深海にある楽園

 亜熱帯の鬱蒼とした低木に覆われた薄暗い坂道を降っていく。浜辺へと向かう途中、視界が開けた瞬間、少年は「わぁ」と声をあげ立ち止まった。

「The way of the moon……月の道だよ。ランガくん」

 月の光が海面や湖面に反射してできる光の筋をそう呼ぶ。

「すごく綺麗」彼は目を輝かせた。

「気に入った?」

「うん。愛抱夢っていつも説明しないで強引に俺を連れて行こうとするよね。もう慣れたけど」

「僕はサプライズが好きなんだ。月の道もね、天候に左右されるだろう。雲がかかればアウト。今夜は運が良かった。さらに月の位置が高すぎても低すぎても綺麗に道はできない。これもあと三十分もしないうちに月は高く昇って光の道は消えてしまう」

「もし曇っていたら、どうしていたの?」

「もう一つのサプライズを予備で用意していたさ」

「それは何?」

「言えない。次のサプライズだからね」

 それから程なくして、月の道は消え満月は海面や浜辺を満遍なく照らしはじめた。手を繋ぎ誰もいない浜辺を歩く。聞こえるのは寄せては返す静かな波音だけ。

「そういえばさ、暦にしろ実也にしろ、近くにいくらでも綺麗なビーチがあるのに海で泳ごうとかしないよね。宮古島では少し海に入ったけど」

 足を止め少年の肩を抱いた。

「沖縄で海水浴したりダイビングやシュノーケリングしたりする人は、内地からの観光客や移住組ばかりだからね。沖縄の人にとっては、海は夜バーベキューして酒を飲むところだから」

「どうして入らないの?」

「また海水浴でもしたいの?」

「うーん、一度海に入って納得したというか。日焼け止め塗っても火傷みたいになって大変だったし暑くて調子悪くなったから。スケートの方が楽しい」

「君みたいな色白の子は気をつけないと。ここの紫外線は強過ぎて危ないよ。海はこうやって眺めて楽しめばいい。日中のエメラルドグリーンの海も綺麗だけど、僕は夜の海の方が好きかな」

「うん、わかるよ」

「沖縄の人があまり海水浴しない理由の一番は身近すぎて珍しくないからだと思うよ。それと海の恐ろしさを知っていることも大きいかな。毎年、海の事故で亡くなる人がいるけど、ほとんどが内地の人、観光客なんだ。ハブクラゲみたいな毒を持った生物もいるし。他にも海は神聖なところ、という刷り込みが漠然とあるのかもしれない」

「神聖なところって、暦もそう思っているのかな」

「赤毛くんというかほとんどの県民はそんなこと全く意識していないと思うよ。キリスト教でも仏教でもない沖縄の土着信仰がなんとなく染み付いているだけさ。ニライカナイって海の底にある理想郷がある。死者の魂が還る冥界でもあるんだ」

「死者? 冥界? よくわからない。そんなところが理想郷なの?」

「沖縄は先祖崇拝だからね。つまり亡くなったご先祖が守り神みたいな感じか。そのご先祖様がいるところだから理想郷」

 そこまで説明して、はたと気づく。なるほど繋がってしまった。

 理想郷……エデン、そして冥界。

 愛之介は、トーナメントで自分がやらかそうとしていたことに思いを馳せる。

 唯一のイヴを迎入れようとしていたあの世界。楽園エデンは愛抱夢にとって、まさに理想郷だった。

 ランガが一度あの世界を知れば、その素晴らしさを分かち合えると疑いもしなかった。俗世に身を置きながらでも、望めば何度でも繰り返しあのふたりだけの世界に耽溺できるのだと。

 何故なら、僕らはアダムとイヴなのだから。

 それが、思い出したくもない悪夢の準決勝。結果的には勝利したものの泥を被り惨めな姿を晒してしまった。それより最悪だったのは、ランガが愛抱夢から赤毛の少年を庇おうとするかのように立ちはだかったことだった。

 そのことは、お前はひとりぼっちなのだと愛抱夢に強い孤独を突きつけてきたのだ。

 ——僕を癒してくれるのはイヴだけだ。イヴを、君を手に入れなければ僕は癒されない。

 決勝戦で、急遽変更したコース。青紫のライトアップ。暗紫色の闇の中を滑る死と隣り合わせの危険なコース。ゴールに置かれた墓標、棺桶と十字架をモチーフにしたデッキデザイン。死へと誘う死神をイメージした衣装。

 あれは愛抱夢が演出した冥界だった。

 死にたかったわけではない。それでもふたりだけの世界の行き着く先にあるものが死であったのなら、納得いくような気がした。イヴのいない俗世で生きていくよりずっといい。イヴが永遠になれば、死すら新しい門出だと思えたのだ。

