「7目差で俺の勝ちだな」

 英才の笑顔に充実感があふれている。沙織はまだ盤上を見ている。
 どこが悪かったんだろう?
 分析力に於いて沙織を凌駕する香織です、ら囲碁の勝ち負けを考えて戦略を立てることは難しかった。

「ねぇ。そもそも、ここの石が死んだ一番のポイントはなに?」

 沙織の目は真剣そのものだ。オセロ対決で3回続けて引き分けとなった後、英才は沙織に囲碁の参考書を渡した。
それはつまり英才のメッセージなのだが、沙織は承知の上で囲碁の勉強をしていた。

「そうだな、布石の段階で目外しをキチンと読まないと……手が先細りだ」
「ルールは簡単だけど戦略性が難しすぎるわね……」
「まぁ、それ故に1000年以上も楽しまれてる単純なゲームだからな」
「もっと研究してくる」

 そう言って沙織は立ち上がった。英才はそれを見ながら言う。

「明日は全日本のトーナメントでいないから打てないよ。明後日な」

 良い勝負をしたという満足感が笑顔に溢れている。それが沙織には悔しくてたまらない。
絶対勝ってやるんだとタワーに帰ってひたすら研究し続けていた。そもそもの目的が何であったか、それですら沙織の頭からは消えていた。

 翌日の夕暮れ時、沙織はプリプリと怒りながらタワーに帰ってくるなり、ロビーで立ち話していた香織と恵美に怒鳴った。

「あの馬鹿! ぼろ負けよ! 信じられない!」

 二人は何がなんだか全く理解できない。しかし、それを意に介さず沙織は一気にまくし立てる。中身は良く分からないが言いたい事は十分伝わった。
どうやら志賀英才は今日の勝負で全くいい所が無かったらしい。
 沙織は自分より強い英才が誰かにぼろ負けしたのが悔しいらしい。英才が負けたのではなく、自分より強い英才を打ち負かす存在が気に入らない様子なのだっ た。

 喚くだけ喚いて興奮したまま沙織は自分の部屋に閉じこもってしまった。香織は沙織を呼びに行く事すら憚られるような沙織の興奮状態が羨ましかった。
誰かの為にあんなに一生懸命になれるなんて……どっか違うぞ!って突っ込みを入れてくれる存在がいれば、また違う展開になるのだろうけど。

 その夜、香織は人気の全く無くグラウンドへ歩いていった。
 いつもは明るい光の溢れるピッチで、『彼』が練習している筈だが今宵は漆黒の闇、ピッチに立って周囲を見ると何かを思い出しそうな気がした。
 足元にボールをイメージしてピッチの上を右へ左へ……女性物の可愛い革靴ではピッチの上で滑りやすい。それを計算に入れてボールを右へけり出しながら重 心を移動して……
 突然ピッチが照明塔の光に包まれた。香織はその場で立ち竦むほどに驚く。しかし、ピッチの向こうで更に驚いている少年が一人。

「なにやってんだ? っていうか……なんで女がここにいんだよ」

 ぶっきらぼうな物言いで少年は香織を見た。

「ごめん。な、なんとなく……懐かしかったから」
「なにがだよ」
「え? あ、うん……その……サッカーが」
「はぁ?」

 少年はボールをピッチにばらまくと香織を無視して走り始めた。鋭くダッシュして急ブレーキ、また鋭くダッシュして今度は急カーブ。
ややあって足元のボールを蹴り上げ、頭でリフティングしながらピッチを横に走り膝でトラップしてゴールにシュートした。
 香織はピッチの上でそれを見ている。流れるような動きを見ながらボールを扱う少年の仕草に見とれている。

「なぁ気が散るんだ。どっか行ってくれないか」

 香織は小さく「ごめんなさい」とだけ言ってピッチから出てタワーへ歩き始めた。
 少年は香織が居なくなったのを良いことにドリブルからフェイントの練習を始める。
 しかし、ホンの一瞬だけ香織に目が行って足元のボールから目を切った瞬間、別のボールに足が当たりそのボールは跳ね上がった。
 ボールはこれ以上ない位の角度で香織に飛んでいく……少年は瞬間的に思った。

