アイスバブルの夢

 使用済みのコンドームの始末を終え視線を落とす。ぐったりとうつ伏せになったランガは、シーツに片頬を押し付け、瞼を閉じたまま浅い呼吸を繰り返していた。力なく投げ出された脚の片方だけに絡み付いたブランケットとしわくちゃになったシーツが生々しく、行為の激しさを物語っていた。その脚から、ついさっきまで自分を咥え込んでいた尻へのなだらかなラインを目でなぞった。

 ゆっくりと上下する白い背中にそっと手のひらを置けば、彼はうっすらと目を開いた。ぼんやりとした虚な瞳。半開きになった唇。

 ゾクリとした。

 少年から青年へ。ランガは日毎美しくなっていく。スクリーン越しには毎日見ているとはいえ、いつも会えるわけではない。だからこそ暫く時間をあけて見る生身の彼に驚き感動する。

 出会ったばかりのころは、その容貌にまだあどけなさを残していた。同じ年頃の少年たちと比較して、むしろ大人びた顔立ちだったとは思うのだが、彼の表情、仕草は幼く、そのアンバランスさも大きな魅力だった。

 それでも、自分はこの子の外見を愛したわけではないと主張しておこう。最初は彼の滑りに魅入られた。それからは存在そのものが光だと思えた。

 ランガの美貌を意識するようになったのは、ほんとここ最近のことなのだ。


「何?」声が掠れている。

「シャワーはどうする?」

「まだ動きたくない。あなたが先に浴びて」

 瞳がくるりと動き、やっと焦点が定まったようで目が合った。

 明るい光の中で輝く青い虹彩も、薄闇の中では色を失くす。それでも僅かな光を反射させ妖しく煌めいていた。

 ふと頬に刺すような痛みを感じた。違う。これは強い冷気だ。直後ある風景を幻視した。

 夕闇に沈む凍てついた湖。そうだこれは……

「アブラハムレイク」声に出していた。

「アブラハムレイク?」彼が反応した。

「知っているのかい?」って知らない訳ないか。

「カナダの湖だから」

「留学していたころ、足を伸ばしてカナダに旅行したりもした。そのときに行ったことがあるんだ。冬のアブラハムレイク」

「俺も旅行で行ったよ。父さんと母さんと一緒に。うんと小さいころ。どうしてそんなこと急に?」

 指を伸ばし、彼の顔にかかる水色の髪をどけた。

「君の色。ずっと記憶の中にある何かの青と白だって思っていて、でも何だったか思い出せなくてね。沖縄の海や空の明るい青ではなく、湖面に貼った氷の冷たい青。それは間違いなかったんだけど、どの記憶と重なっていたのか、やっと答えが見つかった。この瞳の色も、髪の色も、白い肌も。冬のアブラハムレイクで見た色彩だ」

 カナディアンロッキー。ジャスパー国立公園にあるダム湖。冬には湖面全体が凍りつく。それは極寒地の湖であればありふれた景色でしかない。一つ違うのがアイスバブルと呼ばれる現象だ。湖底に堆積した植物が発酵して発するメタンガスが、凍った湖面に遮られ、空中に拡散することなく氷の中に閉じ込められる。それが白い泡となり神秘的な景観が湖面に広がる。

 見られるのはアブラハムレイクだけではない。日本でも確認されている湖はいくつもある。それでも、アブラハムレイクが世界で一番安定してアイスバブルを観賞できる湖だという。

