いつかその日が来るまで

 主人の機嫌が悪い。

 不機嫌ついでに、忠の役目だった愛之介の私生活に関するサポートを、なぜか「やらなくていい」と言い出した。例えば、「朝は自分で起きるから起こさなくていい」とひとりで起きられる宣言をする。は? と思い念のために確認すれば「くどい」と怒り出す。それで本当に起こさないでおくとギリギリまで寝てしまい、「どうして起こさないんだ」「いや僕が起こすなと言ったのか」「だとしても僕は忙しい」「疲労具合とか考えろ」「時と場合によるだろう」と苛立ちを隠せず口の中でブツブツ言っている。

 手助け無用と見得を切った手前、大々的に怒りをぶつけるわけにもいかないのだろう。その分、長時間イライラ状態が続くのが厄介だ。

 もちろん、忠以外の相手には、ニコニコと爽やかな神道愛之介スマイルは保っている。しかし、その反動かこちらへの風当たりがきつくなる。

 仕事上でのトラブルは認められない。忙しさはいつものことで、ここのところ特に睡眠時間が削られていることもない。体調に問題あるとも思えない。

 だとすると考えられる要因はひとつ。


 待ち合わせ場所のファストフード店にスケートボードを抱えやってきた少年は、忠の姿を見つけると向かい側の席に腰をおろした。

「こんにちは」

「急に呼び出してしまって済まなかったね、スノー」

「大丈夫。でもスネークが俺に話があるって初めてだよね。愛抱夢のこと?」

「そう、愛抱夢の様子が少し変なんだ。その理由を知りたい。その前に好きなもの頼みなさい」とメニューを渡す。

「じゃあ、オレンジジュースを」

「お腹空いているんだろう? 食べたいものも頼んで。プーティーンもある。こちらからお願いしてわざわざ来てもらったのだから遠慮しなくていい」

「はい」

 テーブルにハンバーガーとプーティーンとスープが並ぶ。「いただきます」と食べ始めるが、ガツガツではなくモグモグとゆっくりと咀嚼する口元は、犬でも猫でもなくウサギっぽい。

 空腹をある程度満たしただろうタイミングで切り出した。

「先日のSで愛抱夢と随分と長い時間話していたね?」

「話していたけど、そんなに長かったかな」

「どんな話題を?」

「スケートのアドバイスしてくれた。重心の掛け方とかスタンスとかの基本と専用シューズについて」

 スケートの話題が不機嫌の理由になるとは考えにくい。

「他に何か話さなかった?」

 彼は眉を寄せ唇を尖らせて、うーんと唸っている。

「どんな些細なことでもいいから、思い出せることを教えて欲しい」

「あ、そういえば、よくわからないことを言っていた」

「わからないこと?」

「人生の伴侶になって欲しいって」

「伴侶?」

 こんな子供に何を言っている? 十代の男子高校生にいきなり人生の伴侶とか面食らわせるだけだ。うちの主人の前頭葉は正常に作動しているのだろうか。ことスノーが絡むと脳内シナプスにエラーが生じるのか主人の判断力は極端に怪しくなる。

「伴侶ってパートナーのことだったよね」

 愛抱夢はベターハーフくらいの意味を込めていそうだが、面倒臭くなるのでとりあえず肯定しておく。

「まあ、そうだが。それで君はなんて答えたんだ?」

「『無理』って」

「一言?」

「うん」

 おそらく原因はこれだとわかる。その一言だけとは、あまりにもそっけない。そのときの愛之介の様子が目に浮かぶが念のため確認してみる。

「愛抱夢はどういう反応をしていた?」

「黙っちゃったんで言葉が足りなかったかなと思って理由をちゃんと説明したよ」

「どんな理由?」

「愛抱夢の伴侶はスネークだから」

 サラッととんでもないことを言い出す彼に、コーヒーを盛大に吹きそうになったが「ぶっ」くらいでなんとか堪えた。それでもむせてゲホゲホ咳き込んでいると「大丈夫?」と心配そうに忠の顔を覗き込んできた。

「問題ない。続けて」

「うん。そうしたら『それは誤解だよ』って、なんか慌てていた。それで『スネークは伴侶じゃなくて犬だから』とかなんとか」

 焦りまくった主人の姿が目に浮かぶ。

「確かに、私は愛之……いや、愛抱夢の犬だが」

 自分は何を言っているんだ? 犬犬言われすぎて、犬根性が染み付いているらしくナチュラルに肯定してしまった。愛之介が犬を持ち出しややこしくした話が、自分の不用意な一言でますます混乱に拍車をかけてしまう。

「スネークも昔ビーフで愛抱夢に負けたの? 実也も勝ったら暦に犬になってもらうって言っていたからSのルールに何かあるの? 日本語で他に意味あるのかと調べたら、DOG以外はスパイとしか出てこなくて。スパイが堂々とスパイって名乗るわけないし、わけわからなくなった」

 彼は首を右や左に繰り返し傾げていた。

 あまりにも邪気が無さすぎて、忠は内心頭を抱える。なんて説明したらいいのやら。

「私の父は神道家の使用人だ。私も愛之介様の秘書をやる前はお父様の秘書をしていてね。愛之介様は使用人の私を犬って呼ぶことがある。つまり犬とは雇用主である愛抱夢の使用人とか雇われている側を指しているんだ。愛抱夢は凡人には理解不能な言葉を並べる詩人だと考えてくれ。愛抱夢の言い回しは独特で普通ではない。深く考えなくていい」

