ている。沙織は振り返って香織に歩み寄った。

「か〜お〜り〜。早くしないとあの彼、アパート女に取られるよぉ〜」

 沙織もどうやら真田を知っているらしい。
 何となく惨めに感じた香織は俯いて歩き出した。何がどう惨めなのかを表現するのは香織にとっても苦痛だった。
ただ、心の中にぽっかりと空いている、大穴を埋めるだけの存在を誰に求めればいいのか……それだけは香織の中にはっきりと存在した。

「私……なんかまずい事言ったかな?」
「さっすが沙織やな、なんも分かってへん……」

 香織の足は自然にサッカーコートへ向かった。何がどうという訳ではないのだけど、多分そこに行けば"彼"が居ると思っていたのだった。
武田と言うらしい彼は……いつかどこかであった事がある……何となくそう思うのだけど、それが何時の事だったかは思い出せない香織だった。

 早朝練習で走り回っている少年達の中に香織は彼を見つけた。色とりどりのビブスをつけた少年達が3×3でフルコートのサッカーをしている。全身から汗が ほとばしり声がかすれ足は重そうだ。
 風下のネット側では半分飛んでいるアパート組の女子生徒が、キャーキャー言いながら目当ての少年に声援を送っている。
武田はそんな事に目も耳もくれずボールを奪い取ると一直線にゴールへ切り込んでいく。やや離れた高台から香織はそれを見ていた。

 ああやって、私も彼に切り込んで……しかし、香織がその時イメージしたのは自分がボールを持ってゴールへ切り込んでいく姿だった。
風を受けて砂埃を舞い上げ大地を蹴って走っていく自分。

 ピッチの上では武田の放ったシュートがキーパーに弾かれ攻守交替し、武田は自陣へと全力で走って戻っていった。
 ボールを持たないときの疾走はとにかく早かった。
 素早く自陣のペナルティエリア付近まで走って戻った武田は、踵を返すとボールをもって切り込んできた敵側の選手に猛然と襲い掛かった。
右斜め前の角度から敢然とスライディングタックルを仕掛ける武田の姿に、ふとデジャヴを覚えた香織はその場にうずくまった。

 今のシーン、見たことある……

 何となく断片的な記憶のカケラが頭の中に散らばっているイメージだった。
 ただ、香織は確かに今のシーンを以前どこかで見ている、そしてそれが自分自身であると思い出し始めている。

 記憶の封鎖と再合成がどれほど危険な事であるかは大脳生理学の現場で検証されつつあったが、それよりも実利のほうが大きいと判断され、
TS法の被験者に退行催眠を施し記憶を上書きしていく作業は行われていた。
 ただ、大脳ではない部分に強烈なプリンティングとして書き込まれた記憶は何かの拍子に浮かび上がってくるらしい。
 過去様々なTS法による被験者受胎の現場で問題になっている事がここでも発生しつつあった。

 浮かび上がってくる記憶がどれほどの危険性を及ぼすのかを横断的に統計した記録はまだ無い。ただ、その多くが男女の交わりの中で出てきてしまう事に問題 があるのだった。

 男性として生を受け記憶を紡いできた者が女性として性の記憶を紡ぐと言う記憶整合性の乖離に脳が付いて行けなくなるのではないか?

 そんな仮説が研究機関により立てられ、脳下垂体肥大などの実質的な影響が取り上げられていた。
ただ、それよりも人口総数の維持のほうがはるかに重要であり、記憶整合性の問題により廃人化していってしまう女性化男性のメンタルケアを行っている機関は 非常に少ない。

 うずくまった香織にいつの間にか寄り添って肩を抱いた沙織はそっと囁く。

「香織……その一線を越えちゃうと……きっと今よりつらいよ」
「沙織」
「抱かれるって良いものよ。嬉しいのよ、気持ち良いんじゃなくてね」

 沙織の微笑みの理由をわからない香織ではない。二人の間の信頼関係は磐石なのだ。
 香織の胸に去来する思いを受け止めてくれるのが誰なのか?
 並んで歩く二人を見つめるアパート組女子や未だフリーの男子達にとって非常に重要な問題なのであった。

