宵闇の雨音

 雨は嫌いだ。

 そもそもスケーターで雨が好きなやつはいない。

 雨では滑れない。それ以前に水浸しになればデッキが駄目になる。


 その日、ちょうど配車されたタクシーのドアが開いたタイミングで、通り過ぎようとするランガが視界に入った。赤毛の親友と一緒だった。彼はちらりと愛之介の顔を見るが、少し目を丸くしただけで通り過ぎて行った。

ふたりの会話が聞こえてくる。

「知っているやつなのか?」

「いや」

 彼の親友はトーナメント決勝戦の夜、暗闇の中で愛抱夢の素顔をディスプレイ越しに少し見たかもしれないくらいだ。特にこのスーツ姿の自分とスケーター愛抱夢を同一人物とは思わないだろう。

 それより問題は。

「愛之介さん?」

 ランチをともにした令嬢が怪訝な顔をした。

「失礼しました。知り合いかと思ったのですが、人違いだったようです」

 笑顔で答え、愛之介は、その令嬢の手を取り、乗車を紳士的にエスコートする。

「短い時間とはいえ有意義な時間を過ごせました。本来はお送りするべきなのでしょうが、この後予定が控えておりまして」

「気になさらないで。愛之介さんはお忙しいのですから」

「申し訳ありません。この埋め合わせは必ず」

「楽しみにしています」

「僕の方から連絡させていただきます。では」

 令嬢はシートに座ると微笑み軽く会釈をした。

 ドアが閉まり走り出したタクシーを、爽やかな笑顔で見送った。それと入れ替わるように、黒い車が静かに近づいてきた。運転席から出てきた男が後部座席の扉を開いた。

「ご苦労、忠」

「下地様との面会時間が迫っています」

「わかった。すぐ事務所へ向かってくれ」

「かしこまりました」

 車に乗り込もうと屈んだときポツリとうなじに水滴が落ちた。見上げれば空は灰色の雲で覆われていた。

「やはり降ってきたな」

「これから雨足が強くなって、夜半には断続的に降ったりやんだりになるという予報ですが。Sは中止にしますか?」

「仕方ないな。参加者に連絡してくれ」

「はい」

 スケートのデッキは雨、というか水に弱い。少しばかり濡れたくらいなら問題ないことが多いが、びしょ濡れになれば、そのデッキは二度と復活しないと考えた方がいい。

 今夜は久しぶりにSでランガと滑ることができると思ったのに。雨は嫌いだよ。よりによってデートのタイミングを見計らって降るとは無粋極まりない。

 いや待てよ。そうだ、それならばとあるアイディアがひらめいた。


 マンションの前に車を止め、彼を待った。

「お待たせしました」

 助手席のドアを開けて彼は乗り込んできた。手にはスケートボードを大事そうに抱えて。

「ランガくん、それ」

「雨やんだし。滑れるかなと思って」

「一時的にやんだに過ぎないよ。雨雲レーダーをチェックすればわかる。これから降ったりやんだりを繰り返すんだ」

「そうなんだ」と彼はうなだれた。

「それに降らなかったとしてもコースはぬかるんでいたり水溜りがあったりする。濡らしてしまえばデッキは傷む。それ、お友達が作ってくれた大切なボードなんだろう?」

「うん」

 ランガはギュッと胸にスケートボードを抱き締めた。

 ずっと意識していなかったが、あの赤毛の親友がつくったスケートボードがなければランガはここまで才能を発揮することもなかった。そのことに意識が向いたのも、あのトーナメント決勝戦後だった。ずっとランガの滑りそのものにしか目がいっていなかったのだ。

 短時間でランガのスノーボードで培った滑りの癖を見抜き、最適化する。おそらくあの赤毛の彼も別の意味で特別な才能を持っているのだろう。そんな単純明快なことも今まで見抜けなかった。そこまで追い詰められていたのだ。当時の自分は、どこまでみっともなく余裕がなかったのか。忠が自分からスケートを取り上げようとしたのも、今ならなんとなくわかる。もっとも許しはしないが。

「だからスケートは諦めて」

「わかった。じゃあ、どうして俺に会おうって?」

「僕はやっとのことで時間を作ったんだよ。君とスケートができる、君と会える時間をね。スケートができないまでも、せめて君に会いたいと思ったっていいだろう? 次いつ時間をとれるかわからないんだから」

