いつかの約束を果たすとき

 二月八日にランガは誕生日を迎え十八歳となる。

 誕生日といっても日本の男子高校生なんて仲の良い親友同士であってもプレゼントを贈り合う習慣なんてない。友人の誕生日なんて頭に入っていないし。まして誕生日パーティなど論外だと暦は言う。女子高校生同士だと事情は少々違うみたいだけどな、と。

 そう言いつつも、暦は「誕生日おめでとう」の言葉とともにスケートグローブを通学路で渡してきた。去年の暦の誕生日は気づかず過ぎてしまったから、今年の八月八日には二年分のプレゼントを用意しよう。自分とちょうど半年違う暦の誕生日は覚えやすい。


 十八歳は日本民法でいうところの成年年齢だ。それは父母の親権に服さなくなるということであり、保護者の同意なしで契約などほとんどのことを自分の意思で行えるようになるということを意味する。しかし、それは負うべき義務や責任を伴うことなのだ。大人としての自覚を持ちなさい、と教師や母親である菜々子から散々言われた。むしろ説教に近い。

 そんなこと言われたところで、その日になったらいきなり分別ある大人になれるわけではない。Sで会う身近な大人を思い浮かべてみる。どう考えてもまともな大人ではない。それでも、そんな彼らの表の顔は、ちゃんとした大人だ。ランガや暦よりずっと。

 そこで、はたと気づく。そうだ。ランガも暦も、実也と同じ未成年お子様括りではなく、チェリーやジョーやシャドウ、さらに愛抱夢とも同じ成年である大人の括りということになるのか。

 今さらそんなことを意識してランガは愕然とした。この現実はじわじわとくるものがある。


 バイトを終え帰宅すると、母の菜々子がプレゼントのショルダーバッグを渡してくれた。それだけではなく少し贅沢な夕食とケーキを用意してあるという。

「あなた宛に、お花とギフトが届いているわよ。誕生日プレゼントかしら」

 それが誰からの贈りものなのか、差出人を確認しなくても、誰からかはわかる。ランガの誕生日を覚えていて、誕生日当日に届くようプレゼントを手配するもの好きな知り合いなど、ひとりしか思い当たらない。

 そう愛抱夢だ。

 包みを開けば、プレゼントはペンケースだった。それは職人に特注した上質のものだったのだが、ブランド品ではない。だからパッと見て値段の見当はつかない。そのことは彼なりの気遣いだった。ランガや、おそらく菜々子にもわかってしまうことはないように。

 同時に届いた小さな花束を手に取った。この白い花を知っている。カナダにいたころよく見たはずなのに、名前を思い出せない。

 覗き込んだ菜々子が目を輝かせた。

「かわいい。これはスノードロップね。懐かしいわ。こっちでは見ないものね。生ける?」

 そうか。思い出した。スノードロップだった。

「うん、お願い。俺、そういうこと下手だし」

 菜々子は「このサイズなら、むしろグラスがいいわね」とふふっと笑った。

 冬の終わりに咲くスノードロップは春の訪れを告げる花だ。それは同時にウィンタースポーツシーズンの終わりが近いことを知らせるものでもあった。

 特に手入れをしなくても、毎年雪解けの頃に咲く白い花。自宅の庭、教会や学校でもよく目にした記憶がある。カナダではありふれた、沖縄でいうところのハイビスカスやブーゲンビリアくらい珍しくもない花だ。

 そんな平凡であるはずの花も、ここ沖縄で見かけたことはなかった。

 残雪の中で咲くスノードロップは、南国の強烈な日差しとは相入れない。ここでは、赤や黄色などの強い太陽光に負けない鮮やかな色の花がしっくりする。

 カナダにいたころは、そこまで注目することもなかった可憐で清楚な白。

 派手な演出が大好きなあの人のことだ。てっきり赤薔薇が届けられるとランガは思っていたのだが、予想が外れた。

 おそらく愛抱夢はこの花になんらかのメッセージを込めている。

 水を入れた花瓶がわりのグラスをテーブルに置いて、菜々子はブーケの包みを開いた。

 色々な方向から眺め確認しつつバランスを調整している。どこか楽しげな様子の菜々子に、これはこれで気の利いたサプライズだと思った。

 それから手元に視線を戻し同梱されていた封筒を開いた。

 バースデーカードと、これは……招待状?


