平成16年6月28日(月)
昨夜、HPを見たと言う方から一通のメールが届いた。
質問したいことがある、ということでいくつか質問事項が書かれていた中に
「裁判で勝ったとして、それで満足ですか?」というものがあった。
どんな風に答えたらいいのだろうかと、私はしばらくの間考え込んでしまった。
たった一通のメールでも、こういう質問が寄せられたと言うことは、
同じような疑問を抱いている方が他にもいらっしゃるのかもしれない。
私が裁判を起こしたのは、勝訴して「満足」を得るためではないことだけは確かだ。
下されるであろう判決に対しては、「満足」「不満足」どちらも該当しないように思う。
例えば勝訴したとしても敗訴したとしても、私はその判決を「ひとつの区切り」として、
その事実だけを冷静に受け止めるだろう、と今現在そう思っているからだ。
私は実のところ「○○だから提訴したのです」という明確な理由を1つに絞り込んで
提訴したわけではなかった。
いい加減だと思われるかもしれないけれども、当時は私自身が混乱していたこともあって、
そう冷静に多くのことを考えることは出来なかったように思う。
私はとにかく、事実関係をはっきりさせるため「話し合いがしたい」と思っていた。
けれど個人では話し合いに応じてもらえなかったから、調停を申し立てた。
調停で話し合いが出来なければ、後に残されている方法が裁判しかなかった、
というのも提訴した理由のひとつだ。
私のようなペット医療裁判で、勝訴という判決に対して「満足」と感じることがあるのかどうか、
申し訳ないのだけれど私には分からない。そう感じる人も中にはいるのかもしれない。
例えば人間の子供が医療過誤被害に遭って亡くなったとする。
人間の医療過誤事件で被害者側が勝訴して支払命令が下されれば、
その判決は第三者からしてみれば「結構な額の支払命令」なのかもしれないし、
「それだけもらえば十分だろう」と思う人もいるかもしれない。
けれど、残されたご両親、ご家族の立場になって考えた時「裁判で勝訴した」ことを、
「満足」という言葉でその心中を表現することは決して出来ないだろうと私は思うのだ。
裁判を起こして勝訴を勝ち得たとしても、
特に医療過誤裁判、医療過誤訴訟に於いてそれを「満足」と言える人は
仮に存在したとしても、ごくごくわずかなのではないだろうか。
勝訴の判決で、絶たれた命が戻ることはない。
けれども医療裁判に臨んだ被害者の全ては、そのことを十分知っていながらも、
泣き寝入りしたくなければ「非を明らかにするため」
医療訴訟を起こさざるを得ない状況に立たされるのだと思う。
訴訟には多くの時間も費用も労力もいる。
人間の医療の場合も同じなのだろうが、特に、医療過誤、
医療訴訟は被害者にとっては極めて過酷だ。
それが、法的に物として扱われるペット、動物の医療過誤訴訟、
医療ミス訴訟であればなおさらだ。
これは私も提訴する前から、ある程度理解してこのペットの医療裁判に臨んだ。
こと、ペットに関する医療裁判の過去の判例を見ると、その事実は顕著だ。
勝訴した例を見ても、私が知る限り、裁判費用、弁護士費用をまかなえるほど支払われた判例はない。
言ってみれば、赤字を覚悟で事実を明らかにする、それが今のペット裁判の現実だ。
考えてみれば「裁判を起こす」か「泣き寝入りする」以外にも選択肢はあったのかもしれない。
費用も時間もかかる上、判決は勝ったとしてもこの程度。
だったら裁判のようなまどろっこしいことをしないで、法に触れない程度に、
「相手を精神的に追い詰めたりすること」をひそかに考える人もいるのかもしれない。
風評被害を被らせるために、相手を誹謗中傷するビラを貼ったり、
動物病院名や獣医師名を伏せ字にして自分の遭った被害をネットで公開したりしている人もいるのかもしれない。
どの方法を選択するのか?それは人それぞれだろう。
私はその中から「裁判」を選んだ。ただそれだけのことだ。
現実問題、様々な問題を孕んでいる今の状況で、
すみれのようなペットの医療過誤、獣医師による医療ミスに遭った場合、
裁判にまで至らず、例えば「話し合い」などで済むのが一番だと今も思っている。
それなのになぜ裁判を起こしたか?
