隣にいられない夜は、香りを通して抱き合おう

「困ったな……」ぽつりと主人の呟きが聞こえた。耳に入っていないふりをして淡々と作業を進めていった。すると「困った、困った」と二回ほど連続して呟いた。

 忠は流石に反応することにして顔を上げた。

「愛之介様? いかがされました?」

 主人は待ってましたとばかりに忠に顔を向けた。困った困ったと繰り返し呟いていたその言葉とは裏腹に表情はにこやかで極めて機嫌は良さそうだ。

「実は少々困ったことがあってね」

 ふぅーと憂いを帯びた瞳を伏せわざとらしくため息をついている。あからさま過ぎるが気にしないでおこう。

「どのようなことにお困りでしょうか」

「まず遡って説明しよう。ランガくんが僕と会えない日が続くことに寂しさを感じているんだそうだ。ここのところ忙しくてずっと会えなかっただろう? 先日久々に会ったとき、色々説明はしたのだが納得いかなかったみたいで、むぅっとした膨れっ面でね。その顔がまた可愛くて……」

 そのときのスノーの表情を思い出しているのだろう。目を細めうっとりとしている。これは世間で言うところの〈惚気〉というヤツなのだろうか。多分そうだ。

 忠は黙ったまま次の言葉を待った。

「そこで寂しさを慰めるために僕のイメージフレグランスをランガくんにプレゼントすればいいと思いついた。ナイスアイディアだろう? それで調べてみたらオーダーメイドでフレグランスを調香してくれるショップが東京に何軒かあってそのうち一件に特注することにした。基本情報は伝えてある。あとは出向いて詳細を確認し直接発注するようになるのだが僕はとても忙しい。先ほどから色々とスケジュールを調整してみたものの僕が直接行くのは不可能だとわかった。それが困りごとだ」

「私に何かできることはありますか?」

 自分へ何をさせたいのか簡単に予想はついたが一応訊いてみた。

「私用になってしまうが僕の代行を頼めるか?」

「次の上京のタイミングでしたら問題はないでしょう」

「そうか、それは助かる。ならばお前に手続きを任せよう」

 忠は地元秘書であり、愛之介が東京で議員として活動している間、沖縄の留守を守ることが仕事だ。そのことに差し障りがなければ稀に東京へ向かう愛之介に同行することもある。そのほとんどが政務とは全く関係ない愛之介の個人的な依頼で、東京在住の公設秘書にはとても頼めない大抵アレな用件だ。

「それは構いませんが、私はフレグランスについてはあまり詳しくはありません」

「一応、先方に送ったオーダーシートをお前のところにも送っておいた。今ここで確認してくれ。これを最低限のベースにしてあとは専門調香師に任せて構わないだろう。コストに拘らず香料のランクは高品質なものを存分に使うように伝えてある」

「かしこまりました」

 忠は、スマホを取り出しメッセージを確認する。

 性別、年齢、職業、などフェイクを混ぜつつの基本情報。他に食べ物の嗜好、趣味などライフスタイルなどが記載されている。

 肝心の香りの傾向については、好みや特別こだわる香りの有無などについても書かれていた。主人が愛用しているコロンのブランド名はわかる。それ以外はあまり見慣れない単語の羅列だ。おそらく愛之介だってこんなことそこまで詳しくはないだろう。間違いなくスノーのために、付け焼き刃で勉強したのだと思われる。まあなんとも涙ぐましくも一途で健気だ。

 け、健気? その言葉が脳内に浮かんで少し間を置いて、吹き出しそうになった。グッと堪える。危ない危ない。

 さて、どれどれともう一度画面に視線を戻した。

 絶対の外せないのは……ローズか。これはわかる。主人は薔薇へのこだわりは強い。あとこれは……?