 〈いつかの約束を果たすときがきたね〉


 指定されたその日は土曜日だった。招待状の送り主から秘書を迎えに行かせると連絡があった。

 当日、マンションに菊池忠と名乗る男が現れる。その正体は誰がどう見てもスネークだ。いや、スネークの正体が秘書か。

 どちらでも同じことだけど。


 黒いセダンの後部座席に座ったランガが、きちんとシートベルトを締めたことをバックミラー越しに確認し、運転手を務める秘書は車を発進させた。

 ランガは窓の外をぼんやりと眺める。もう夕方の時刻だ。この時間でもまだまだ外は明るい。だいぶ日が長くなってきているのだとわかる。

 一月、二月は沖縄でも一年で最も寒くなるという。暦やクラスメイトたちは、今は真冬だと主張する。なのに沖縄各地で桜祭りが開催されていて、皆春気分なのは矛盾している。

 カナダでのランガの誕生日は、毎年、真っ白な雪の中で迎えていた。外気温は氷点下の真冬だ。桜なんてあり得ない。もっとも雪の降らない南国沖縄では、そもそもランガがイメージするような冬はなく、自分の誕生日は、冬ではなく春を強く感じさせる季節だった。

 これからもっと暖かく、いや暖かいを通り越して暑くなっていくのだろう、と思うとうんざりする。

 それにしても、どこへ向かっているのだろう。

 ランガはフロントシートの背もたれをぎゅっと掴んで身を乗り出した。

「ねえ、スネーク、どこへ行くの?」

「今はスネークではない。まあいいだろう。別荘に愛抱夢が待っている。君も何度か行ったことあるだろう?」

「うん。だけどあそこなら俺、バイクあるしひとりで行けるのに。忙しいあなたに手間をかけさせるようなことじゃないよ」

「バイクを運転して君に何かあったらと気が気ではないんだよ。そういう理由で今日まで場所は秘密にしていた。話したら君は勝手にバイクで駆けつけそうだからということだ。今夜は替えのきかない大切な日だと言っていた。愛之介様は細心の注意を払いたいのだろう」

「俺、そこまで運転下手じゃないよ。大袈裟なんだから」

 露骨に不満げな声が出てしまった。

「たとえ君の運転技術が素晴らしくても、貰い事故というものもあるんだ」

「そんなの車も同じでは?」

「バイクと車で比較すると、いざ事故が起きたときの負傷リスクは雲泥の差だ」

 ランガは眉を寄せた。それは屁理屈というものではないだろうか。

「って、言うか、愛抱夢ってスネークのこと、酷使し過ぎな気がするんだけど。甘えすぎだよ。あなたも甘やかすの良くないと思う。朝、スネークがいないと起きられないとか、まるで子供じゃないか」

 スネークの肩が小さく震えていた。彼は軽く咳払いをして口を開く。

「君が気にしなくていい。私は主人の命令に従うのが仕事なんだ。それで給料をもらっている」

 なんだかよくわからないけど、本人同士が納得しているらしかった。これ以上口を挟むようなことではないのだろう。


 そんなどうでもいい雑談をしているうちに愛抱夢の別荘に到着した。

 ランガを車から降ろして即座に、スネークは別荘から立ち去った。

 見れば夕陽を浴びた愛抱夢が、門の前に立っている。太陽はすでに沈みかけていていて西の空はオレンジ色に染まっていた。闇に侵食されはじめた東の空には、明るい星がひとつ煌めいている。

 別荘の庭にあるスケートプールを見てランガは瞳を輝かせた。

 スケートをするのならのならまだ明るさの残る今のうちがベストだ。

「滑ろう! 愛抱夢」

 思わず口走った第一声が、それだった。

 しまったと思うが時すでに遅し。これを脊髄反射とか刺激反応というのだが、常識的にこういった場面では「お招きいただきありがとうございます」などと礼儀正しく挨拶すべきところなのだろう。とても成年男子として相応しい態度ではない。