 くだらない漫画の1シーンじゃ有るまいし……

 しかし、ボールはふわりと上がって香織へと飛んでいく。少年は香織を呼ぼうとしたが、彼は香織の名前を知らなかった。少年の興味はサッカーだけだ。

「おい! ボール行ったぞ!」

 どう声を掛けて良いのか分からず少年が咄嗟に口にした言葉はそれだけだった。
 しかし次の瞬間、少年は目を見開いて驚くことになる。
 ボールが行ったと呼び止められた香織が振り返るとボールは目の前だった。香織は咄嗟に1歩下がって頭を引きながらボールを受けると胸でトラップして足元 に落とす。
ブラジャーの上からボールで乳房を叩かれてゾクっとした物の、咄嗟の動きにしては上出来だった。

「わりぃ! 悪気はなかったんだ……」

 一瞬間をおいて少年は香織にそう言った。香織はジッと少年を見据えて何かを言おうとしたのだが、先に口を開いたのは少年だった。

「すまない。ホントに悪気はないんだ……良かったら……ボール蹴ってくれないか」

 香織はボールを拾い上げると数歩ダッシュして蹴り上げた。振り抜いた右足がスカートを蹴り上げ、中身が丸見えだった……
 ボールは空中を散歩して少年の足元へポトリと落ちる。
 なかなかこれだけのスルーパスを貰うことはない。

 ……あの女、何者だろう?

 少年は香織をジッと見ている。香織はトボトボと寂しそうにタワーへと帰っていった。香織のファーストコンタクトはそれだけだった。

 翌朝、沙織は目を真っ赤にして食堂へ降りてきた。手にはびっしりと文字で埋まったレポート用紙が握られていた。
 のぞみはそれを見るなり直ぐに察して茶化す。

「一晩中研究したんでしょ〜愛しちゃって!」

 沙織は一瞬だけムッとした表情になったが、直ぐに耳まで真っ赤にして恥ずかしがった。
どうやら初めて自分の行為に気がついたようだ。真美がトーストを手に持ったまま笑って言う。

「徹夜はお肌の大敵よね」

 沙織はもう顔から火が出そうなくらいに恥ずかしそうだ。
 食堂でタワー組が沙織を茶化してるとき、英才は4号棟の教室でハンモックを片付けながら考えていた。

 今日は絶対橘と顔を合わせない様にしよう。何を言われるか……

 しかし、そう入っても狭い学校の中だ。嫌でも二人は顔を合わせることになる。昼食時の食堂で二人は遭遇した。
英才はそそくさと脱出を図ったが、それを見た沙織の光速の寄せで進路を阻まれた。

「なにやってるのよ! 無様じゃないの!」
「うるせーなぁ! いきなりそれかよ!」
「そうよ! ずっとテレビで見てたんだからね!」
「それはごくろーさんだったな!」
「あんな間抜けな碁を打つなんて、らしくないじゃない!」
「あ゛んだって? 言いやがったな!」
「当たり前でしょ! 棋譜を書いて研究したわよ一晩中! なによあれは!」

 英才の目が怒気を帯び始める。沙織はさらにテンションが上がった。

「だいたい、中盤で厚みが欲しい時に──」

 そう言ってレポート用紙を英才に押し付ける。

「自分の石の息を殺すなんてなに考えてんのよ!」

 沙織の声は叫びに近かった。

「勝負のあやだよ! 元男なら分かるだろうが!」

 そう怒鳴った英才だが、直後にこの一手がとんでもない悪手だった事を思い知った。
 両目に涙を一杯貯めて沙織は怒鳴った。

「英才のバカ!」

 そう言って泣きながら沙織は食堂を飛び出した。周囲の女子生徒や男子生徒がいっせいにヒソヒソモードに入る。しかし、英才はそれに気がつくどころか呆気 に取られ驚いた。
 自分を英才と呼んだ沙織の表情、それはまさしく恋する乙女だった。

 皿一杯のカレーを食べつつも英才の表情は虚ろだった。
 さっきの橘の顔は……一体なんだ?
 この罪悪感は一体なんだ?
 ふと見れば食堂のカウンターに沙織の用意しかけていた昼食が残っている。トレーの上に乗せられたサンドイッチと小さなパックのグレープフルーツジュー ス。