「それなら何をするの?」

「浦添あたりまでドライブしようか。上手く雨がやんでいれば公園の高台から夜景が見られるよ。上手くしなくても君とこうして一緒にいられるし。お腹空いたらドライブスルーでハンバーガーやプーティーンでも調達しよう。異存は?」

「無いよ」

 少年が微笑したことを見て車を発進させた。


 車を止め公園の高台まで二分ほど並んで歩く。雨はやんでいるが星は見えない。雲の切れ間はなさそうで、またいつ降ってきても不思議ない。

「へえ、綺麗だね」

 星が見えずとも、ここから眺める夜景はなかなかのものだ。

「雨が降っても街灯りが消えることはないからね」

 この天気だ。狙い通り人気はない。遠慮なく彼の肩を抱いた。

「ねえ今日の昼のことだけど訊いていい?」

「いいよ」

 察しはつく。

「一緒にいた女の人は?」

「気になるの? 嫉妬してくれたのかな」

 少し揶揄うように言えば、彼はムッとしたように口元をへの字に歪めた。

「そういうんじゃなくて、もし恋人とか婚約者とかだったら、俺こんなふうにあなたと会っちゃいけないかなって」

 ランガに下手な誤魔化しは話をややこしくする。正直に話した方がいいだろう。

「見合いで会った人だよ。少し前にね」

「見合いって、結婚のためのマッチング?」

「そうだね」

「結婚するの?」

「まさか。振られた」

「え?」

「振られたというのとも違うか。彼女まだ大学生だからね。親から言われて見合いも渋々さ。僕にとっても渡りに船。お互いの結婚したく無いという利害が一致した」

「そうなんだ」

「今日会っていた理由だけど、向上心も向学心も旺盛な女性で、大学卒業したらアメリカ留学したいらしい。なので、アメリカ留学経験のある僕から話を聞きたかった。それだけさ」

「そっか」

「でも、どうして婚約者や恋人がいたら僕と会えないと思ったの?」

「もし父さんが生きていて、あなたが俺に会うみたいに父さんが誰かと会っていたら、母さん悲しんだり怒ったりするかなって」

 ズキッと胸が痛んだ。

 彼と自分を納得させるような言葉を探した。しかし見つけることはできなかった。

 押し黙ったまま、腰をぐいっと引き寄せれば布地越しに穏やかな体温が行き交った。コトリと肩に彼の頭が乗った。心地よい重さだ。

 絹糸のような髪を指で梳きながら唇を寄せた。

 そのとき、ぽつりと手に水滴が落ちた。続いて、頭に肩に腕に背に、そして地面に、大粒の雨がパタパタと激しく打ちつけはじめた。本格的に降り出した。

 不意に密着していた熱が体から離れた。

「降ってきたね。車に戻ろう」

 くるりと背を向け彼は走り出した。

「待って、ランガくん」

「愛抱夢、急いで」

 遠ざかる彼の背中を追いかけた。

 待て、行くな。僕のそばから消えないでくれ。

「ランガっ!」気がつけば彼の名を叫ぶように呼んでいた。

 追いついた愛之介は、少年の背後から腕を回し引き留めた。すがるように。そのまま折れるほどきつく抱きしめた。

「愛抱夢?」

「待ってくれ」

「早く戻らないと」

「もう少し、もう少しこのままで」

「濡れるけど」

「濡れてもいいさ」

 言いながら、うなじにかかる髪を鼻で掻き分け彼の首に顔を埋めた。ランガはくすぐったそうに首をすくめるが、愛之介の手首を軽く掴んだだけで引き剥がそうとはしなかった。

 抵抗がないことに安堵して拘束する力を緩めた。首筋に唇を這わせてから、首を捻るように自分の方へと向けさせれば不思議そうな表情でじっと見つめてくる。しとどに濡れ頬に貼りつく髪をそっとどけ顔を近づける。ランガは素直に目を閉じた。

 ——僕は、君がいい。ずっと一緒にいて欲しいのは君だけだ。

 そんな言葉を呑み込み唇を重ねた。

 激しさを増す雨音が、宵闇の中へ静かに吸い込まれていった。

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