 愛抱夢は苦笑した。無理もない。

「君も大概スケートバカだね。知っていたけれど」

「じゃあ……」

「でも今日はダメ」

 ランガはムスッと頬を膨らませた。少しくらい滑らせてくれてもいいじゃないか。

「どうして?」

「そんな時間ないんだ。滑り出したら夜中まで滑ってしまうだろう? 君は」

「あなたもだよ」

「そうだね。だから僕も我慢するから、君も我慢だ。滑るのは明日にしよう。ディナーはゆっくりと時間をかけたい。お腹空いているだろう?」

 胃の辺りに手のひらを当てれば、グゥーと腹の虫が鳴り空腹を訴えた。胃袋は正直だ。

 ランガは頷いた。



「お邪魔します」

 ここは誘われて何度かスケートのために訪れている愛抱夢の別荘だ。ということで勝手知ったる他人の家なのだが、いつもと室内の印象がガラリと変わっている。そのことを指摘すれば、今日は君の誕生日のお祝い、成人祝いということで特別仕様なんだと言われた。

 案内されたダイニングルームは暗かった。愛抱夢に明かりを点けようとする様子はない。

 食卓に置かれたキャンドルグラスの中で燃える炎が、食器やクロスをやわらかく照らしていた。それ以外の照明は全て落とされている。

 ダイニングチェアに腰をかけるよう促される。

「お祝い遅くなったね。お誕生日おめでとう。ランガくん」

「ありがとう、愛抱夢」

 フルートグラスを持ち上げ乾杯した。グラスの中では繊細な泡がキラキラと光を弾いていた。

「これは?」

「ノンアルコールのシャンパン、まあ正確にはノンアルコールのスパークリングワインかな。シャンパンと同じ製法でつくりアルコールだけ取り除いてあるから、香りもいいだろう?」

「うん、ジュースと違って甘くないけど美味しい」

 ランガはぐるりと室内を見渡した。

「暗いね」

「すぐに目が慣れるよ。不安かな?」

「大丈夫」

 ランガは首を横に振った。

「このくらいの明るさにしておくと視覚情報に惑わされないんだ。人の味覚、嗅覚、聴覚、触覚すらも研ぎ澄まされる。料理を味わうにはもってこいだよ」

 そういう理由だったのか。言っていることは難しかったけれど、理由があることはなんとなく理解した。


 センス良く盛りつけられた前菜を口に運ぶ。

 メインは伊江和牛頬肉の赤ワイン煮込みをあたためなおして出してくれるという。調理人をこの場に呼ぶわけにはいかなかったから、火の通し加減が難しいものは避けたんだ、と彼は白い歯を覗かせ笑った。いや笑ったように見えた。多分だ。なぜなら光源はキャンドルの小さな炎だけで、この仄かな光の中で目の前にいる相手の表情を捉えることは、難しい。

 それでも目を凝らして男の顔をじっと見つめれば、いつもの雰囲気とはかなり違う。キャンドルの炎がつくり出す陰影のせいなのか。

 ランガは、なるべくそのことから意識を逸らし目の前の料理に集中することにした。

 サラダを口にする。独特の風味がある野菜だった。これは何の葉っぱだろうか。口に入れては首を傾げていると、察した男が説明する。

「それは沖縄ハンダマのシーザーサラダだよ。少し苦味があって香りに癖があるけど、大丈夫かな?」

「うん、これも美味しいよ」

 ふたりは淡々と食事を進める。ランガは食べることに夢中になると、口数が少なくなる。

 年上の男は食べながら、たわいもない話題を振り、ポイントポイントで料理の解説をしてくれた。基本、沖縄県産の食材を使っているという。

 うんうんと頷いて聞いてはいるが、明日には間違いなく忘れていそうで、食べさせ甲斐のないやつで申し訳ないとランガは、心の中でそっと頭を下げた。

 メインである頬肉の赤ワイン煮は、口の中でとろけた。

「わぁっ! こんなのはじめて食べる。すごく美味しい」

 感動して口走ったものの、相変わらず気の利いたコメントなんて浮かばなかった。日本語が不慣れというのもあるのだろうけど、たとえ英語であってもなんて表現していいかわからない。もう成人、大人だというのに。