 英才はカレーを食べきるとそれを持って食堂を出た。出口付近で香織とすれ違った英才は香織に尋ねる

「なぁ、橘って一人で落ち込むとしたらどこへ行く?」

 香織はそれだけで英才と沙織が緊急事態だと察した。しばらく考えてみたが思い浮かばなかったけど、黙っているのもどうかと思って咄嗟に言う。

「たぶんだけど……景色のいい高いところね。沙織は24階だから」

 香織もそれがどこを指すのかはわからなかった。しかし、英才は何かを思いついたらしくどこかへ走っていった。
 英才が足を止めたのは3号棟屋上だった。ここから見る景色はタワー以外では最も高いところだ。

 ドアを開けて屋上に出た時、沙織はフェンスのそばに立って海を見ていた。

「橘……」

「さっきは言いすぎた、ごめん!」と、そう言えば話は済むと英才も分かっている。
 ただ、やはりプライドがそれを許さない。しかし、ここまで来て帰るのもどうかと思うので沙織のところへ歩いていった。

「橘……飯食わないと体に悪いぞ」

 沙織はゆっくり振り向くが途中で止まって再び海のほうを向いた。
 咄嗟に英才と叫んだ自分が恥ずかしくなった。そして……泣き顔を見られるのが嫌だった。しかし、英才は意に介さず沙織の真後ろに立って口を開いた。

「応援してもらったのに……悪かったな。前の晩は暑くて全然寝てなかったんだよ」

 沙織はゆっくり振り向いた。涙はまだ止まっていない。

「……ごめん、言い過ぎた」

 英才は何かを観念したようにそう言った。沙織は泣きながら笑みを浮かべる。

「私の勝ちね」

 英才は何かを言おうとしてるのだけど、上手く言葉がまとまっていないようだった。
 沙織はそれがなんだか瞬間的に理解した。

「サンドイッチ持ってきてくれたの?」
「あぁ、これも要るだろ?」
「うん、グレープ大好きなの」

 沙織に手渡そうとして英才がもう一歩踏み出そうとした時、沙織の表情が一瞬こわばった。
 ここまで全力疾走してきた沙織は汗を掻いていた。そしてそれを追って来た英才も汗だくだった。

 沙織の表情がこわばった理由を英才は理解した。沙織は必死になって理性の糸を握り締めている。

 飛んだら負け……飛んだら負け……負けたくない!

「なんで寝てなかったの?」
「だから……暑かったんだって」
「ハンモックルームにクーラーとか付けてないの?」
「そんなもんある訳ないだろ、涼みたけりゃ女の所へ転がり込めって奴さ」
「じゃぁ、今までずっと?」
「あぁ、そうだ。それがどうした?」

 沙織が必死で握り締めていた理性の糸は切れ掛かっている。汗だくになって寝る英才をイメージしただけで沙織の秘裂に恥蜜が垂れ始めた。

 もう……我慢できない……

「あ、明日も……碁を打つんでしょ」
「うん」

 英才も素直になっていた。ある意味で沙織が陥落寸前なのに気がついていた。
 しかし、ここで沙織側から求められて……という形にすると、後々になっても色々と言われかねないな…と、そう思っていた。

「なぁ橘……俺を一晩泊めてくれないか? 今夜も暑そうだし」

 英才はすべて観念したようにさわやかな笑顔を浮かべた。男らしい良い笑みだ。
 それが沙織を陥落させてしまった。

「うん……いいよ……むしろ、今すぐ来て……今すぐ……」

 沙織の手が英才に伸びる。英才はその手を受け止めた。
 沙織の手が英才を抱きしめる。沙織の鼻に英才の汗の臭いが充満した……

「今すぐ……私を抱いて」

 英才は優しく微笑んで沙織を抱きしめた。それだけで沙織は意識が遠くなる。TS法で作り上げられた子作り人形のスイッチが入ってしまった。
 3号棟の屋上出口扉付近で一部始終を見ていた香織は、何も言わずドアを閉めて鍵を掛けた。ドアの向こうで沙織と英才が事に及ぶのを見届けたのだった。
なにかそれを見ているのが凄く無粋な行為に感じて香織はドアを閉めたのかもしれない。この学校のこの屋上はタワー以外からだと完全な死角になる場所だっ た。