「ピオニー?」

「芍薬の香りだ。ランガくんの誕生花は芍薬なんだ。絶対に外せないだろう?」

 得意げに主人は人差し指を立てた。シンプルな発想だ。

「タバコ? タバコのにおいなどあるんですか?」

「男性用フレグランスでは、結構使われているし僕がたまに使っているコロンにも調合されていたようだ。タバコの香りは僕の体に染み付いていると思うんだ。なら僕を感じてもらえると思わないか? 素人考えだがな」

「なるほど。タバコのようなスモーキーさが欲しいということでしょうか」

「まあ、そういうことだ」

「あとはムスク?」

「そうだムスクはオスのジャコウジカの性線から取れるものらしい。今は天然ジャコウジカからの採取は禁止されていて全て合成だが、フェロモン用作用があると言われている。基本男性が女性を誘うものだ」

「スノーは男性ですが」

「そこが少し悩みどころだった。最初はそれでオスモフェリンと考えたのだが」

「オ、オスモフェリン?」

 またもや聴き慣れない単語が飛び出した。

「オスモフェリンは女性が排卵日に作られる女性ホルモンで、男性を誘うフェロモン物質だという説がある。もっとも科学的に証明されたものではないのだが」

「よく調べられられましたね」

 ここまでくると呆れるを通り越して若干退いてしまう。このことをスノーが聞いたら気味悪がるだろうか。いや、あの子の性格なら「ふーん」で終わるだろう。

「だが、それだと僕というか男性が持っているフェロモンではない。ならムスクの方が僕を感じてくれるかと思ってな」

「さすが愛之介様です」

 よくわからなかったがとりあえず肯定しておいた。

 その日、そのオーダーメイドフレグランスサロンに忠はいた。

 奥の部屋に通されアドバイザーとの打ち合わせがはじまった。

「前もっていただいていたオーダーシートと照らし合わせての方向性を確認させていただきますね」

「よろしくお願いいたします」

「注文のご本人様ではございませんね?」

「はい。生憎主人は時間が取れず私が代理で参りました」

「ご注文のお客様は男性で、ご自身が側にいなくても恋人の女性に自分の存在を感じてもらえるようなフレグランスをということでしょうか?」

「はい」

 恋人は女性ではないが、話がややこしくなるので肯定しておく。

「かしこまりました。あと恋人がご使用になることは想定されているのでしょうか」

 男子高校生だからまず使わないとは言えない。ここは適当に誤魔化そう。

「恋人は、仕事柄、フレグランスを普段は使えないとのことです」

「ということは恋人はひとりの夜に使用するものと考えればよろしいですね」

「そうなります」

「でしたら、注文された男性が日常的にご使用になるフレグランスということを想定し調香することがよろしいかと存じます。特にその恋人と会うときは必ずお使いになってください。やがてフレグランスとお客様の体臭が混ざり個性ある香りになるでしょう。それは女性の中でふたつとない恋人のにおいになります」

「伝えておきます」

「それとは別に、同じ香調のルームフレグランスをつくりましょう。ほぼ同じ香料を使用します。若干ルームフレグランスとしてアレンジさせていただきますが。それは恋人がひとり寝室で使用するものになります。睡眠の質を阻害しない、リラックス効果のある香りになります。アロマキャンドルもおすすめですがそちらもご用意いたしますか?」