「気に入ってもらえて何より」

「ごめん、俺、なんか上手く感想言えなくて」

「君の顔を見ればわかるから、気にしなくていいよ」

 ふと愛抱夢が手にしているワイングラスに目を止めた。

「俺もそれ飲める?」

 ふたりのワイングラスに注がれたものは見た目は同じに見えるのだが、中身は違う。愛抱夢のグラスには普通の赤ワイン。ランガのグラスにはノンアルコールのワインだという。

「これ? アルコールはダメだよ」

「俺、成人したんだよ。もう十八歳」

「君は誤解しているみたいだけど、喫煙年齢、飲酒年齢は従来通り二十歳からなんだ。そもそも二十歳になる前は完全な大人ってわけじゃない。特定少年として少年法は適用範囲だ。親の承諾なしで契約ができたり選挙権をもらえるようになっただけだ。その分、持たされる責任も増える。その程度の違いだよ」

「へえ……そうだったんだ」

 白々しくとぼけてみせるが、流石に知っていた。学校でも注意があった。愛抱夢は勘違いしたふりをして飲ませてくれるかもと思っていたのだけど、このノリの悪さは想定外だ。

「気分味わうだけなら、そのノンアルコールワインで我慢して。僕もこの一杯だけで終わりにする。でも、まあ今日は特別の日だったか……」

 彼はワイングラスの残り全てを飲み干し、立ち上がりランガの椅子の傍へと移動した。

 ランガは隣に立つ男を見上げた。表情が見えにくい薄闇の中では、感情が読めない。

 頬に手のひらが添えられ、男の顔が迫ってくる。心臓が強く鳴り唾をごくりと飲み込んだ。

 彼は苦笑いを浮かべる。

「そんなにジロジロ見られたらやりづらい。目を閉じて」

 ランガは素直に従った。

 唇にかかる吐息はツンとアルコールのにおいがした。濡れた唇が触れたと思ったら、すぐに離れた。

 瞼をそっと開き顔を上げる。見下ろしてくる虹彩は、この薄明かりの中にあっても深い赤だとわかる。彼の人差し指が、唇に軽く押しつけられた。

「舐めてごらん」

 濡らされた唇をそっと舐める。舌にピリピリとした刺激が走った。

「どう? はじめてのアルコールは」

 唇を指でなぞりながら顔を上げた。

「なんか苦い」

 彼の目尻が下がる。

「アルコールの刺激と、あと赤ワインはタンニンが多く含まれているからね。渋いものなんだ」

 なぜか心臓はドキドキしたままで、静まる気配はない。

「これ大人になると本当に美味しいって感じるの?」

「慣れもあるし、人にもよる。君はどうだろうね。二十歳になってからのお楽しみだ」

「ふーん」

「ではデザートを用意してくるから、待っていて」

 彼はキッチンへと向かった。

 両手に白いプレートを持ち戻ってくる。それをランガと自分の前に置いた。小さなチョコレートケーキ、ムース、フルーツが綺麗に盛りつけられていた。器ごと冷蔵庫で冷やされていたらしい。

「本当はフォンダンショコラにしたかったんだ。でも、あれだと僕が再加熱して失敗する可能性を考えてね。また別の機会にご馳走するよ」

 そんなもの電子レンジであたためても、どうせ自分にはわからないのに。愛抱夢はランガには想像もつかないところで妙に繊細だ。

「甘くて美味しい」

 ああ、また頭の悪い感想だ。気の利いたフレーズが浮かばない。食レポなんて生涯自分には無理だと思った。

 愛抱夢の顔を見る。このキャンドルだけの薄闇にも目が慣れたようで、彼の満足げな笑顔がはっきりと見てとれた。


 食事を終え、ランガも片づけを手伝った。食洗機に並べて洗剤を投入し、スイッチを押すだだけだ。あと食器棚にしまうのは使用人の仕事だという。

「僕がやると間違えた場所に置いたりして、かえって手間をかけてしまうんだ」

「愛抱夢って、意外に家事できるんだね」

「冷蔵庫から取り出したり電子レンジであたため直したり食洗機に放り込むことを『家事ができる』と言っていいのかどうか疑問だけれど。アメリカに使用人を連れて行くわけにはいかなかったから、洗濯、掃除、簡単な料理と、最低限のことは留学で身についたよ」

