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平成16年5月18日(火)

つい先日私が仕事を終えて帰宅すると、玄関のほぼ真ん中、 「見て」と言わんばかりの位置に大きな鉢植えが置かれていた。
「玄関のアジサイみたいなやつ、きれいだね」と私が褒めると母は、気づいてくれたの?
という表情で「きれいでしょう?新種なんだって」と幸せそうに答えて、 「それと、あのお花は《アジサイみたいなやつ》じゃなくてアジサイ。
庭に植えるから見てあげてね」と苦笑しながら付け加えた。

私は草花に疎い。
私が花を見て「きれいだなぁ」と思うことは、 その花の名前を覚えようとする脳の回路には結びつかないようだ。
その花があまりに美しいからといって、 私は母のように「そっと一輪、手のひらに乗せて眺める」ということもまずない。
私にとって庭に咲く草花はその季節、四季折々の風景に過ぎないのかもしれない、と思う。
例えて言うなら、私が草花を見て感じるそれは、 ほんの限られた期間だけ見ることが許された絵画を見たときの感動に近い。
無粋な表現だが、「得した気分」が多分に含まれている。
母に言わせればそれは「風情がない」ということらしい。
私は母から聞かされた新種のアジサイの名前も「へぇ」と答えた次の瞬間には、 きれいさっぱり忘れてしまった。

そんな私にも例外がある。
長く寒い冬が終わって、春の温かい日が数日続くと、我が家の門の片隅に咲く花がある。
それはとてもあっさりとした花で、パッと目を引く華やかさはない。
ニラに似た細長い葉がシュッと四方に伸び、葉の中央から一本の細長い茎が伸びている。
その先端に、淡い水色の、星の形をした小さい花をたったひとつだけ付ける。

私は、その小さな花だけは、傍にしゃがみこんでしばらくの間見入ってしまう。
風の形に添うように容易にたなびくその花が、すみれは大好きだった。

すみれの目線の高さに咲くその花は、よほどすみれの興味をそそるらしかった。
お散歩の帰り道、私はいつも車の通らない自宅まで4〜50m手前まで来ると 「どうぞ」と言ってリードをパッと放す。すると我が家の愛犬たちは一斉に玄関に向かって駆け出す。
玄関を開けてもらったら、今度は我先にと浴室に向かって駆け出す段取りだ。

すみれは何でも一番が好きだったから、 いつも一早くゴールして私が玄関を開けるのを待っているのだけれど、この花が咲く時期だけは違う。

なぜか「帰り道限定」なのだが、すみれだけ門のところで立ち止まってしまう。
「ぱくん」「ぱくん」と、ゆらゆら揺れるその花を食べようとするのだ。
なぜか決して口には入らない。
わざと頬に当てたり鼻に当てたりして食べてしまわないようにしているようにも見える。

このすみれの「ぱくん」は飽きるまで続く。
私がすみれの顔を覗き込んで、「みんな待ってるんだよ」と声を掛けても、 すみれは夢中になって聞いてなどいない。
すみれちゃん」と名前を呼んだときだけは、一瞬ぴくんと耳を上げるのだけれど、 こちらを見ようとは決してしないのだ。
抱き上げて連れてゆくことも出来るけれど、他の二匹は玄関でおとなしく待っているし、 なによりすみれの姿があまりに面白いので、私はそのまましばらく眺めていることに決めた。

私はすみれが飽きるまで、しばし隣にしゃがみこむ。
しばらくするとすみれはふいに、「おもしろかった!」とでも言うように、 くるりと私の方を向いて鼻の奥を「クッ」と鳴らす。
すると次の瞬間には満足気にトコトコと玄関に向かって自分から歩いて行くのだ。
これが毎年この時期の、すみれの日課だった。

すみれは日々幸せに過ごしているのだ、と当時の私は思い込み、疑ったことなどなかった。 けれど、本当にそうだったのだろうか。

「充実した一日が幸せな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす」
とイタリアルネッサンスを代表する偉人は言った。
私の父はまだ若く、その死はあまりに早いものだったけれど、 父の表情は心地よい夢をみているかのように柔和で、微笑んでいるようにすら見えた。
父は苦しむことなく、家族や兄弟に見守られて、とても静かに息を引き取った。

私は父の死に直面した時、あまりに穏やかなその表情を見て、それぞれに与えられた 「一生」という時間は異なっていて、与えられた時間の終焉が「死」なのかもしれない、
死は悲しいけれど苦しいものではないのかもしれない、と思った。
そして「死」に対する私のその考えは、すみれの死を目の当たりにするまで変わることはなかった。

私がそれまで遭遇した「死」は人も動物も等しく、眠るようなその表情は、 限られた時の終わりを甘受しているようにすら私の目には映っていた。
悲しいけれど、決して受け入れられない、というものではない。
時間という医者に身を任せていれば、それは次第に癒える傷だった。

私はすみれの死を受け入れることが出来ていない。
まだ先のあるすみれの命を途中で絶ったのは私だ、と思う。
私の判断、選択、全てが間違いだった。
すみれが他の誰か、私でない誰かに育てられていれば、少なくともあんなに惨い姿で すみれが命を落とすことはなかった。
裁判によって仮に被告獣医師の非が認められたとしても、私の後悔は一生消えない。
むしろ私はこのことを決して忘れてはいけないのだと思う。
すみれは二度と戻ってはこないのだから。

この事実を反芻するたび、私は深くうなだれてしまう。
私がうつむくと、おかしな言い方だけれども、同時に心もうつむき、より深くうなだれる。
自分が進むべき真っ直ぐに伸びる道を、そんなときの私は目をそらし、決して見ようとはしなくなる。
これではいけない、と心のどこかで気づいていながらも。

