素敵なバスタイムをふたりで

「まだ六月なのにカナダ凄いことになっている。西側の海岸だけど」

 ニュース動画を観ていた少年は愛之介の方へ顔を向けた。

「熱波が酷いみたいだね。五十度近い気温は沖縄だって聞いたことない。異常気象が常態化しているんだろう」

「このままいくと沖縄は六十度くらいになっちゃう?」

「まさか。異常気象になると北海道より海に囲まれた島である沖縄の方が、逆に涼しくなる可能性があるんだ。現に今は沖縄より東京の夏の方が暑いよ」

 ランガはうんざりしたようにため息をついた。

「暑いの苦手」

「それをなんとかするのも政治の役目だと持っているよ」

「お願い。早くなんとかして」

 書類をトントンと揃えてデスクの引き出しにしまった。

「待たせたね、ランガくん。さあ素敵なバスタイムにしよう」

「あのさあ、どうしてもお湯に浸からないとだめ?」

 顔を顰めた少年は気乗りしていない様子だ。でも、子供を言いくるめることなど他愛ない。

 さて、ことの発端はランガが熱中症で倒れそうになったことにある。今は梅雨ということもあって気温以上に高い湿度が問題だ。

 そのとき、まさにナイスアイディアがひらめいた。この子とふたりで風呂に入ろう。

 なぜ風呂かって? 本格的な暑さを迎える前に、雪の国から来た少年の汗腺を鍛える。それが何よりもの熱中症対策だ。嘘ではない。

 まさに天啓だ。神様ありがとう。

「それは何度も説明したよ。三歳くらいまでで汗腺は完成するから、それまで涼しいところにいた君には沖縄というか日本の夏はキツイ。真夏になる前に汗腺を開いておいた方がいい。熱中症は怖いからね。そのための入浴だ」

 毎日スケートで汗をかいている彼に必要なことなのかどうかは怪しい。が、この際それは大した問題ではない。この無知な子供がそのことに気づくことはないのだから。

「沖縄の人は一年中シャワーだけでお湯なんかに浸からないって母さんも暦も言っていた。俺の家も暦の家も、バスタブ物入れになっているんだ。なのにあなたの家には、どうして大きなバスタブがあるの?」

「それは僕の趣味。でも君の熱中症対策に一役買うなんて、僕には先見の明があったね。ということで三十九度のお湯に最低二十分、一緒に浸かろう」

「二十分? そんな長い時間浸かるの?」

「できればもっと長くがいいよ。ぬるめのお湯に、ゆっくり時間をかけて浸かってたっぷり汗をかかないとね」

「あとさぁ、俺とあなた一緒に入る意味ある? それが一番の謎なんだけど」

 そこを突っ込んでくるのは、まあ想定内だ。この純朴な少年を丸め込むための言葉などいくらでも用意してある。

「まず、君はお湯に浸かるの慣れていないだろう? 飽きてバスタブから出て涼んだりしそうだからね。きちんと浸かっているかどうか監視しないと」

「俺のこと、信用していないの?」

「そうだね。君が自分の体を大切にしているかどうかってことに関しては、信用していない」

「むっ」

「それと君は、湯に浸かりながら、うっかり寝てしまうかもしれない。そんなことして溺れたら大変だからね。僕がついていてあげよう。もちろん寝てしまっても起こさないよ。君をこの腕にしっかり抱き留めてあげるから、安心して」

「寝ないし、なんか安心できない」

「でも、そうだな。一つだけ一緒に入らないで済む方法があるよ」

「何?」

「監視カメラ使ってランガくんが入浴している間、僕が外から見守ってあげよう。もちろんカメラの仕様で録画されるけどね。どうかな?」

「い、や、だ。それはもっと嫌だ」

「では決まりだ。入る前に水飲んで」

 冷たいミネラルウォーターのボトルを強引に押し付けた。

「ジュースはないの?」

「糖分が多いジュースは水分補給にならない。出たらご褒美をあげるから、今は水で我慢して」

 水を喉に流し込む少年の美しい横顔を保護者面で見つめた。ちょっと黒いニタニタ笑いを慈愛に満ちた微笑みで覆い隠しながら。


 脱衣室はそこだよ。先に入って準備して、と愛之介は水を飲み終えたランガの背中をポンと押した。

 無意識に鼻歌を歌いステップを踏んでしまうくらい心が弾んでいる。頬が緩み口元に締まらない笑みが浮かぶ。いけない、いけない。こんな顔、誰にも見せられない。思わず窓の外を確認する。盗撮ドローンでも飛んでいたら厄介だ。忠は抜かりないので間違いなく大丈夫だろうとは思っている。

 待てよ、その忠が撮影している可能性も無きしにも非ずだ。

 いや、前もって言っておくが、断じてランガに対して、性的なことをしようと企てているわけではない。諸々を一足飛びに飛ばしまくって、一気にことに及ぶ気など毛頭ない。そんなことをしたら、やっとここまで心を開いてくれた彼を裏切ることになる。