「そうか。じゃあ俺よりもできるのかな」

「かもしれないね。まあ基本的なことは慣れだよ」

 不意に肩を抱かれた。ドキンと胸が鳴り、思わず首を捻り肩に置かれた手に、指に目をやった。

 長くて綺麗な指だと思う。それでも骨格のしっかりした節くれだった男の指だ。

「さあ少し食休みをしようか」

 こんな風に肩を抱かれるなんて、いつものことだ。よく知った彼の手が触れているだけなのに、なぜこれほど胸が高鳴るのか。

 そういえば愛抱夢は言っていた。暗い空間は視覚情報に惑わされず、人の味覚、嗅覚、聴覚、触覚すらも研ぎ澄まされると。

 こんなにドキドキするのも、ずっと、ふわふわしているのも、そのせいなのかもしれない。


 年上の男に寄りかかり、あたたかいお茶を胃に流し込めば少し気分は落ち着いた。

「ランガくん。約束覚えているよね?」

 ランガの水色の髪を指で梳きながら彼は訊いてきた。

「もちろん。あなたが忘れたり忘れたふりするんじゃないかと思っていた」

「僕が? そんなわけないだろう」

「俺が成人して自分で決めたことに責任を取れるようになったら、俺は俺の意志で愛抱夢とセックスする。そう決めたんだ」

 今までも、ふたりは、会えば抱き合いキスをした。ここ最近はお互いの体を触り合うこともあった。

 それなのに、それ以上の進展はなかった。そこから先どのような行為をするのかの知識くらい、一通りはあるつもりだ。多分だけど。いい加減焦れて「やろう」と提案したのに、ランガが成人するまで一線は超えないと彼は頑なだった。あと少しだから待ちなさいと。あと少しなら前倒しにしてもどうってことないだろうと主張してみたのだが、愛抱夢は妙にこだわっていた。

 普段あれだけメチャクチャな大人のはずなのに、愛抱夢のそういうところは理解が追いつかない。いや、もしかするとメチャクチャなのは愛抱夢だけで、神道愛之介としての顔は、計算高く慎重で用心深いのかもしれない。

 ランガにとって彼はSの王である愛抱夢だ。一緒にスケートをするときの彼は、もちろん愛抱夢なのだ。でもスケート以外で、こうやって一緒に過ごす彼は、神道愛之介の要素が半分くらいあるような気がするとランガは感じている。特に根拠はない。ただの漠然とした印象だった。

 そこまで思考を巡らせ、一つ肝心なことを訊き忘れていることに気がついた。

「ねえ、愛抱夢」

「何だい?」

「俺とあなた、どっちがトップでどっちがボトムなの?」

 髪をいじる彼の指の動きが止まった。首を捻れば深紅の瞳が間近にあった。眉間に皺を寄せ彼は渋い顔だ。

「君の希望はあるの?」

「やってみないとわからない」

 そうである以上、いずれ両方試した方がいいとランガの発想はシンプルだ。

 隣に座る男は人差し指を立てて、こう提案してきた。

「そう。では今夜のところはこうしよう。とりあえず僕がリードしよう。そのことには依存ないね?」

「うん、ない」

 経験値が違いすぎてランガがリードするのは、流石に無理がある。

「それで最終的に君が選ぶんだ。君の判断に僕は従おう。どうかな?」

「わかった」

 髪から頬を弄んでいた指が顎を持ち上げ唇が重なった。


 唇が外され、さてこれからベッドルームへ移動か、と唇をキュッ結び気を引き締めたとき、彼はランガの耳元に唇を寄せた。

「バスルームへ行くよ」

「俺、臭い?」

 思わず、自分の腕を持ち上げ、クンクンとにおいを嗅いでしまった。目の前の男はクスリと笑う。

「そういう意味じゃなくて、だって君、全身ガチガチに凝り固まっているだろう。緊張しているんじゃない?」

「緊張なんてしていない」

 反射的に否定してしまったのは、失敗だったかもしれない。

 はじめてなのだから緊張して当たり前だ。緊張しないほうがおかしい。誰だって、きっと愛抱夢だって最初はそうだったに違いない。

 これなら素直に肯定しておいた方がまだマシだった。こういうところに余裕のなさが出てしまうのだと思うと少し悔しい。

 男は顔を近づけフーンと覗き込んできたと思うと、ニッと口角が上がる。余裕の笑みだ。なんか腹立たしい。彼の方が大人歴ははるかに長く、こっちは大人になってからまだ一週間経っていないってことを少しは意識して欲しい。