 沙織……良かったね……

 香織は無意識に涙を流していた。あの日から折り重なっていた、沙織と香織の人生が切り離された瞬間を香織は感じ取っていた。

 ドアの向こう、屋上の片隅で英才と沙織が最初の交わりをしている間、香織は門番よろしくそこで泣き続けていた……

 二人とも肩で息をしている状態で英才は沙織を抱きしめた。催淫効果のピークは越えたが沙織の神経は昂ったままだ。沙織の幸せそうな表情が英才も幸せにし ていた。
「ねぇ、キスして……」
 熱いキスを交わす二人。英才は子種を全部沙織に注いでいた。

 乱れた衣服を直して歩き始めた二人。香織はそれに気がついてそっと鍵を開けて走り去った。

 泣き顔を沙織に見せると心配するだろうな……沙織は幸せ一杯なんだから……

 そう思って香織はいつの間にか3号棟のシャワールームへ来ていた。恐るべき事にここのシャワールームは男女兼用だ。
午後の各自研究となっていたので誰も居ないだろうと思い、香織はシャワールームに入って熱い湯を被った。とにかく泣き顔を見られたくは無かったのだろう。

 ひとしきりシャワーを浴びて脱衣所へ歩き出したとき、香織は湯気の中に人影を見つけた。それが男子生徒だと分かった瞬間にその人影は香織を押し倒した。
 シャワールームで倒れる香織。世界が前方へ流れていって天井が見えそうになった時、後頭部にグシャッと言う音が響いた。押し倒した男の大きな手が香織の 頭を守ったのだった。

「なぁ! 頼む! 俺を求めてくれ……お願いだ」

 そういって男子生徒は笑顔を見せた。香織は何て言って良いか分からなかったが、とりあえず物の順序として思いつくままに声を出した。

「その前にまずは名乗って欲しいものね」
「……すまない」
「私が誰だかわかって押し倒したの?」
「もちろんだ。タワー21階の川口だろ」
「うん、正解」
「俺は……ラグビー部のナンバーエイト、真田英雄だ」
「では真田君、まずは私に乗っかるのをやめてもらえる?」
「俺じゃ……やっぱ釣り合わないかな。タワー住まいのエリートさんには……」

 そういって真田は体を起こした。いきり立った真田のペニスを見て香織は言う。

「私を狙っていたの?」

 真田は何かを観念したように座り込んで言った。

「しばらく前、サッカーコートの所で武田を見ていたろ」
「武田って……毎晩練習してる彼?」
「そうだ」

 ふーん……彼は武田っていうんだ……

「川口……俺の話聞いてる?」
「あ、ごめん。聞いてなかった」

 微妙な空気が流れた。しかし、香織は自分が素っ裸でいることに気がついてタオルを取り体に巻いた。一部始終を真田は見ていたが、いきり立っていた筈のペ ニスは萎えている。

「俺……ずっと川口を見ていたんだ。最初に共学になった時からずっと……」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、私が認めないとあなたは処分されるよ」
「わかっている。でも、諦めたくなかったんだ」
「なにを?」
「お前に決まってるだろ」
「なんで?」
「昨日の夜、サッカーコートで武田と話をしていたろ。アレを見て焦ったんだ」
「何も話なんてしなかったよ。むしろ追い払われた」

 真田は一瞬ホッとした表情を浮かべたが、その後で酷く落ち込んだ。
 もはや処分は免れない……覚悟を極めた表情だった。

「さぁ、人を呼んでくれ……覚悟は出来ている」

 香織はしばらく考えてから真田に手を伸ばした、真田はその手を取った。

「さぁ立って。そして行って! 今日は何も無かった……そうよね? さぁ行って」
「え? おい、それって……」

 香織はよそを向いて言った。

「私の気が変わらないうちに早く行って!」

 真田はうしろを向いて歩いていった。香織は小刻みに震えている。
 シャワー室の出口まで行って真田は香織に聞こえるように言った。

「ラガーマンは最後まで諦めないように教えられるんだ。おれは諦めない」

 沙織が幸せな初日を迎えた日、香織は危うくの強姦未遂だった。

 まだまだ波乱がありそうな予感に香織は震え続けていた……


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