それは私が当初話し合いを望んだ結果に他ならない。
相手を追い詰めるのではなく、私は事実を明らかにして納得したかった。
納得できるまで話がしたかったけれど、それが叶わず裁判に至ってしまったというだけの話だ。
人の「考え」や「思い」は日々刻々と変化してゆく。
私の場合、提訴して裁判が始まってから、時間が経過するごとに
少しずつ冷静に物事を考えることが出来るようになってきた。
私はこの医療裁判で何を訴えたいのか、この医療訴訟を通して望むことは何か、
皆に知って欲しいことは何かが、やっと見えてきたように思う。
すみれを亡くした平成14年から、そろそろ2年が経とうとしている。
裁判の迅速化が叫ばれる中、こと私個人に関してだけは、
この2年という時間が気持ちを整理してゆくうえでは必要な時間だったのかもしれないと思う。
今回の裁判で、裁判長から「鑑定人の必要性」について話が出された。
「鑑定人が必要であれば、裁判所としても鑑定人の選定を考慮しなければならない」と。
私は、裁判長のこの一言を聞いて涙がこぼれそうになった。
専門的知識が必要とされる裁判では、この「鑑定人」が必要とされる。
例えば「建築」に関する裁判では、当事者だけが分かっている「建築に関する専門的な用語」で
書面が交わされても、裁判長は「建築の専門家」ではないから公正な判断を下すのは難しい。
そこで、裁判が公平に行われるための「建築の専門家」である「鑑定人」の存在が必要になってくる。
「専門家」が「鑑定人」となって、原告の主張と被告の主張について、どちらの主張が正しいか、
専門的に見ておかしな部分や誤魔化しがあるのかないのかを中立の立場で判断するらしい。
特に医療過誤裁判では鑑定人は必須だ。
けれどすみれの裁判で「鑑定人」の話が出されたたことはこれまでなかった。
今までは「協力してくれる獣医は見つかりましたか」と聞かれるだけで、
それは私側で協力してくれる獣医師を探し出さなければならないということを意味していた。
裁判所が認定した鑑定人は、私の援護をしてくれるわけでは、もちろんない。
提出された証拠や資料を元に、専門知識に基づいてあくまでも中立の立場で鑑定することになっているはずだ。
私は今まで、その「中立の立場で鑑定する鑑定人」を望んでいた。
この裁判で、裁判所が鑑定人を選出するとなれば当然その鑑定人は「獣医師」だ。
実際に、その「被告と同業者である獣医師の鑑定人」が「公正、中立」を維持することが出来るかどうかは
人間の医療過誤裁判でも問題になるくらいだから分からない。
けれど、ペットの医療過誤裁判で裁判所が鑑定人を選出してくれることが当たり前になれば、
獣医療に関する専門知識がないにもかかわらず提訴を余儀なくされ、
その上裁判長に被告獣医師の非、
医療過失を立証しなければならなかった今までと比べれば、
飼い主側の負担は随分軽くなるような気がする。
実際に「鑑定人が必要」と判断され選定されるかどうかはまだ分からない。
それでも今日は私の気持ちが裁判所にやっと通じたように思えて嬉しく思えた。
すみれの動物医療過誤訴訟のHPを立ち上げてから、
「審理中の裁判をHPで公開するのは判決に不利だから止めたほうがいい」というご意見や、
「要望書は裁判長の心証を害する」というアドバイスを頂くことがある。
ご心配からアドバイスしてくださることには本当に感謝している。
けれども、もし万が一、すみれの裁判経過や私の心情を、
このような形で公開することが判決に悪影響を及ぼして、その結果が「敗訴」だったとしても、
おそらく私は、それを受け入れることが出来ると思う。
それは私が、「判決」が全てだとは考えていないからだ。
下されるであろうこの愛犬すみれの医療過誤訴訟の判決は、私にとっては「過程」に過ぎない。
経過であり、一つの区切りが判決なのだと私は認識している。
要望書に関しても私の考えは同じだ。