「君に触ってみて緊張を感じたんだけど……僕の勘違いかな。うん、でも僕が緊張しているんだ。ということで付き合って。ゆったりとお湯に浸かってリラックスしよう。どうかな?」

 ランガは「わかった」と目を逸らした。


 愛抱夢はランガの手を握り、バスルームに案内した。

 湯に浸かることで筋肉が緩みリラックスできると彼はもっともらしく説明する。

 広々としたこのバスルームも、他の部屋と同様に仄暗かった。

「ここも暗いね」

「この方が君も緊張しないかと思ってね。ああ君は緊張なんてしていなかったんだったね。なんなら明るくすることもできるけど、どうする?」

 人の悪そうなニヤニヤ笑いにむっとする。絶対に面白がっている。

 ランガは「しなくていい」とそっぽを向いた。

 全身を洗い湯槽へ入る。

 バスタブは長身の愛抱夢とランガふたり浸かっても手足を思いっきり伸ばせるくらいゆったりとしていた。ランガのマンションにある物入れになっているバスタブの四倍はありそうなサイズだ。

 でも、このお湯って?

 ランガは両手のひらで湯をすくった。手指の間からトロトロと流れ落ちていく様子をじっと眺め、怪訝な表情を浮かべながら愛抱夢の顔を見た。

「これ、スライム?」

 彼は一瞬ポカンとした、と思ったら「君ねぇ」とガクリとうなだれる。

「それバスローションでとろみをつけたんだ」

「なんのために?」 

「身体がよりあたたまり、リラックスできるようにね。香りもいいだろう? それに……」

 愛抱夢はランガを、背後から腕の中に閉じ込めた。背中に彼の胸がピタリと合わさり、ぬるりと擦れ合った。

 奇妙な触感の湯だ。

「このトロトロした感じが、気持ちいいと思わないかい?」

 彼の手のひらが肌の上を滑っていく。気持ちがいいというのだろうか。よくわからない。それでも乾いた肌と肌が擦れ合うのとはまったく違うことはわかった。なんとも不思議な肌触りだ。

 真似をして愛抱夢の肌に触れみる。彼の腕に置いた手のひらをスライドさせていけば、肌の上に広がるとろみの皮膜が摩擦抵抗を奪いぬるりと気持ちよく滑る。指の腹を押し当て、くるくると回してみた。

 なんというか、これ面白い。ぬるぬる、ぬるぬる。この感覚、覚えがある。

 ランガはクスクスと笑った。

「何がおかしいの?」

 愛抱夢はランガの胸の前で腕をクロスし、首筋に唇を押しつけた。

「俺が小さいころ、父さんとスライムで遊んだことがあったんだ。全身ベタベタにして。母さん呆れていた。呆れられたのは俺より父さんだったけど。それを思い出した」

 あたたかいローション風呂で、お互いの身体を触り合い、たわいもないおしゃべりをする。そうしているうちに少しずつ緊張がほぐれていった。

 ランガは愛抱夢の弾力ある筋肉に手のひらを置き、滑らせてみる。その質感をじっくり確かめるように。

 それにしても、愛抱夢の身体を、意識して見たり、こんなふうに触ったりするなんてこと今までなかった。なんというか新鮮だ。

 そうやってあちこち触っていると、指の腹が愛抱夢の乳首を掠った。ヒュッと小さく息を吸う聞きなれない音に手の動きが止まった。はじめて見る反応だった。もう一度、今度は指先で突いてみる。ツンツンと。