 青空が広がる晴れた日には、氷点下の湖面に貼る氷も明るい色に染まる。

 冷たい氷の青。幾層にも重なる白い泡。

 光の中にいるランガを想起させる。

 そして闇に沈むアブラハムレイクは、今この薄闇に包まれるランガだ。

 彼は眉を寄せた。

「あなたと話していると、たまにどう反応すればいいのかわからなくなることがある」

「悪かったね。気にしなくていいよ。答え合わせできたことに僕がスッキリしただけだから。ただの自己満足」

 のっそりと上半身を持ち上げようとしたランガに手を差し伸ばし、ぐいっと、すくい上げるように抱き寄せた。胸の中にすっぽり収まった彼は気怠げに息を吐いた。

「知っている? アブラハムレイクの氷って燃えるんだ。お湯も沸かせるんだって、父さんが言っていた」

 氷に封じ込まれたガスは可燃性のメタンガスだ。氷にヒビを入れ、火をつければ当然燃える。

「なるほど。そんなところまで君に似ているね」

「また訳わからないことを言う」

 彼を抱く腕にギュッと力を込める。ランガは身じろぎ、素肌と素肌が擦れ合った。

「クールに見えて簡単に火がつく。情熱的だ。スケートも……」彼の首筋に唇を這わした。「セックスも」

 ランガはくすぐったそうに首をすくめて身を捩った。

「もう一回する?」

「したいけどしない。明日の早朝フライトだからね。それよりシャワー浴びられそう?」

「さっぱりしてから寝たいけど、まだ動きたくない」

 わかりやすい甘えに笑みがこぼれた。それならば、と彼を抱き上げた。

「え? なに?」

「バスタブにお湯を張って一緒に入ろうか。僕が入念に洗ってあげよう。別々に入るより時間の節約になる。どうかな? それとこのホテル、ビューバスルームなんだ。入らないともったいないよ」

「わかった。でも入念はいらない。さっと流すくらいで大丈夫」

 首に腕がするりと回された。肌を掠める吐息が熱っぽい。

「君は意外と体温が高い」前々から感じていたことを口にする。見た目は冷たそうな肌なのに。

「誰と比べているの?」そういう突っ込みをするようになったか。

「ナイショ」

 ふーんと想像を裏切らず反応は淡白。特に嫉妬してくれるような様子はない。まあ通常運転ではある。

「でも、あなたの方が俺より高いと思うけど? いつも熱く感じる」

「それは筋肉量に比例するからね」

「そうなの? じゃあ、ジョーはあなたより……」

 洗い場に彼を降ろして、唇にキスをして黙らせた。

「他の男の話はそこまでだ」


 バスタブにバスソルトを入れ湯を張っている間に、身体を洗うように言ったのだが、この子はスケート以外の動作がどうも緩慢だ。見ていられなくて思わず手を出した。

 スポンジでボディーソープを泡立て、全身に塗ったくってやる。その間、ぼーっとしていた彼が、ブラインドに覆われた窓に目をやった。

「ねえ、あのブラインドの向こうが窓? 外、見える?」

「そうだよ」

 泡だらけのまま、いきなりバスタブに飛び込もうとするランガの身体を押さえつけて、シャワーをかけた。

「ちゃんと流してから」

 まるで大きな幼児だ。

 洗い流し終えたところでバスルームの照明を落とした。ブラインドを上げれば夜景が目に飛び込んでくる。

「わあ」

 バスタブの中でふたりくつろぎ窓の外を眺める。

 いや、熱心に眺めているのはランガだけだ。自分はといえば、そんな彼をただ見つめていた。

 不意に振り向いたランガと視線がぶつかった。彼は微笑んだ。

「愛抱夢と一緒に見たいな」

「見たいって何を?」

「アイスバブル。あなたの話を聞いて懐かしくなった。俺がアブラハムレイク行ったとき、うんと小さくてあまり覚えていないんだ」

「それは素敵だね」我ながら歯切れの悪い返答だ。

 あの景観をランガと一緒に見る。それが可能ならば、どれほど幸せだろうか。しかし今の政治家という仕事をしている限り、プライベートでまとまった休みを取ることは難しい。いつ行けるようになるかわからないし、確約もできない。

 そんな自分の迷いを感じさせてしまったのだろう。

「ごめん。俺、困らせている? わかっているから。愛抱夢は忙しいって。だから、これはただの夢だよ」

 あまりにもいじらしい。だから君が愛おしくてたまらない。

 神道愛之介、お前は何を気弱になっているんだ。

 自分の情けなさに自嘲した。彼の肩を掴み、ぐいっと引き寄せ強く抱きしめた。

「まったく、僕を誰だと思っているんだい? 君の夢は必ず実現させるさ。どんな手を使ってでもね」

 ランガは腕の中で小さくうなずいた。

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