「なんでおいつかねーんだよ! 走らねーと、サッカーになんねーだろ!」

 大声を上げて自チームを鼓舞する武田だけがここで浮いていた。

  ◇◆◇

 昼時、食堂で香織はたった一人の昼食をとっていた。沙織はと言うと食堂のテレビに向かって「あぁ!馬鹿!」だの「そっちじゃないでしょ!」だのと英才を 応援していた。
 それを虚ろに見ながら香織は思う。

「いいなぁ…」

「暇そうじゃん!」

 そう言っていきなり香織の目の前に座ったのは武田だった。
 香織の目が点になる、あまりの緊張に飲み込みかけたホットダージリンを噴出しそうになった。

「おいおい、気をつけろよなぁ〜。いい女が台無しだぜ」

 武田の笑みに香織は溶けそうになる。すでに表情は土砂崩れ一歩前だ。

「この間の夜は……邪魔してごめんなさい……」

 はにかみつつ搾り出すように声を出した香織に武田は容赦なく声を浴びせる。

「え? あ、あれか。うん、はっきり言って……邪魔だった。でも、蹴り返してくれたボールは凄かったな。あんなパス受けたら──」

 香織の目が輝く。

「受けたら……どうなの??」
「受けたらノントラップでシュートできるな」

 ニヤリと笑う武田が一呼吸置いて話を続ける。

「たださぁ困るんだよ。スカートであんなキックされるとパンティ丸見えジャンか!」

 そういって屈託無く笑う武田の言葉を聴きながら香織はもう一つ、何か大切な物を思い出しかけたような気がしてきた。
しかし、それ以上に言える事は衆人環視のど真ん中だというのに、デリカシーの無い大声で女の子が嫌がるような言葉をペラペラとうたう武田の無神経さだっ た。

 途中で段々と顔から火が出そうになっている香織を見ながら武田はなおも続ける。

「おい! 顔色悪いぞ。真っ赤になってるけど腹具合でも悪いのか? 糞が出ないとか」

 もはや引っ叩くしかないと思い始めた香織だった。ここまで言われたい放題では沽券に関わると思った。
 気が付かないのは本人だけで周囲は確かに香織の顔色が変わったのを見抜いていた。
 そろそろ爆発する……防爆退避!
 ささっと人が少なくなる。

「武田君……あのさぁ」

 かなりきつい怒気を帯びた視線を受けた武田は平然と受け流しつつ切り返す。

「怒った顔の川口も素敵だな。俺を引っ叩いてくれるか?」

 と、そういって顔を突き出した。
 だが、香織は呆気に取られた。まさか武田が自分の名前を言うとは思わなかった。

「私の名前を何で知ってるの?」

 ネームプレートなど付けやしないこの学校で名前を知る事はかなり難しい。
 しかし、武田は確実に香織の名前を呼んだ。

「知るも知らないも……ライバル宣言しに来た奴に言われちゃ覚えるしかないじゃん」
「ライバル宣言って……真田君が来たの?」
「え? だれだそれ? 俺んとこに来たのは……あいつだよ」

 そういって武田が指差したのは、見事な逆三角形の上半身をした濡れた髪の少年だった。

「あいつは水泳部の鈴木、平泳ぎで世界一速い男に挑戦中なんだとさ」
「水泳部……」
「水の中は飽きたから川口の上で泳ぎたいって言ってたぜ」

 え?っと呆気に取られる表情を浮かべて香織は驚いている。それを見ながら武田は言葉を続けた

「まさか俺の名前を思い出してくれるとは思わなかったよ、じゃぁな!」

 そういって武田は笑いながら鈴木の方へ歩いていった。鈴木と少し言葉を交わすと豪快に笑いながら食堂を出て行った。
 その後姿を香織は追いかける。

 思い人がこれじゃぁ……って、その前に、名前を思い出すって……どういう意味?

 香織の波乱に満ちた恋は道のり厳しい物になりそうな予感がしていた。

  ◇◆◇

 夕暮れの光線が雲の切れ間から校舎を染める時間帯。海からの風は湿り気を含んで肌をべとつかせる。
 ギラギラと輝く太陽が水平線の向こう側へ落ちていくと、蒼く染まる僅かな時間帯を経て墨を流したような暗闇が島を包んだ。
 今日も武田はサッカーコートで居残り練習をしている。僅か数人のメンバーがそれに付き合っていたけど途中でアパート女のどこかの部屋へ消えていったよう だ。
 4号棟の教室にハンモックを張って寝ているのは、いつの間にか武田を含め両手に余るほどの人数になっていた。
 5号棟6号棟の男子生徒が集められて集約するらしいと発表があったのは数日前だった。