「こらっ! おいたはそこまでだ」

 指をぎゅっと握られ、ランガは顔を上げた。彼は口端を上げながらも目は笑っていない。眉間に皺を寄せ、どこか咎めるような視線を投げてくる。

「嫌だった?」

「そうではない。ただ僕の予定が狂うんだ」

「予定って?」

 その問いに愛抱夢は応えず、ランガを真正面で向い合わせになるよう身体を回し抱き寄せた。

「僕は君の好奇心を甘くみていたかもしれない。このまま放置してやりたい放題好き勝手やらせていると、エスカレートして何をはじめるか分からないね」

「ダメなの?」

「焦りは禁物」

「焦りって意味がわからない」

「君には難しい日本語だったね」

 言い終える前に水色の髪が粘度のある湯の中でふわりと広がった。目を何度か瞬かせた。愛抱夢が真上から見下ろしている。何が起こったか理解するのに数秒はかかった。

 湯面へ押し倒されたらしい。

 そのまま覆いかぶさってきた愛抱夢は、頬そして唇へキスをした。

 不意に背中を支えられていた手が外され、湯槽の中へ沈みかけた。耳に湯が入りゴボゴボと口から空気が漏れる。

「ほら、ちゃんと僕に掴まっていないと溺れるよ」

 ランガは慌てて男にしがみついた。

「ねえ、これじゃ、俺、何もできない」

「何もしなくていいよ」

 いや、よくない。これでは反撃できないじゃないか。そんな文句は声になる前にキスによって封じられた。

 体勢を立て直そうと試みるものの、がっちり抑え込まれていて身動きできない。まずい。愛抱夢は本気だ。

 やがて歯列を割って侵入してきた舌は、ランガの口腔内を生き物のように這い回り、熱い舌と舌が絡み合った。

 ふと肌の上で蠢く指の感触に意識をさらわれる。

 その指は脇腹から腹を撫で上げ胸へと向かう。胸筋の上からランガの乳首を見つけ出し指の腹でやさしく触りはじめた。ぐりぐりとやわらかく揉まれるたびに甘い痺れが全身を襲う。


 くちゅくちゅという濡れたリップ音を伴いながらのディープキス。せわしなく漏れる息遣いは、彼のものなのか自分のものなのか、もう区別はつかなかった。

 執拗に唇を貪られ頭がぼうっとする。その息苦しさからランガは首を振り逃れようとした。

 やっとキスから解放されたランガは、肺に大きく空気を取り込んだ。「ふふふ」という笑い声に目を開けば、深紅の瞳が覗き込んでいた。大きく吐き出した自分の息が、やけに熱い。

 胸をもてあそんでいた指が後ろに回された。背骨をひとつひとつ数えるようにして下へと辿っていく。

「抵抗してはダメだよ」

 そう念を押し、男の脚がランガの閉じた両膝に割って入り、グイッと左右に開く。手のひらが内腿を撫で、会陰を指でなぞり尻の割れ目へ分け入った。その指はすぐにアヌスを見つけ出し、軽いタッチで襞を愛撫しはじめる。

「待って、愛抱夢」

 もぞもぞとする慣れない感覚に思わず彼の手を掴んでしまった。

「どうしたの? さっきから嫌だ、という反応じゃないよね。だから……その手をどかしてくれないかな」

 彼の目が、有無を言わせぬ圧をかけてくる。

 愛抱夢が何をしようとしているのかは理解しているし今更嫌ではない。そのくらいの知識はある。それでも……と、ランガは思う。

 だって、まだ決めていないじゃないか、俺に決めさせてくれるって言ったのに?

 ランガが躊躇っている間にも、その行為は徐々にエスカレートしていった。やがて男の指は侵入を試みようとする。粘度のある湯は潤滑剤のような役割を果たしているのか挿入時の抵抗は思いのほか少なかった。

 やがて指は二本に増え内壁を広げ始めた。はじめて感じた痛みに顔を顰める。こじ開けられたそこから、自分の体温に近い温度の湯が入り込むのを感じてランガは顔を背けた。

「中、熱いね」

 押し殺した声が鼓膜に絡み、耳朶に熱い舌が這う。喉を逸らし、抑えきれなかった甘い声が漏れた。

 突然、彼は指を引き抜きランガの勃ち上がったペニスをやんわりと握った。

「つっ……」

 思わず息を詰める。

「ベッドに行かず、ここでこうしてフィニッシュにすることもできるよ。何も今日、焦って一気にことを進める必要もない。どうする? こんなこと、今でなくてもいつでもできるんだから」