 あのスノーがキャンドルに火を点ける? で、きちんと火を消してから寝る? どう考えても無理だ。マンションを丸焼けにしてしまう未来しか見えない。

「あ、いえ、忙しい方ですのでキャンドルは少し難しいかと」

「ではルームフレグランスだけで。あとは香調の確認ですが」

「基本プロの方にお任せしたいとのことです」

「かしこまりました。ローズやムスクはお好きな方が多く基本調合しやすい香りですが、男性でピオニーを指定される方は珍しいですね」

「恋人の誕生花ということなので是非入れて欲しいと聞いております」

「そういうことですか。タバコは……確か愛煙家でいらっしゃいましたね」

「はい。タバコの香り、スモーキーな香調の方が自分を感じてもらえるのではないかと思ったようです。素人考えですのでその辺りはお任せしますと申しておりました」

「これは問題ないでしょう。では完成までに一ヶ月ほどの猶予をいただくかもしれませんがよろしいでしょうか」

「はい主人も了承しております。よろしくお願いいたします」

 深々と忠は頭を下げた。

 トラブルなくフレグランスが完成してくれることを祈ろう。


 それから、ひと月かからず注文していたフレグランスが届いた。

 愛之介が自ら使用する為のオードトワレとスノーが自室で使うルームフレグランスの二品だ。

 主人は、早速オードトワレを手首にシュッと吹きかけた。甘くも優しい香りが室内を満たしていく。愛之介は満足そうに頷き、商品に同封されていた冊子を開いた。

「こう書いてある。上品な甘さとフローラルの華やかさを持たせた香調です。ウッディーとタバコの甘い余韻が最後に残ります、だそうだ。トップノートはベルガモット、レモン、ジェニパーベリー。ミドルはローズ、ピオニー、ネロリ。ラストはムスク、サンダルウッド、タバコ、タバコフラワー。ほう、素晴らしい」

 さっぱりわからない。主人は感心しているが果たして理解しているのだろうか? 疑問ではあるがそれは大した問題ではないだろう。

「ご満足いただけたのでしたら、その旨先方に連絡いたしましょう」

「そうだな。それともう一つ頼みたいことがある」

「何でしょう?」

「不公平だと思わないか?」

「不公平とは?」

「僕だって、ランガくんと会えないときは寂しい。そんな夜は彼の香りに抱かれたいと思うんだ」

 主人の顔をしげしげと見た。よく恥ずかしげもなく言える……とここは絶句するところなのだろう。でもこの神道愛之介という男が言うと何故か不自然さがない。いや自分が慣れっこになってしまっただけなのかもしれない。

「スノーのイメージフレグランスを新たに依頼するということでしょうか」

「その通りだ」

「しかし、彼はフレグランスを使っていないのでは? まだ高校生ですし。好みもわかりません。本人もよくわかっていない可能性の方が高いでしょう」

「そこはプロと相談だ。僕も色々と調べておこう。また直接の依頼はお前に行ってもらいたい」

「……」

 すぐに反応できなかった。男子高校生ということを伏せてどう相談すればいいのやら。

「何だ、黙り込んで。意見があれば言ってみろ」

「いえ、私に意見はありません」

 愛之介はニッと笑って「だろうな」と言った。

「本人に香りのこだわりがないのなら嫌いなにおいでない限りこちらから提案したフレグランスを受け入れると思うのだが」

 確かにスノーという子は先入観がほとんどない。それが何であっても受け入れてしまうところがある。だからこそ初対面のときから愛抱夢を拒絶しなかった。だが嫌なものは嫌だと頑なに拒否する子でもある。そう感じている。

 ならばフレグランスはどうだろうか。最初に嗅いだ第一印象が悪くなければ普通に使ってくれそうに思う。しかし印象が悪かったら……いや、考えても仕方ない。そのときはそのときだ。

「確かにそうですね。ではどのような香りのイメージが?」

「彼はスノーなのだから当然、雪だ。雪のにおいだ」

「は? 雪ににおいがあるのでしょうか?」

 沖縄で生まれ育った忠は当然雪には縁がない。においがあるともないとも言えないが、聞いたこともない。

「当然あるだろう。雨のにおいがあるくらいなのだから」

 愛之介は自信満々に言い放った。

「そうですね」

 屁理屈としか思えない。

「透明感があり、どこか涼しげで優しい香りだ。色のイメージはアイスブルー。男性でも女性でも使えるユニセックスな香調で依頼しよう」

「了解しました。申し訳ありませんが、ポイントをまとめて後ほどメモをいただけますでしょうか。そろそろ私は仕事に戻らせていただきたいのですが」

「もうこんな時間か。引き止めて悪かった」

「いいえ」と軽く会釈をしたときだった。

「そうだ。一つ忘れずに入れて欲しい花の香りがある」

「なんでしょう?」

「すずらんだ」

「すずらんですか?」

「すずらんは五月一日の、僕の誕生花だからな」

 にこやかに笑う主人の顔を思わず凝視した。その笑顔にわざとらしさはなく、幼かった愛之介の面影が重なった。

 そうだ、すっかり忘れていた。昔はこんなふうに笑っていたのだ。

 忠の口元がふっと緩んだ。

「素敵な香りになりそうですね」

 心からの言葉を残し忠は退室した。

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