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平成16年3月22日(月)

前の晩に兄が、「明日は親父の墓参りに行ってくる」と言っていた。
父のお墓参りは、数日前に行ったばかりだ。
けれど兄は、父が今日のすみれの裁判をうっかり忘れてしまわないよう 更に念を押してくるのだと言う。

その晩、私は眠ることが出来なかった。
前回の裁判を思い出すたび、「行きたくない」という気持ちばかりが大きくなってゆく。
朝が近づくにつれて、みぞおちの辺りがキリキリと痛んできた。

兄が家を出たのは、ちょうどその頃だった。
外はまだ暗い。時計を見ると5時を回ったばかりだ。

墓苑までは、おそらく兄の運転でも2時間近く掛かるだろう。
静かで、見晴らしの良い山の上の、美しく整えられたその場所に父は眠っている。
今日も父が私を見守ってくれるよう、それを父に伝えるためだけに 兄は夜もまだ明け切らぬうちに家を出た。

私は、それをとても有難いと感じていた。
けれど、「その気持ちに応えなくては」という思いが募るのと同じだけ 私は、自分の体に錘が一つ、また一つと増えて行くかのような重圧感を覚えた。

兄が墓参りから戻ってきてもまだ、私はのろのろと支度を終えることが出来ずにいた。
兄は支度をしている私の傍らで、父にすみれの写真を見せてきたとか どんな風に頼んできたかを話し続けていたけれど 私は「ありがとう」と一言だけ言って、後は目も合わせず、ただ黙りこくっていた。

口を開いたら、思わず「今日代わりに裁判所に行って」と言ってしまいそうだった。
それを言えば、兄が私の代わりに裁判所へ行ってくれるということも分かっていた。

私は、それだけは駄目だと思った。
全ては私が決め、私が始めたことだ。




裁判所へ向かう車中で、私はぼんやりと考えていた。
父ならなんと答えるだろう
私が今、「裁判所に行きたくない。前にこんな嫌なことがあったんだよ」と 泣き言を言ったとしたら。

私は、父の姿を思い出した途端、思わず笑ってしまった。
そうだ、父はきっと何も答えない。
口の片方だけをキュッと上げて、ニヤリと笑う。
そして、いつもみたいに一言こう言うだけだ
「頭使わんか、バカタレ」と。

私は、少しの間考えた。
今日の話し合いは、たったの30分間だけだ。
その30分の間だけでも、自分の心の向きをほんの少し変えることが出来れば 嫌だ嫌だと思っていたことも、さほど苦痛には感じないかもしれない、と。

「今日もしも、また何か嫌なことを言われたら・・・」と考えて ふと、「嫌なことを言われた瞬間、笑顔で返す」というのはどうだろう?と思った。
「言うと思っていました」とでも言うように。

おそらく、私がそれを実行に移すことはないだろう。
けれど、その場面を想像しただけで、次の瞬間にはもう私の心は随分と軽くなっていた。


話し合いは今日も前回と同じ部屋、第三弁論準備室だった。
顔合わせも前回と同じだ。
つまり、今回も獣医師が出廷することはなかった。

私側は裁判所に、被告の過失を主張するための準備書面を提出していた。
今回は、その準備書面を元に話が進められる。

今回、A4用紙3枚分の準備書面のメインになっているのは、すみれの病理検査結果だ。
すみれの子宮の病理検査は、念のため2箇所の検査施設に出していた。


届いた検査結果報告書は、2箇所共が同じ診断名だった。
そして、その診断名は、子宮蓄膿症ではなかった。

話し合いは、おおむね順調に進んだ。
今回、被告側の代理人の発言は、多くはなかった。

裁判長から、今回私側が提出した書面に補足すべき点、修正する点などが挙げられた。
次回までに、補足、修正した準備書面と併せて、それらの主張を裏付ける文献も 揃えなければならない。

準備書面に、たとえばこんな記述があるとする。
「すみれのような短頭種の犬の場合、気道を確保するための軟口蓋の後縁が 気道を閉塞しやすい構造を造っているため、麻酔時など意識を喪失した状態では 気道を確保するため、気管チューブが必要とされる」
私側は既に文献を読み、理解し、納得した上で書面を作成しているから 「ペキニーズは分類上短頭種である」ことや「気管チューブ」がどんなものなのか 疑問を持つことはない。
それは、私側に「ペキニーズ=短頭種」という概念や、 「既に文献を読んで得た予備知識」があるからだ。

この一文だけでも、少なくとも「ペキニーズが短頭種である」こと、「短頭種の特徴」や 「短頭種は麻酔時にどのような状態になるか」が書かれた文献を「主張を裏付ける資料」 として裁判所に提出しなければならないのだという。

私の手元には、病気のことや麻酔のことを調べるために、友人、知人が提供してくれた 文献のコピーがたくさんある。
今回の主張を裏付けるだけの資料は揃っている。

裁判資料として文献のコピーを提出する場合は、 その文献の「表紙」と「奥付」のコピーも必要なのだという。
私は知らなかったのだが、「奥付」とは、本の最後のページにある、 「発行所」や「発行日」などが書かれた部分で、 それらがないと裁判資料として認められないということだった。

そんな決まりがあったなんて知らなかった。
書店へ行けば、裁判に関する本はたくさん売られている。
自分で訴訟をおこす方法とか、弁護士の探し方、裁判費用に関することは、 たいていの本に書かれている。
でも、「裁判所に提出する文献のコピーには、表紙と奥付が必要である」という一文は、 どの本を探しても見当たらない。私が読んだ本が、たまたまどれも、 広くて浅い内容のものだっただけなのかもしれないけれど・・・

裁判所では常識とされていることで、一般には知られていない、 実際裁判を進めてゆく上で必要な、細い決まりごとや独特な用語があるのなら、 それらをまとめた手引書のようなものが、せめて一冊、裁判所に準備されているといいと思う。
それだけでも、裁判はもう少し身近な存在になるのではないだろうか。

今回、話し合いが予定されていた30分という時間のほとんどが 私側が提出した準備書面についての話題だった。

次回の5月18日までに、補足修正した完璧な準備書面と文献を用意しよう。
裁判長から「通常の民事事件と比べると進行が遅い」と、指摘されている。
被告側が書面を期限通り提出しないことで、話し合いが進まないのは仕方がない。
せめて私側だけでも、裁判の進行を妨げるようなことはしたくないと思う。

これから、次回の裁判に向けて忙しい毎日が始まる。
裁判所に提出する文献が揃ったら、その分、また新たに勉強することが出来る。
決して悪いことばかりではない。

家に帰ったら、まず兄に今朝のことを謝ろう。
そして、父とすみれに今日の報告が済んだら、早速、次回の裁判に向けて準備を始めよう、
そう思いながら、私は家路を急いだ。

訴訟経過文などの転用・転記はお断りします

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