 日没後のシャワータイムを経て男子棟の教室に夕食が運ばれてくる。調理室で集中調理された今宵のメニューはガッチリ巨大なメンチカツ数枚に大量の飯とみ そ汁だった。
 馬が顔を突っ込む飼い葉桶の様なバケツには、大量に刻まれたキャベツなどの野菜類が入っている。
 武田はまるで競争でもしているかのように飯を食っていた。向かいの席にはラグビー部主将を務める真田が、武田に負けないサイズの丼でガツガツと飯を食っ ていた。

 教室内の男子生徒数は僅か15名。しかし、その15人で女子生徒なら50人分は食べてしまうのではないか?という勢いがあった。

「おい真田、お前タワーの女に俺の名前言ったか?」
「あぁ、21階の川口には言ったけど、まずかったか?」

「……いや、なんでもない」

 再び黙ってワシワシと飯を食い始める武田。
 数日前の食堂で何気なく口にした言葉を後悔していた。

 ……思い出してくれたのか?

 俺はもしかしてとんでもない事を言っちまったのかな。
 後悔しても遅いけど……川口……あいつは、やっぱり……

「武田、お前なんか隠してんだろ?」
 真田の目は真剣だった。
「え? あ、いや、隠してるっていうか……」

 武田はどう言ってよいものか悩んだ。

 自分が知っている川口の──川口香織という人間の重要な事実。しかし、それを口にしてしまうと、きっとあいつの事だから……

「絶対負けねーからな。お前だけには負けねぇ!」

 真田の鋭い目はライバルを射抜く強さを含んだ獣のような目だった。

「ん、まぁ……おれはサッカーだけ出来りゃ、それで良いんだけどなぁ」

 そう独り言を呟くと残っていた飯を麦茶で流し込んでグランドに出ていった。

 同じ頃、タワーの食堂で香織は沙織と久しぶりに差し向かいで食事をしていた。列車に乗って対局に出掛けていった英才がまだ戻っていないのだった。
 大雨の影響で列車が止まってしまったらしい。島は降っていないが橋の反対側にある町の辺りは夕立で相当降られたようだった。

「英才、大丈夫かなぁ……ご飯食べたかなぁ」
「子供じゃないんだから平気でしょ」
「うん……でもさぁ、電車止まってるって言うから缶詰になっていたら……」
「夜食でも用意しておいてあげられると沙織も安心なんだけどねぇ…」

 そこまで会話して香織はハッと気が付いた。
 いつも最後に水をがぶ飲みして教室へ引き上げる武田に夜食を用意して上げよう……何で気が付かなかったんだろう。

「ねぇ沙織、調理室のおばちゃんに相談して夜食作ってもらおうか? おにぎりとか」

 そう言う香織の顔は何かを企む策士の顔になっていた。沙織は当然それを見抜く。

「か〜お〜り〜。自分の分は、誰にあげるの? 自分じゃ食べないよねぇ〜」
「う〜ん、内緒!」

 そう言って微笑む香織の表情に沙織は何かを感じたようだ。
 食後の二人は談話室へよらずタワー隣の集中調理室へと歩いていった。巨大な調理工場となっている部屋の中でおばちゃん達がせっせと洗い物に勤しんでい る。

「こんばんわぁ〜!」

 沙織はこういうとき本当に役に立つ。どんな時も元気良く挨拶から話に入れる沙織の性格は自然と誰からも好かれる物だった。

 実は、かくかく、しかじか……というわけで……沙織と香織の相談は簡単だった。

 おばちゃん達もある意味心得た物だった。
「ただし…」
 そう言っておばちゃんは笑いながら二人に答えた。

「自分の手でつくって上げなさいね。その方が喜ぶから」

 セーラー服の上から前掛けをして調理帽を被り、ヘアピンで止めると二人は調理室へと入った。
 巨大な炊飯釜やオーブン、幾つも並んだ蛇の目台、そして、壁一面の冷蔵庫。
 おばちゃん達が出してきたのは生米だった。数人のおばちゃんが笑いながらレクチャーを始める。