 ランガとは、刹那的な快楽を求め合うだけの関係にはなりたくない。エロいことなど爪の先ほどくらいしか考えていない。全く考えていないと言えば嘘になるので正直に白状しておく。だとしても、それはもう少し先の話だ。彼が性的、精神的に成熟し、自然に受け入れられるようになってからと決めている。それまで気長に待つつもりだ。それは今でも変わらない。


 おや? それなのに、なんで自分はランガと風呂に入ろうなどという発想になったんだ? あまりにも浮かれすぎていて失念していた。

 少しばかり記憶を辿り、すぐに思い出した。あまりにも前のことでそう思うに至ったエピソードを忘却していた。

 あれは、修学旅行のお土産をランガから手渡されたときのやり取りからだった。


「愛抱夢は何でも持っているし、行ったことないところなんてなさそうだから、気持ちだけ」と手渡されたお土産は可愛いゆるキャラのストラップ。君からのお土産なら何であっても宝物だ。ところが、修学旅行はどうだった? と質問した流れから、ある意味当たり前のことを思い知らされることになった。

「俺の肌、そんなに白い?」と彼はぽつりと言った。

「君は本当に色白、透き通るように白く美しい肌だよ? どうして今更そんなことを」

「一泊だけ共同浴場の旅館があって、みんなで風呂に入ったんだ。最初びっくりしたけど、日本ではハダカノツキアイって言うんだよね? そのとき、本当に色白いなってみんなに言われた」

「いやらしい目で見られたのかい?」思わず身を乗り出した。

 とりあえず、その連中のこと二、三発殴りに行っていいだろうか。

「俺、男だよ? そんなことないと思うけど。そのあと皆でお湯を掛け合ってふざけて先生に怒られた。暦なんか足滑らせて転んだけど、スケートで転び慣れているって自慢していた。みんなで、いっぱい笑って、楽しかったよ」

 無邪気なこの子の笑顔を見ればその楽しさは伝わってくる。が、このやりとりの中で強く意識させられた衝撃の事実。

 あの赤毛の親友はランガの全裸を見たことがあるのに、自分はない。それどころか裸の白いだろう胸も、ジーンズに覆われた長い生脚も拝ませてもらったことがないのだ。さらに鎖骨すら見た記憶がない。

 それが去年の秋のこと。まさかストレートに「見せて」と言うわけにもいかず、あれ以来ずっとモヤモヤを引きずっていた。

 そして突然、一緒に入浴する口実が降って湧いてきた。まさに千載一遇のチャンスだと思えた。


 大体脱ぎ終えただろうあたりのタイミングで、バスローブを手に脱衣室のドアをノックし「ランガくん、入るよ」と開けた。

 トランクス一枚になった少年の白い肌が目に飛び込んできた。彼はジーンズを丁寧に畳んで脱衣籠に置いて振り向いた。シャツも綺麗に畳んで重ねてある。

 初めて見せられたランガの裸体にしばし見惚れる。繊細で美しいが、しっかりとした筋肉のついたアスリートの身体だ。白い胸を彩る二つの薄紅は花開く前の蕾のようだと思った。少年らしいすらりと伸びた手足。子供ではない。かといって大人として成熟しきれていない微妙で危ういバランスを持った肉体が目の前にある。

「俺、先に入っているね」

 ランガは浴室のドアに指をかけた。

「ちょっと待って」

「何?」

「まだ下着脱いでいないだろう?」

「大丈夫だよ。これサーフパンツで下着じゃないから」

 何でもないようにカラッとランガは笑った。

 一緒に入るなんてこと、前もって知らせていない。なのになぜ用意した? もしかして警戒されているのか?

「どうして、サーフパンツを持ってきたのかな?」

 ランガは首を傾げ、不思議そうな顔をした。

「だって愛抱夢の家のバスタブ大きいって聞いて、俺、ジャクージー? と訊いたらそんな感じだって言っていた。だったらスイムウェア着るのがマナーだよね?」

 愛之介は内心頭を抱えた。

 そうだった。カナダやアメリカにあるジャクージー、日本での言うところのジャグジーは水着を着るのがマナーだった。

「俺、何か間違っている?」

 不安そうに見つめてくる少年のあどけない表情に、毒気を抜かれる。

 愛之介はため息をついた。

 潔く白旗を上げよう。

「うん、何も間違っていないよ。では、僕は自分の水着を用意してくるから、シャワーで身体でも洗って待っていて」

「わかった。早くね」


 忠に何でもいいから、なるべく早くスイムウェアを持ってくるように伝えた。

 こちらの計画は若干の修正を余儀なくされた。まあいい。機会はまだある。どうせ身につけているものはサーフパンツ一枚だ。長い手足も、適度な筋肉がついた白い胸も、しなやかな背中も、惜しげもなく晒されるのだから。

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