 身勝手なものだ。無理心中に等しい結末を迎えることも厭わなかったのだから。

 ランガは理解していた? 多分そうではない。ただ愛抱夢の心に触れてきただけだ。

 結果、光ささない闇の中で、うずくまったままの幼い愛之介の手首を掴み引っ張り出したのだ。

「愛抱夢?」

 掛けられた声に振り向いた。

「何?」

「黙り込んでどうしたのかなって」

 ランガの肩を抱く手に力を込め引き寄せる。雪を思わせる髪にキスをして耳元で囁いた。

「君を堪能していた」

「変なの」彼は、くすぐったそうに首をすくめた。

 思い起こせば、ランガは一度も愛抱夢、こと愛之介を拒絶したことはなかった。あの情熱の愛である赤薔薇の花束を受け取ってくれた、あのときから。そして今も。

 ならば、これからは?

 ふと不安が胸をよぎる。

 ランガは愛之介よりずっと若い。まだ子供だと言ってもいい。赤毛の親友をきっかけにして、これからも様々な人と交流していくことになる。出会いと別れを繰り返し、彼の世界はどんどん広がっていくのだろう。

 だとしたら、こうして彼がここにいてくれる保証はない。ランガがいなくなった世界を自分は受け入れられるのだろうか。耐えられるのだろうか。

 胸がざわつきはじめた。

「ねえ、ランガくん。もしも君が僕の側からいなくなりそうになったら、どうしようか」

 彼の両肩をつかんで向かい合う。ランガはきょとんとした表情で愛之介を見た。

「俺、いなくならないよ」

「もしもの話だよ。そうなったら、僕は君がどこにも行けないように閉じ込めてしまうかもしれない。僕にはそれをするだけの力があるんだ。そうだ、ふたりだけのコースは用意しよう。僕と一緒に住む家と、スケートのコース。それが君の世界のすべてになるんだ。どうかな?」

「いいよ」

 この子は、ちゃんと話を聞いていたのか? いいわけないだろう。

「君は、親友にも、お母さんにも会えなくなる。それで本当にいいの?」

「んー、それはいやかな」

「そうだろう?」

「でも、いいよ」

 たまにこの子の反応は困惑させられる。自分だけかと思ったら彼と交流のある連中が口を揃えて言う。その最たるものが、何の衒いもなく赤薔薇の花束を受け取ったことだ、とチェリーやジョーは笑った。

「君は僕の言っていること理解している?」

 ランガは、すっと視線を愛之介に向けた。その強い意思がこもった瞳に一瞬気圧される。この目を見たことがある。

 ——だったら、あなたも子供だ。

 あのときと同じ目だ。

「あなたが、そうしたいのなら気が済むまで、そうすればいい」凛とした声が静かに響いた。「そのうち気が済むよ。俺は大丈夫だから」

「馬鹿なことを。大丈夫なものか。いつ気が済むかなんてわからない。それまで僕は君を思いのままにできるってことなんだよ。そうなったら、もう歯止めは効かない。きっと君を傷つけてしまう」

 そうだ、たがが外れた僕は何をするかわからない。すでに妄想の中で何度も君を犯している。それもひどく残酷なやり方で。

 ランガは、すっと愛之介の首に手をまわした。

「怖いの? あなたのことテレビやネットでも見るよ。俺、政治家ってよくわからないけど、みんなから尊敬されて頼りにされている人なんだって知った。それに愛抱夢は、すごいスケーターだ。なのに、どうして? たまに怯えているように見える」

「ああ怖いさ。君を失ってしまうこと。僕はそれが耐え難いほど怖い」

 彼は愛之介の肩に、ことりと額を押し付けた。

「俺、どこにも行かないよ。それが信じられないのならそうすればいい」

 満月の光が、ランガの水色の髪に反射してキラキラと煌めいていた。

 愛之介はその髪を撫でため息をついた。

 負けたよ。

「君を抱きたいな」思わず漏れた偽らざる思いだった。

「ハグする?」

「そういう意味じゃない。君とセックスしたいってことなんだよ」

 ランガは肩から頭を持ち上げ、目を丸くして愛之介を見た。

 そのあと、およそ三十秒ほど視線を宙に泳がせて、再び愛之介を見ると「わかった」と頷いた。

 やはり、この子の反応は見ていて飽きない。

「抱かないよ」

 ランガは眉を寄せ、どうして? と言いたそうに口をへの字に曲げた。

「俺のこと揶揄った?」

「そうじゃない。抱きたいのは本音。でも、まだ君に無理をさせたくない。だから予約ってことにして。不満?」

 ランガは左右に首を振った。

 愛之介はランガの腰に腕をまわしグイッと引き寄せた。

「ではキスをしようか」

「うん」

 うなじから髪を持ち上げるように手のひらを滑らせ、後頭部をしっかり固定し長いキスのはじまりを伝えた。ランガの腕が背中にまわされた。

 銀色の月の光が降り注ぐ中、ふたりは抱き合いいつまでも唇を重ねていた。

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