「これも女に必要な能力の一つだからね、実戦で覚えるのよ! 愛のエプロンね」

 米を研いで圧力釜で炊きあげる。僅か10分で粒の揃った炊き立てご飯が出来上がる。
 塩と梅干しを用意して炊き立てアツアツのご飯でおばちゃんはおにぎりを握った。

「不用意に持つと熱いわよ。炊き立てだからね、気を付けて……火傷するよ」

 僅かな水を手に落とし塩を取ってから手早く握る。言葉にすれば簡単だが実際にやってみると案外に難しい作業であった。そして何より、炊き立てで熱い事こ の上ない。

「熱い熱い熱い! うわぁ!」

 などと大騒ぎしつつ不揃いの握り飯が幾つも出来上がっていく。一帖の海苔を半割にして握り飯に巻けば出来上がり。自分の部屋から持ってきたタオルに包ん で二人は調理室を出た。

「ありがとうございました!」

 二人はお辞儀してその場を離れようとする。

「ちょっと待ちなさい」

 おばちゃんは空いているペットボトルに麦茶を入れて持たせてくれた。

「これがないと困るでしょ?」
「頑張りなさいね」
「明日も来るんでしょ?」

 ここの人達はみんな味方なんだ……そう思うと二人は心から嬉しかった。

「香織はグランドへ行くんでしょ?」
「……うん」
「んじゃ、気を付けてね!」

 そう言って沙織はタワーへ消えていった。香織は街灯の灯る道をグラウンドへ走っていく。

 汗を掻いたらマズイかな……いや、むしろ汗を掻いていれば……ウフフ

 小悪魔のような微笑みを浮かべる香織がグラウンドに到着したとき、武田は無心にフェイントの練習中だった。近づくのも憚られるような集中力でボールを捌 く練習だった。
 香織はやや離れた闇の中に腰を下ろした。武田が練習を終えるのを待つ事にした。明るい光を浴びてたった一人のファンタジスタがボールと戯れている。

「上手いなぁ」

 無意識に香織は言葉を発した。
 目の前で繰り広げられるボールとの芸術。まるでボールが意志を持ったかのように武田の周りを漂っている。
 右足の甲で蹴り上げ膝から踵、肩、腰、頭、膝……

 バウンドさせたボールの上を両足がヒラリと越え後ろ向きで足裏パスを出す。後ろの回り込んでくるはずの味方に対して出したボールは香織の足元へ転がっ た。
いつの間にか香織はピッチに入っていたのだった。

「川口……また来たのか?」
「……うん」

 気まずい空気が流れる…

「悪いけど俺は女と遊んでる暇はないんだ」
「なんで?」

 武田はクルッと振り返って次のボールを蹴り上げると、再びリフティングからフェイントの練習に入った。

「世界では今も裸足でボールを追っかけてる子供がいるんだ」
「彼らは生きるためにサッカーをしてるんだ。サッカーが上手くなれば給料を沢山貰えるし、良い生活が出来る。何よりヒーローになれる」
「そんな奴らが目指すのはただ一つ……ワールドカップだ」
「あの舞台で活躍すれば全く違う人生が待っているんだ」

 そう言って武田は短いダッシュを繰り返しながらボールを捌き続ける。

「なんで……ワールドカップなの?」

 香織の脳裏に何かが浮かんだ。沢山の断片的なシーンのコラージュ、見覚えのある瞬間の積層体。それは全てサッカーの一シーンだった。

「なんで……か」

 武田は足を止めて背中を見せた、そのままダッシュしてピッチ中央まで走っていった。

「俺には幼なじみがいたんだ。そいつといつもボールで遊んでた!」
「俺はいつもそいつを抜くことを狙っていた。そいつはいつも俺をブロックした」
「俺はそいつをパスする為だけにフェイントを練習してたんだ!」

 ボールを蹴った武田は全力ダッシュで香織に突進してくる。
 光速ドリブラーの異名を取り、U-15世界屈指のスピードスターと呼ばれた武田は香織の直前でクルッと廻って背中を見せ、空中を散歩しながら香織のすぐ 脇を抜け再びボールを蹴り始める。
 真横をすり抜ける武田に一瞬香織は反応した。ほぼ無意識だったけど足が出掛けて引っ込めた。
 理由は分からないけど何となく直感で感じただけだった。これで止めると彼が転ぶ、と。