「わかった」

 素直な子で助かる。

「それより、君はなぜ私が愛抱夢の伴侶だと?」

 犬より、この子が自分を愛抱夢の伴侶だと捉えていることが問題だ。

「愛抱夢にとってスネークは、いなくなると困る人だから。俺がいなくなっても困らない」

 スノーは大真面目な顔で真っ直ぐ忠を見た。

「私はただ雇われているだけだ。私がいなくなっても代わりはいくらでもいる。もっと有能な秘書を雇えば済むことだ」

「俺、政治家秘書の仕事ってわからないから、そう言われればそうなんだって思えるけどSはどうするの? キャップマンへの指示とかSに関しては全部あなたがやっているって最近知った。クレイジーロックへ行くためにヘリコプターの免許も取ったって聞いた」

「それだってS専用のスタッフを雇えばいい」

「あと朝起こしているんだよね? それって家族と同じだ」

「ちょっと待ってくれ。なぜ君はそのことを知っている?」

「なんでだろう? 愛抱夢がそれっぽいこと言っていたかも。他に俺をどこか連れて行こうとするときも、あなたが色々準備してくれていたんでしょう? いつも忠にやらせようみたいなこと言っているんだ。愛抱夢って本当にあなたを頼りにしているんだなって」

 呆れたことにダダ漏れしている。忠は額に指を当て嘆息した。この鈍いスノーにすら気づかせてしまうなど自分の主人は迂闊過ぎる。

「君はそのことを愛抱夢に言ったのか?」

「うん。スネークみたいに毎朝、愛抱夢を起こすことは無理だよって」

 それが、ひとりで起きる宣言のわけか。そのシンプルすぎる発想はどうかと思うが。

「今ままでの話で検討はついた。ありがとう」

 主人の機嫌が悪い理由は理解した。さて、どうしたものか。考え込んでいるとスノーが身を乗り出して訊いてくる。

「あの、もしかして俺が原因?」

「君は悪くない。それでも君のそっけない返し〈無理〉が愛抱夢に応えたんだろう。〈今はまだ考えられない〉というような保留だったら多分、愛抱夢は気にしていない。彼は意外と気が長いんだ」

 そうだ。彼は何年もイヴを待ち続けることが出来たのだから。

「俺いつも愛抱夢にしてもらうばかりで、あなたと違って愛抱夢の役に立つことなんて何もできていないし」

「私のような役に立つ便利なだけの都合のいい相手を、伴侶とは言わないだろう」

 スノーは首を傾げ少し考えているようだった。

「都合のいい相手ってスネークは違うよ。うまく言えないけど愛抱夢はあなたのこと頼っている。甘えているなって最近感じるもの。信頼していなければ朝起こすなんてプライベートなことまで頼まないよ」

 そんなふうに見えるのか?

 思わず否定しそうになった。裏切ったあの瞬間、全ての信頼を失っている。それは未だに取り戻せてはいないし、決して元には戻らない。

 もっとも、そんなこと事情を何も知らないこの子に話したところで詮無いことだ。

「愛抱夢との間に何があったのかなんて知らないけど、あなたは愛抱夢のスケートの先生だ。俺にとっての先生が、最初に滑ることの楽しさを教えてくれた父さんと、スケートの楽しさを教えてくれた暦なのと同じだよ。それはずっと変わらない。愛抱夢はあなたと滑るスケートが大好きだったんだ。きっと今だって」

「そんなはずは……」と言いかけるが、幼い愛之介の屈託のない笑顔が脳裏に蘇り、続く言葉を呑み込んだ。

 ——スケートってすっごく楽しい。忠、僕にスケートを教えてくれて、ありがとう。

 愛之介にとって楽しいのはスケートそのもだったのではないのか。それなのに自分と一緒に滑るスケートが楽しかった? そんなことは想像もできなかった。

 愛之介は父の主人である大旦那様の子息だ。自分とは住む世界が違う。それは一生変わることはないと今でも思っている。その壁は取り払うことは多分もうできない。あの人は主人で、彼に仕え支えることが自分の役目だ。

 それでもスケートなら、そんなものを飛び越えてしまえるのかもしれない。今はそう思い始めている。

「ねえ、俺に何かできることある?」

「伴侶の件は、〈無理〉と言ったこと取り消して〈保留〉ということにしておいてほしい」

「わかった」

「これから時間は大丈夫?」

「平気」

「今ならまだ私室にいるはずだ。偶然君を見かけて連れて行ったことにしよう」

「うん。プールで滑れる?」

「愛抱夢に時間があれば」

 おそらく主人はスノーの望みならば、無理をしても時間を捻出するだろう。

「滑れるといいな」

「それと、伴侶っていくつも意味があってね。パートナー、ベターハーフ、ソウルメイトもそう。あと仲間って意味もある」

「仲間?」

 少年の顔がぱっと明るくなった。

「ああ、必ずしもひとりってわけではない。自分と同じ道を共に歩んでいける相手であることだけを抑えておけば、君はまだ若いんだから決めなくていい。ただ、これからも愛抱夢と今まで通り素直に向き合って欲しい」

 そう、君の純粋さで主人をこれからもずっと受け入れてくれさえすれば、それで十分だ。それは多分、大丈夫だと忠は確信している。

 何故なら、この少年は赤薔薇の花束を受け取ったあの日から、一度も愛抱夢を拒絶したことがないのだから。

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