「送られた要望書で判決が有利になることはない」ということは、
要望書を書いた時点で既に司法関係者から言われていた。
「裁判長の心証を悪くする可能性はあっても、判決が有利になることはない」と。
もともとが要望書は「判決を有利にするためのもの」ではなかったので
これは私にとって全く問題にはならなかった。
私が要望書をお願いしているのは、このペット医療裁判は司法側に
「飼い主が望んでいる事や獣医療の現状」を伝えるきっかけになるのではないか?と考えたからだ。
それを理解してくださっている方々が、
それぞれ要望を伝える手段のひとつとして利用してくれたらそれでいい。
万が一にも、司法側に現状を知ってもらうことと引き換えに「敗訴」ですよ、と言われたり、
要望書が多かったから「勝訴」ですよ、などという、理由で判決が下されるのだとしたら、
それ自体が問題だろう。
アドバイスしてくださった方の言うように、裁判長も人だから、
たくさん寄せられる要望書を快く思わない人もいるかもしれない。
けれど、逆に寄せられた多くの声を真摯に受け止めてくれる人も中にはいるかもしれないとも思うのだ。
それは私がどうこう言えることではない。
私は現状を知って欲しいと思った。
けれどもそれがどう受け取られるかまでは、私には分からない。
私が分かっていることは、判決が有利になることはない、ということだけだ。
そう言えばいつだったか、
「被告獣医師の名前や動物病院名を公開しないのは、名誉毀損で訴えられるからだろう?」
ということを言われたことがある。
その意見はごもっともで、そう言われれば確かに一理ある。
私は聖人君子ではないから、話し合いにも応じず、法廷にも一度も出廷しない被告獣医師のことは
未だに許せない。
出来ることなら、現在2件も訴えを起こされている被告獣医師の動物病院には誰にも行って欲しくないとさえ思う。
けれども、「許せない」からといって「被告獣医師の名前や動物病院名を公表して晒し者にしよう」とは思わない。
それは単なる腹いせや嫌がらせに他ならないと思うからだ。
「名誉毀損で訴えられるから」以前に、私は「単なる嫌がらせや腹いせ」をして
「あぁ、せいせいした」と思えるタイプではない。
それは私自身がよく分かっている。
おそらく、それをしたら私は、そんなことをした自分が嫌でたまらなくなってしまだろう。
きっと深い自己嫌悪に陥るに違いないと思うからだ。
私は今裁判所に、今回被告になった獣医師に「非があったのか」「非がなかったのか」の判断を委ねている。
今現在はまだ、被告獣医師に「非があった」ことは確定ではない。
被告獣医師の医療ミスは確定したわけではないのだ。
私が訴えているのはたった一人の獣医だ。
少なくとも、非が明らかでない今の段階で、その動物病院の関係者や家族が、
私の、あるいは私の近親者が漏らした情報によって誹謗中傷されるいわれはないだろう。
彼らにも日々の仕事や生活がある。
守らなければならない家族があるかもしれない。
中には真剣に職務にあたっているスタッフだっているのかもしれない。
私には、その人たちの立場まで危うくする理由はどこにもない。
もちろんその権利だって私にはない。
私が動物病院名を伏せていることで、ごくごく限られた人の間では
「単なる憶測」が「被告の動物病院」としてまことしやかに飛び交っているようだけれども、
私が見た限り、それらはあくまでも憶測に過ぎないものだった。
私の書いた裁判経緯などから解読、分析して、推理したその労力はすごいと思う。
なぜなら、この「ごくごく限られた人」は、自分のペットが医療ミス被害に遭わないために
被告獣医の動物病院を必死に探しているのではないからだ。
世の中にはいろんな人がいるけれども、このように流される、無責任で不確かな情報によって、
根拠もなく今まで信頼していた獣医さんを疑ったりすることだけはないように願うばかりだ。