「やっぱり、一瞬反応したな」
「……武田君」

 武田は再びピッチの方へ走っていった。香織は駆け抜ける武田の顔が一瞬だけど泣き顔だったような気がした。
 その意味を何となく香織は思い出し掛けていた。

 背中を見せたままの武田。肩がカクカクと震えている。両手をギュッと握りしめうなだれて何かに耐えている。

「今のは……ルーレット、マルセイユルーレットよね。フランスのシャンパンサッカー業界に残る伝説の英雄、全盛期のジダンが得意だった技」

 香織の脳裏に散らばる記憶のカケラが、一つずつジグソーパズルのように組み合わさって、一枚の大きな画になりかけていた。それは香織の少年時代の記憶そ の物だった。

「おれは約束したんだ!」
「おれは最後に約束したんだ!」
「おれは必ずワールドカップへ行くんだ!」
「ワールドカップへ行って大声で名前を叫ぶんだって約束したんだ!」

 振り返った武田の顔は涙に濡れていた。海を挟んだ反対側の町に雨を降らせた雲が島に掛かり始めている。ポツポツと降り出した雨の中、武田の涙は止まらな かった。

「おれの事もサッカーの事も! みんな忘れちまうあいつの名前を叫ぶんだ!」
「そしたら……そしたら、思い出すかもしれないから……」

 そこまで叫んで武田は泣き崩れた。いつもクールに練習し続けている武田が男泣きに崩れた。声を上げて泣きながら武田は叫ぶ。

「おれはあいつとワールドカップへ行きたかったんだ!」

 普段ならすぐにもらい泣きする香織だったが不思議と冷静だった。
 何かを思いだした。間違いなく覚えているあのシーン、あの光景。
 全てが一本の線に繋がった気がした。封じられていた記憶が少しずつ繋がっていく……

 ふと足元に目を落とした香織はボールを見た。コロコロと転がっていくボールのイメージが頭の中で続いている。
 香織はそのボールを甲で蹴り上げると頭でリフティングし始めた。リズム良く垂直に打ち上げ背中に落とし踵で受ける。
 それを再び蹴り上げ膝で起こしながら右へ左へ動き続ける。

 泣き顔の武田が見とれている香織のステップ。まるでワルツを踊るように、優雅に緩やかにピッチを流れた香織は左スネでトラップすると叫んだ。

「まさと! センタリング行くよ!」

 フワッと起こしたボールに鋭くダッシュしてボールを蹴り上げた。
 美しい放物線を描いたボールは武田の──勝人と呼ばれた男の目の前に落ちる。

「おまえ……」

 何かを言おうとした武田だったがその刹那に雷光が二人を照らし雷鳴が聴覚を奪った。
 立ち上がった武田はボールを拾うとインステップで香織にパスを出す。そのボールを香織は胸で受けた。ブラ越しの感触が気持ち良いと香織は感じた。

「川口、おまえ……」

 そう言って歩いてきた武田だったが良いタイミングで雨が降り始めた。
 バケツをひっくり返したような土砂降りの雨がピッチに降り注ぎ、勝人は慌ててボールを集めるとバスケットに放り込んだ。気が付くと香織も走りながらボー ルを集めている。
 二人してずぶ濡れになりながら集めたボールをピッチサイドへ置くと、屋根のある所へ雨宿りに入った。二人ともずぶ濡れだが笑っていた。

「びしょ濡れになっちゃったね」
「あぁひどい雨だ」
「シャワーとか浴びる場所有るの?」
「いや、そんなモン無いよ。別に平気さ、タオルで拭いて寝るよ」

 香織は静かに笑っている、勝人はそれを見ている。

「川口……綺麗だよ。凄く綺麗だ……ホントに」

「ねぇ」
「ホントに川口なのか?」
「私の部屋に来て……くれる?」
「え?」

 そう言うが早いか勝人の手を取って香織は走り始めた。いきなり走り出した香織に引っぱられ勝人もダッシュする。
 バケツをひっくり返したような土砂降りの雨の中、二人して走っていくシーンを筋力トレーニング室の窓から鈴木は見ていた。

「おれは予選落ちか……」

 タワーの玄関を突破しエレベーターに収まる二人。勝人は目を丸くしている。
 この学園にこんな場所があっただなんて……目の前にいる香織の背中がかすかに震えてるのを勝人は気が付いた。