 いつでもだって? 何を言っているんだ。

「い、や、だ!」

 ランガは強い口調で返した。愛抱夢はその勢いに困惑の表情を浮かべた。

「どうしたの?」

 いつでもできるから。そう言って、いくつもの約束とランガを置き去りにしていなくなった人を知っている。

 だから……。

「いつでも、なんてダメなんだ。今じゃないと。今がいい」

 ランガの真剣な眼差しに何かを察したのだろう。愛抱夢は困ったような笑みを浮かべた。

「言い出したらきかないね。君は。後悔しても知らないよ」

 強く抱きしめてくる愛抱夢の背中にランガは腕をまわす。

「いいよ。どうせ、あなたは俺を後悔させたりしないでしょう?」

「上等だ」


 ローションをシャワーでさっと流し身体を拭いた。愛抱夢は自らは赤いバスローブを身につけ、白いバスローブでランガをくるみむと、ひょいと抱き上げた。

「ベッドまでこうして抱いて行くよ」

「重くないの?」

「重いわけないだろう。僕を誰だと思っている?」

 愚問だった。この人はランガとの初めてのビーフで、滑りながら手を掴みぶん回してくれるような化け物だ。並大抵の筋力や体幹の持ち主ではない。

 ランガは安定するよう愛抱夢の首に腕を巻きつけ、ふんわりとした赤いバスローブに顔を埋めた。


 愛抱夢は白いシーツの上にランガを横たえ、バスローブの前を開く。両脇に手をつき、上からじっと見下ろした。

「最後の確認だ。やめるのなら今のうちだよ」

「もう、しつこいんだから。俺はやめない」

 ランガは唇を尖らせた。

 彼は「そう」と薄く笑いゆっくりとランガに熱い身体を重ねた。

 顔にあたたかい息がかかる。唇を重ねてから、頬、首筋から胸へ、さらに下腹部、内腿へと口づけは移っていった。

 ランガの敏感なポイントを彼は、優しくかつ容赦なく攻めていく。唇で、舌で、指で。

 ただ彼に触られているだけなのに快感は際限なく高まっていくようだった。頭の奥が痺れ朦朧としていく。思考することが難しくなり、やがてすべての境界がぼやけていった。シーツと身体、他者と自分。どろどろに溶けて混ざり合う。

 こんなのらしくないとランガは思う。こんなふうにただ受け身でいることしかできない自分なんて。普通ならさっさと切り返し反撃に出ているのに。

「そうだ。約束だったね」

 朦朧とした意識の中に、冷静な男の声が届いた。

「約束?」

 声が掠れていた。

「ランガくんに、選ばせてあげるって言っただろう? 選んでいいよ。トップとボトム。どちらにするか」

 意味はわかる。なのに霧がかかったみたいで思考が定まらない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 ただひとつ言えるのは、こんなふうに追い込んでおいて、この選択をさせるというのは理不尽ではないだろうか。

 ランガは目を何度か瞬き、なんとか男に焦点を合わせようとした。赤いバスローブはすでに脱ぎ捨てられ彼は全裸だ。

 鍛えられた三角筋に覆われ、丸く盛り上がった肩。分厚い胸筋から、腹筋へと視線を落としていった。腰は思いのほか細く引き締まり見事な逆三角形の体型をつくっている。

 そうだ。この人は本当に美しい。心からそう思った。

 その腰から続く股間に目を移せば、綺麗な造形を見せるペニスが屹立している。そこから目が離せなかった。

(俺は、あれが欲しい)

 そう脳内ではっきりと言語化してしまい、ランガは激しく狼狽えた。欲情している自分を、もう誤魔化すことはできない。それは自分の中にある明確な欲望を認めた瞬間だった。

(あの熱いものを身体の奥に受け入れ感じたい。そしてあの人が望むままに俺を激しく掻き混ぜて……)

 彼は再び訊いてくる。

「ほら、希望を言ってみて。君はどうしたい? どうされたい?」

 澄んだ青い瞳が目の前の男を映し出していた。

 悔しい気持ちはある。今に見ていろとも思う。

 それでも……。

 どうしたいかなんて、とうに心は決まっている。

 愛抱夢の頬に指を伸ばし、そっと触れた。ランガはふわっと微笑んだ。

 そして目を閉じ、その言葉を口にする。

「Fuck me, Adam.」

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