今回の裁判数日前まで、私の精神状態はギリギリだった。
自分に出来ることは大方準備できたと思う。
それでもまだ足りていない気がして間に合わない、もう時間がない、と気ばかりが急いていた。
自分でどうしようもないことで焦ったり苛立ったりすることほど無意味で馬鹿げたことはない。
それに改めて気づかせてくれたのは、裁判前日頂いた、「一人じゃないからね」、 「大丈夫、自信を持って」という皆さんからのメールだった。
これには心底救われた思いがした。
本当に有難かった。
一人で頑張らなくてはいけない、と思い込んで自分を追い詰めていたのは 他でもない自分自身だったということに、私はこの日改めて気づかされた。

お陰で私は翌日気持ちも新たに裁判所へ向かうことができたのだが、 今回の裁判は10分も経たないうちに終わった。
私側から「証拠」としてまとめた分厚い資料を手渡して、次回の呼び出し期日を決めただけだ。
提出した「証拠」についても今回は何も言われなかったので拍子抜けしてしまった。

私は、弁護士にあらかじめ「次回は何分くらい話し合いをする予定ですか」と聞いておけばよい、 ということに今更気がついた。
こんな単純なことにどうして今まで気づかなかったのだろう。

思い返してみたら、平成15年2月頃から訴訟準備を始めて、7月にやっと訴状が出来て提訴した。
最初の呼び出しは2ヵ月後の9月だった。
その「第一回口頭弁論」は法廷で行われ、私は緊張のあまりとても萎縮してしまい、 とても長い時間に感じたのだが、そのときも10分程度だった。
その後10月、11月の呼び出しのときも、書面を交わすだけだったから、 時間にするとやはり正味5分か10分で、 話し合いと言えるようなものは年が明けて平成16年2月16日まで一切なかった。

次回は、今回私側が提出した「証拠」を元に、私の代理人が法律用語を交えて書面を作成し提出する。 「証拠」だけを見て相手が「反論」することはないらしい。
ということは、次々回は、「次回私の代理人が作成し提出する書面」に対して、 被告側が「反論」の書面を提出することになるのだろう。

つまり、しばらくの間はまた書面を交わすだけの10分裁判だ。

書面を交わすだけ、と言っても、それは証言するのと同じことで 互いの言い分を前もって書面にする。それを交わせば改めて話し合う必要もないから 時間短縮に繋がる、という理屈らしい。

通常の民事事件、例えば「お金を貸したのに返さない」などの事件は、争点がはっきりしているから、 「何度も書面を交わすだけ」というのはほとんど必要ないらしいのだが、 私の場合は争点を明らかにする前の段階で、標準的な獣医療行為はどんなものかとか、 犬の白血球の数値は通常はこの位だとか、子宮蓄膿症はこういう病気で、 病理検査で出た結果はこういう病気なのだとか、 そういった諸々のことを裁判長に予め理解してもらわなくてはならない。
そのための書面が何度も何度も交わされているのだそうだ。

この分ではまだまだ先は長いな、と思った。
仮にこの段階で傍聴可能になったとしても、わざわざご足労頂いて10分ではあまりにも申し訳ない。
せめて交わされる書面が読み上げられるのならよいのだけれど、 具体的な内容は傍聴していても分からないだろうな、と思う。
裁判長からは「準備書面、甲○号証の○ページ、この部分に補足が必要」くらいしか言われない。
直す部分が特になくて、疑問点もなければ、あとは「次回はいつがよろしいですか」となる。

裁判は公開される、といわれているけれども、 裁判が法廷で行われて傍聴できるのはほんの数回だけなのだということがようやく分かった。
私の場合、第一回目の口頭弁論の時以外は「ラウンド」と呼ばれる丸テーブルを囲んでのものだし、 そこは部屋の隅に長いすが置かれているだけで、特に傍聴席と呼べるものもない。

今回、私側の証拠と言えるものはほぼ提出し終えた。
その証拠を元に次回提出する書面を作成するのは私の代理人だ。
次回の呼び出しまで私のしなければならないことはほんのわずかだということが分かって 私はやっと少し安心することが出来た。

今年、年が明けてすぐ、私の身体に「好ましくない細胞」があることが病院の精密検査で分かった。
この機会に入院して心身ともに少し休もう、と私は考えた。
主治医の説明はとても丁寧だったから、お陰で私はよく納得することができたし、 そう不安を抱くこともなく、すみやかに手術を受けることができた。
スタッフの方々も皆親切だった。
麻酔科の先生に、すみれ手術で被告が使用したと言っていた麻酔薬のことをいろいろ聞いたら、 「人の麻酔では今はほとんど使わないけれど」と言いながら、 忙しい中わざわざその麻酔薬の説明書を探して枕元まで持ってきてくれた。
さらに「麻酔についての講義」というおまけまで付いていた。

そんな風に私は入院中、知りたいことをすぐに教えてもらえる有難い環境にいたので、 今がチャンスとばかりに欲張って、手術室に入る寸前まで調べ物をし、 手術翌日体の自由が利かなかったときでさえも、 看護助手に頼んでこっそり文献を枕元まで持ってきてもらったりしていた。
結局、「入院中は何も考えないで養生しよう」 という決意がどこかに行ったまま日常に戻ってしまったので、今まで気持ちの休まる時はなかった。 これから先を考えたらほんのわずかな期間だとは思うのだけれど、 今回の仕事は弁護士にバトンタッチできると思ったら、私は提訴して今回初めて安堵感を覚えた気がした。

訴訟経過文などの転用・転記はお断りします

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