 なんて声を掛ければ良いのか……頭の中を色んな言葉がグルグル回って上手くまとまらない。

 21階のドアが開いて香織は玄関前に立った。勝人はまだエレベーターの中だ。
 振り返った香織は優しい微笑みで手を出した。

「お願い……来て……」

 全てを覚悟した勝人はエレベーターを降りる。ドア前の狭い空間に男女二人が取り残されてエレベーターのドアが閉まった。
 鍵を開けて部屋に入った香織はバスタオルを勝人へ渡す。

「とりあえず雨を拭こうよ。拭いたらソファーにでもかけて待ってて」

 そう言って香織は奥の部屋へ消えていった。勝人はびしょ濡れの顔や頭を拭きながらジャージを脱いでTシャツ一枚になる。
 4号棟の教室は無駄に広く、そこにあり合わせのテーブルを並べ飯を食い、ハンモックをつり下げ寝ていた勝人には想像も付かなかった恵まれた世界。
 窓の外には海が見える。21階ともなれば眺望は素晴らしい限りだ。

「凄いな……」

 勝人にはそれ以上の言葉がなかった、俺の知ってる一緒になって走り回ったアイツがここでこんな暮らしをしていただなんて。

 ふと部屋の隅の机を見れば英語、ラテン語、ドイツ語の辞書や教科書が並んでいる。反対側の壁には群青色のセーラー服が2着ぶら下が
っている。
 壁には大きな壁掛けテレビが下がっていてその下には名も知らぬ花が飾られていた。

 再び外を見た勝人は眼下遙かに走ってくる車を見た。タクシーの表記がある車から見覚えのある生徒が下りてきた。志賀英才が対局を終えて帰ってきたのだっ た。

 おれはどうすれば良いんだ……

 遙か遠くの空、雨を降らせた厚い雲が切れ始め大きな月が姿を現した。
 雨上がりの綺麗な空に浮かぶ蒼い月、その光が香織の部屋の中にこぼれている。

 突然フッと部屋の明かりが消えた。驚いて振り返る勝人。
 振り返るとそこにはブラウス姿の香織が立っていた。麦茶を入れたグラスを二つ持って立っている。

「座ったら?」

 そう言って香織はソファーに腰を下ろした。小さなテーブルを挟んだ反対側に勝人が座る。麦茶を手渡して自分の分を飲み始める香織。
 会話のきっかけのその先を取り合う状態だった。

「月明かりに照らされるとなお綺麗だな……どこかのお姫様みたいだ」

 勝人の口調はとても緩やかだった。日中の食堂で聞くような言葉は出てこない。
 それが勝人の配慮であると香織は気が付いた。前から分かっていたのかもしれない。そんな風に香織は思い始めていた。

「月の光に照らされると正体がばれるのよね。映画なんかじゃ定番のパターン……」

 香織の切り返しには僅かな棘があった。勝人は何て言葉を掛ければ分からず、糸口ですら失ったような状態になった。

 香織はうつむいて何かを考えている。勝人が何かを思いついた様に言う。

「正体がばれるってなんだろうな?」

 顔を上げた香織は正面に勝人を見つめている。その目には何かの覚悟があった。
 おもむろに立ち上がった香織はブラウスのボタンを外し始めた。
 ゆっくりとブラウスを脱ぐと、ブラジャーに支えられた大きな乳房が月の光に照らされ、豊満な印象をより一層深くした。

 スカートを下ろして下着姿になった香織は笑顔で勝人を見ている。勝人は目のやり場に困っている様だった。

「お願いだから、私を見て……目を反らさないで私を見て……私の正体を……」

 そう言うとブラジャーのホックを外してぽいと投げ捨てた。桃のような形の良い乳房が露わになる。
 勝人は言われるがままにそれを見ている。
 香織はショーツに手を掛けてひと思いに下ろしてしまった。香織の秘裂からショーツにツーッと一筋の糸が繋がってプツリと切れた。
 勝人の頭の中で様々な想いがグルグルと駆けめぐっている。靴下だけの姿になった香織は勝人の前に立っている。

「綺麗だよ……とても」

 勝人はそれ以上に言葉が繋がらない。
 21階の窓からそそぎ込む月の光が蒼い滴になって部屋に貯まっているようだった。
 静かに佇む香織の一糸まとわぬ白い裸体がその中でぼんやりと光っていた。


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